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XLII 甘いシトラス-I
しおりを挟む雨上がりの街。
ペトリコールが充満する路地裏にて、広がる灰色の空を見上げ溜息を吐く。
診療所へ行って、2日が経過した。
ライリーから聞いた妊婦の自殺の話も、髪飾りが壊れてしまった事も、たったの一晩で気持ちが切り替えられる筈は無く、何を見ても何をしていてもそれ等と身籠った赤子の事が常に私の頭を埋め尽くしていた。
ほんの一瞬たりとも忘れる事は出来ず、食事も喉を通らない。その為、もう2日間もまともな食事が出来ていない。
ただただ、心労だけが募っていく。
ライリーや街の人達と会話をする気分にもなれず、今日は店の方には行っていなかった。料理を作る食材に幾つか足りない物があるが、セドリックの分さえ作れれば問題無いだろう。
人通りの少ない路地裏選び、1人当てなく進んでいく。
主治医であるマクファーデン先生には、無暗に歩き回らない様に、と言われていた。食材の買い出しも、極力1人で行かない様にとも。
妊娠初期は母子ともに非常に不安定であり、些細な事が流産に繋がる可能性があるのだとか。
それを聞いて私は、セドリックに知られぬまま子が流れてしまえばいいのにとさえ思った。そうすれば、もう悩む必要は無いのに。夫婦仲に罅が入る事も無いのに。
ただ、少しの後悔が残るだけで済むのに。
路地裏の一部にある、少し長い石の階段。丁度そこへ差し掛かり、段差の前で足を止めた。
階段を見下ろし、ぼんやりと思考を巡らす。
もし私が此処で転んだら、階段から落ちたら、もう何も考えずに済むだろうか。全てから解放されるだろうか。
階段の長さを見るに、落ちても命に関わる事は無い筈だ。きっと、軽症で済むだろう。だが、確実にお腹の子は助からない。
そんな考えが頭の中をぐるぐると回り、階段を降りられずその場に立ち尽くしていた。
階段から落ちた事も、子供が流れた事も、セドリックの耳に一切入れないという事は出来る筈が無いのに、目先の事に囚われてしまい冷静に考えられない。
もっと、しっかりしなければ。これでは駄目だ。
そう、どれだけ自身に呵責を与えても、その思考からは逃れられる事は無かった。
――苦しい。
何度その言葉をセドリックに伝えようとして、飲み込んだ事だろう。
伝えようとしても、結局寸前になって喉奥が塞がった様に声が出なくなってしまう。
妊娠した事を聞いて、困惑する彼の顔が、拒絶する彼の言葉が、まるで現実の事柄の様に脳内に鮮明に浮かんでは消える。あの時の、メアリーの夢の様に。
いつまでもこんな場所で立ち尽くしていたって仕方が無い。無意識的に手を遣ったお腹を撫でながら、片足を前に出した。
このまま落ちてしまえばいいのに、なんて思いながら、ゆっくりと階段を降りていく。
――ふわりと、鼻腔を抜けたシトラスの甘い香り。
とても落ち着く香りだ。誰かの香水だろうか。その香りに釣られ顔を上げると、自身と擦れ違う様に階段を上ってくる女性と視線が交わった。
ストロベリーピンクの瞳に、色素の薄い肌、薄紅が混じった美しい白髪。何処か修道着を思わせるデザインのドレスに強く目を惹かれる。
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