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XLV 診療所-I
しおりを挟む「――先生、あの……」
エドワード・マクファーデン医師が務める小さな診療所。
アルコールのニオイが充満する清潔感溢れる診察室には、医学書がびっしりと詰められた棚が3つと、座り心地の良いアームソファが2つ置かれている。
壁紙とカーテンは目の痛くならない無地のオフホワイトが選ばれており、良く言えばシンプル、悪く言えば殺風景な空間が広がっていた。
そんな中、先生はデスクの前のソファに、私は患者用のソファに腰を掛けていた。
診察室へ入り、早10分。診察と言っても、母体や胎児に変化がないかの確認位であり、日常生活で困った事や気になる事、変わった事が無いか等のカウンセリングが殆どを占めている。
そしてその診察兼カウンセリングが終わりに近づいた現在、此処へ入ってきた時からずっと思考を埋め尽くしていた事を躊躇いながらも口にした。
「その頬、どうしたんですか……?」
先生の頬には、見る人全ての目を引くであろう大きな引っ掻き傷。その大きさや形からして、明らかに人の物だ。
その様に人の頬に引っ掻き傷を残せる人物と言えば、爪の長い女性位しか思いつかない。
痴情の縺れ、だろうか。
幾ら医者であれど彼も人間であり、恋人を作る事だって、娼婦を買う事だってする筈だ。普段の振る舞いからはセドリックと同じく女性に興味がある様には見えなかったが、もし本当に痴情の縺れ故の傷なのだとしたら、それを訪ねるのは無粋だったかもしれない。
しかし彼は、相変わらずの無表情で淡々と答えた。
「猫を抱いたら引っ掛かれてしまって」
「…………猫?」
思わず、彼の言葉を聞き返す。
彼はそしらぬ顔をしているが、その傷が猫の類では無い事は明らかだ。
そこでふと、とある台詞を思い出した。
「うちの猫が、外で飲むのを嫌がるんだ」
それは、屋敷に居た頃に読んだ本に出てきた男性の言葉だ。その男性は、知人に妻の話をする際“猫”と表現していた。
しかし、その男性はかなり社交的でユーモア溢れるキャラクターであった。故に妻を“猫”と表現していても違和感は無かったが、女性の影が見えないだけで無くあまり社交的でもない先生が恋人を“猫”だなんて表現するとは到底思えない。
もしや、本当に彼の言う様に猫なのだろうか。再び、「……猫」と復唱する様に呟くと、先生が小さく頷いた。
「――ええ、とても気が強くて乱暴で、警戒心の強い子ですが」
彼の顔に浮かぶのは、今迄に見た事が無い程の優しい表情。相変わらず感情の読みづらい顔ではあるものの、誰かを想っているのは見て取れた。
「馬鹿みたいに律義で、人の心に繊細で、天使の様に可愛い猫です」
眼鏡の奥のバイオレットの瞳が、柔らかく細められる。
「自分より他人を優先してしまう事が玉に瑕ですがね」
何を思い出したのか、彼が嬉しそうにくすりと笑みを漏らした。
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