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XXXI 借家-I

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「おかえりなさい」

 ――23時半。
 流石のシーラももう床に就いた頃合いかと思い、こっそりと音を立てずに借家まで戻ってきたが、玄関を開けた先には寝間着姿のシーラが立っていた。

「あ、えっと、ただいま……です」

 足音を立てぬ様にと家の前で靴までをも脱いだというのに、それも全て無駄な行動だった様だ。両手に持った靴を背後に隠し、愛想笑いをシーラに見せる。

「――今月のお家賃、まだ頂いておりませんわ」

「あ、あぁ……あの、何とかします、直ぐに」

「そう、この前も同じ事を仰っていましたが……。払えないのなら、出て行って頂いて構いませんのよ」

「……」

 家賃は、決して高くはない。セドリックより収入の低い私でも、毎月決められた日に支払う事ができ、趣味の化粧品や洋服、紅茶に手を出してもまだ余裕がある程の額だ。
 しかし今の私には、一切の余裕がない。その理由は言わずもがな、“あの女”の所為だ。
 2、3日に1度姿を見せては、漸く手にした収入をごっそりと持っていかれる。その為未だ、シーラに今月分の家賃の支払いが出来ていなかった。
 それだけでは無い。最近金銭的に余裕がない所為で飢えを凌ぐ程度でしか食事がとれておらず、体調の優れない日が続いていた。この生活が続くのならば、此処を出て行く事も考えなければならない。
 セドリックに事情を話せば、屋敷で寝泊まりをする事を許して貰えるだろうか。そんな事を考えながら、シーラに向かって深く頭を下げた。

「ごめんなさい、直ぐに何とかします。何とか出来なかったら、その時は此処を出て行きます。なので、もう少しだけ待ってください」

 シーラも、私が此処まで素直に頭を下げるとは思わなかったのだろう。驚く様な、形容しがたい感情が伝わってくる。それは、シーラから初めて感じ取ったものでもあった。

「……あと少し、ですからね」

 彼女が溜息交じりに呟き、そのまま踵を返す。頭を上げると、一瞬此方を振り返った彼女と目が合った。

「今回は意地悪で言っている訳ではありませんから。貴女とは相性が合わないと常々感じておりましたが、これは大家としての注意です。私情は挟んでおりません」

「分かってます」

 普段から意地悪を言っている自覚はあったのか、なんて思いつつも、彼女に再び頭を下げる。
 彼女の足音が遠ざかり、扉が閉まる音が聞こえ、漸く深く息を吐いた。

 私は彼女――シーラ・ガードナーが大の苦手だ。いや、“嫌い”なのかもしれない。
 そんな彼女に、頭を下げる事は屈辱的な事でもあった。
 しかし今回の事は、シーラに非はない。悪いのは私だ。それでも、あの女が脅して来たりなどしなければこうなる事は無かった。

 ――情けない。

 あの女の脅しで、素直に従ってしまう自分が何よりも情けない。
 本当なら、自身の手でセドリックの事もエルの事も守ってやりたかった。弱みを握られて、無様にも金を渡してしまうだなんて、情けない事極まりない。

 ゆっくりと頭を上げ、顔に掛かった髪を手で払う。そして靴を手に持ったまま、階段を上がった。
 今手に持っているこの靴も、貴族から買い取ったものだ。申し分ない程良質であり、売ればそれなりの金になるのは分かりきっている。
 デザインも気に入っていて、履き心地も良い靴ではあったが、自身は服や靴を多く所持している。この一足が消えたところで何も困る事は無い。
 心にぽっかりと穴が空いた様な虚無感を抱きながら、自室の前で立ち止まり、冷えた手で扉を解錠した。隣の部屋の住居者は、確か今ぐらいの時間に仕事に出ていると言っていた筈だ。不在ならば、少しくらい物音を立てても許されるだろう。
 扉を開き、部屋を一周見渡した後、再び溜息を吐いた。


 ◇ ◇ ◇
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