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XXIX 失われた時間-II

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「風呂と着替えで帰ってきただけだ」

 彼のその一言がやけに刺々しく感じ、胸がチクリと痛む。

「ご飯は?ちゃんと食べれている?」

「ああ、ジャックが軽食を用意してくれているからな」

「睡眠は?顔色が悪いけれど、ちゃんと眠れているの?」

「……お前が心配する事は何もない」

 寝起きで頭がはっきりとしていないからか、それとも1人の時間が長かった不安からか、まるで問い詰める様な言葉が口から零れて止まらない。そんな私に、彼は少々鬱陶しそうな声音で返答する。

「あまり根詰めすぎると、身体を壊してしまうわ」

 チェストの中から着替えを取り出すセドリックの背に、それでも尚止まらない言葉を投げかける。

「コンサートの途中で倒れたりなんてしたら大変。お願いだから、もう少し休んで――」

 バタン、と大きな音が部屋に響き渡る。その音に、言葉が途切れ肩が震えた。
 私を黙らせたのは、彼がチェストの扉を乱暴に閉めた音。
 ――“お前が心配する事は何もない”。そう彼が言った時点で、言葉を止めておけば良かった。
 だが、後悔してももう遅い。


「――うるせぇな」


 表面張力で保っていた水が、決壊した様な。そんな例えがしっくりくる、彼の静かで強い苛立ちの籠った声。

「……お前が、あの時余計な事を言わなければ……こんな事しなくて済んだんだよ」

 その声は、淡々としている様で僅かに震えている。

「引き受けた以上、仮に身体を壊してもやるしかねぇだろ。公演を含めたこの6日間で、1年仕事をしなくても生活出来る位の金積まれてんだ」

 此方に背を向けている所為で、彼の表情は見えない。だが、その苛立ちは痛い程に伝わってくる。

「あぁ、でも――」

 ゆっくりと振り返り、彼が私と視線を合わせた。

「――お前が心配してるのは、俺の事じゃねぇか」

 その顔に浮かんだ、嘲笑にも似た悲し気な顔。

「俺が身体壊して、公演中に倒れたりでもしたら、あの女のコンサートが台無しになるもんな」

「ち、ちがっ……」

「何が違うんだよ」

 咄嗟に否定を口にするも、彼が高圧的に私の言葉を遮る。
 私を見つめるローズレッドの瞳。いつも、その瞳が宝石の様で美しいと感じていた。だが今の彼の瞳には光が無く、まるで深海の様な闇を孕んでいる。
 沸き上がるのは、いつか父に感じた恐怖心に似た感情。咄嗟に彼の瞳から、視線を外す。
 その瞬間、彼がふっと溜息を吐く様に笑みを零した。

「……本当に、何も違わないのかよ」

 独り言の様に呟いた彼が、私の隣をすり抜け脱衣所の扉を開く。
 頭の中を埋め尽くすのは、酷い後悔と彼への弁解。

 何故彼の気持ちを考えずに、あの場で勝手な行動を取ってしまったのだろう。自分の意に反する状況が、どれ程苦痛か私は誰よりも知っている筈なのに。

 ――私は他でも無い“貴方”を心配している。アリスの事もコンサートも、どうだっていい。ただ貴方に苦しい思いをして欲しくない。

 幾らだって言いたい事はあるのに、まるで喉奥が塞がってしまった様に声が出ない。
 ぱたりと、脱衣所の扉が閉まる。

「――違う」

 そこで漸く、零れた言葉。
 今更弁解したってもう、彼はこの部屋に居ない。

「私は、ただ――……」

 ぽつりぽつりと溢れた涙がテーブルに落ち、小さなシミを作っていく。
 
 引き止めたかった。
 引き止められなかった。

 自身の行動も、彼の棘のある言葉も、容赦無く自身の心を抉る。その中で何よりも失望していたのは、彼の意志を尊重出来なかった自分自身だった。
 貴族令嬢は、傲慢で我儘だ。全てを自分の思い通りに動かそうとする、貴族社会の中でも厄介な存在。
 自分は、違うと思ってた。自分は、そんな人間では無いと信じて疑わなかった。

 でも、違った。

 私は、今も何処かで傲慢に、我儘に生きている貴族令嬢と何も変わらない。
 最愛の彼を苦しめる位なら、屋敷で1人死を願ったあの頃に戻ってしまった方が余程マシだ。
 そんな想いが、自身の心を侵食するように黒く染めていった。


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