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XXXI 借家-II
しおりを挟む気温がぐっと下がり、冬を感じ始める11月上旬。革のトランクケースを2つ両手に持ち、私は借家の玄関に立っていた。
「――今迄、お世話になりました」
結局、あの日シーラに頭を下げてまで待ってもらった10月分の家賃を、私は払う事が出来なかった。
勿論、お金を作る努力はした。あれ程物で溢れかえっていた自室の荷物を、トランクケース2つに収めてしまえる程には手放した。それでも、やはりあの女が邪魔をして、家賃分すらも作る事が叶わなかった。
中には、家賃を滞納しても数ヵ月は家に置いてくれる借家もあるらしい。全ては大家次第だ。しかし、シーラは家賃滞納を許す程お人好しでは無い上に、私は彼女から嫌われている。仮に私がエルの様に慎ましく品があり、彼女に気に入られる程の人物だったらまた違ったのかもしれない。それでも、今回の件でシーラを責める事は出来ない。全ては、家賃を滞納した自分が悪いのだ。
「ええ、本当に。貴女のお世話は大変でした」
「お世話という程のお世話はされてない気がしますけどね」
「最後の最後まで生意気な方ね。最後位、良い顔は出来ないのかしら」
「それは此方の台詞でもあるんですがね。私、あの時本を水浸しにされたの未だに許してませんから」
「別に、許して頂かなくても結構よ。私は悪くありませんもの」
この借家ではそれなりの期間を過ごしてきたが、シーラの顔を見ていると欠片も感傷的な気持ちにはならない。最後まで、シーラはシーラのままだ。しかしまぁ、此処で優しい一面を見せられたらそれはそれで困ってしまうのだが。
本来、家賃を滞納した分際で彼女を悪く言う事は出来ないのだが、此処まで憎たらしいと悪態の一つもつきたくなってしまう。
「本当に、性格の悪いお方で」
「其方こそ」
彼女の顔に、意地の悪い笑みが浮かぶ。ジリジリと耳の奥が焦げる様な、悪意を向けられた時特有の音は変わらない。此処まで来ると、清々しく感じる程だ。
「もう二度と、貴女と会う事はないと願っておりますわ」
「……」
彼女の言葉に無言の微笑みで返し、やや強めに玄関扉を開いた。
「では、私はこれで」
シーラの顔を見ることなく、たった一言告げ後ろ手で扉を閉める。
――これからの事は、何も考えていない。とりまず、セドリックに気付かれる迄は職場の書斎に籠っていよう。多少誤魔化すのが大変だが、彼はエルを娶ってから職場に居る時間が極端に短くなった。気付かれる心配も、暫くは無さそうだ。
家を失くした事は、気付かれてから言えば良いだろう。心配を掛ける事は、極力したくない。
少々重たく感じるトランクケースを両手に持ちながら、1人街を歩く。
マクファーデンにも、結局本を渡されてから1度も会えていない。私が診療所へ行っていない故当然なのだが、彼に会えない寂しさが募っていくのを感じていた。
書斎に着いたら、少しだけ渡された本を読もうか。しかし、冒頭数ページを読んでみたが全く内容が理解出来ず、早々に飽きて読むのを放棄してしまった。再びあの本を読む気にはなれない。だが彼に会う為には、あの本を読み通す必要がある。
困ったものだ。あの本がきっかけで、このままマクファーデンと疎遠になってしまうのだろうか。
いや、私が無理にでもあの本を読み通せば良いだけの話だ。
――考えてみれば、私とマクファーデンの関係に名前はあるのだろうか。
セドリックと私は幼馴染であり、家族である。そしてエルとは友人だ。では、マクファーデンとは?
医者と患者。
その関係が、最も近いだろうか。しかし、彼は私に医者らしい事は何もしていない。私は彼の、患者ですらない。
あの本だけが、私と彼を繋ぐ梯。
少しでも早く書斎へ行って、あの本を読もう。理解出来なくとも、つまりは読みさえすれば良いのだ。元々、私は本を読む為だけに読み書きを習った。本を読む事には、何よりも長けている。
重いトランクケースを持ち直し、それだけを胸に職場までの道を駆けた。
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