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XLV 診療所-II
しおりを挟むやはり、先生は動物の猫の話をしているのではない。そんなに優しい笑みを漏らす様な相手なら、きっと娼婦の類でもないだろう。
ふと、先生の左手に視線を落とした。薬指は空で、指輪は嵌っていない。となると、恋人だろうか。
無意識的に、自身の左手の薬指を撫でる。
恋人や結婚、それ等の話を聞いたり考えたりすると、薬指に触れてしまう。それは最早癖となってしまっていた。
指輪等無くとも、愛されている事には変わりない。今日だって、わざわざ仕事の休みを取って検診に付き添ってくれているでは無いか。
そう分かっているのに、先生の優しい表情を見ていると何処か胸の奥がきゅっと締め付けられる様な感覚を覚えた。
「――先生が、そんな顔をするだなんて珍しい」
彼の細められた瞳を見つめ、ぽつりと呟く。
「先生にとって、余程可愛い“猫”なのでしょう」
なるべく、穏やかに。
心の内の感情を覚られぬ様、彼に優しく微笑みかけた。
私の顔をまじまじと見つめた先生が、何やら考え込む様な表情を浮かべる。しかしそんな顔も束の間、普段通りの無表情を浮かべ私の言葉にコクリと頷いた。
「――妊娠と出産について、色々と書かれた本です。参考までに、読んでみてください」
診察が終わり、先生から差し出されたのは茶表紙の分厚い本。見るからに、医者専用の医学書だ。
とてもじゃないが、妊婦に勧める本ではない様に見受けられる。
しかし、医者が勧める物だ。もしかすると、医学書に見えるだけかもしれない。妊婦にとって為になる事が書かれている書物かもしれない。
「これは医学書……ですか?」
そう願いを込めて問うと、私の希望を打ち壊す様に先生は何食わぬ顔で頷いた。
「母親の食事や常日頃の行動がどう胎児に影響するのかや、出産の手順、危険や胎児の成長過程等、色々と細かく書かれていますよ。僕が今迄読んだ医学書の中で最も優れた本です。出来る事なら旦那様にも読んで頂きたい。妊娠生活は短い様で長い期間なので、是非隅から隅までしっかりと読んで頭に入れておいてください」
心做しかその瞳は輝いていて、普段より早口で饒舌だ。そんな先生に圧倒されつつ、「先生がそう言うのなら」と言って差し出された本を受け取った。
本は想像していたよりもずっと重く、ズシリと片手に伸し掛かる。その本を落とさない様慌てて両手で持ち直し、胸に抱えた。
「次は旦那様とのカウンセリングです。呼んできて頂けますか」
ソファに座った先生がカルテに視線を落としながら、先程の優しい表情は何処へやら少々不愛想に告げた。その言葉に頷き、「ありがとうございました」と一言声を掛けて診察室の扉を開く。
「――!」
ふわりと、視界の隅で揺れたオフホワイトのカーテン。それは診察室を出て左側に掛けられた物で、カーテンの奥は恐らく患者が立ち入る事の出来ない場所だ。
風や扉の開閉による振動が原因ではない、不自然な揺れ。それに、カーテンと床の間に出来た隙間に僅かな人影が見えた。
この診療所には、先生以外の医師は居なかったと把握している。看護婦も居らず、先生1人で患者の手当や診察をしていて嘸かし大変だろうと思っていた。
患者ではない、来訪者だろうか。
この場に漂う、鼻腔を擽る甘い香水の香り。それは何処か覚えのある香りで、カーテンの向こう側に居る人物が無性に気になった。
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