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XIV 追憶-生血- -II
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――辿り着いた診療所の前。自身の両膝に手を突いて乱れた呼吸を整え、額に滲んだ汗を手の甲で拭う。品格を求められるこの国で、街を全力で駆けるなんて普通では考えられない行為だ。もしそんな人物が居たとしたら、その人物にとって緊急を要する“何か”があった時だろう。故に、擦れ違う人々から「一体何事か」と“好奇心”、“興味”、“心配”、“不安”などの様々な感情が流れてくるのを感じた。
しかし私は、誰が何を思おうと街を駆け抜けるのが好きだった。幼少期は、子供故に街を駆け抜けていても周囲から関心を寄せられる事は無かったが、この歳になると流石にそうもいかない。
中には、“何か事件でもあったのではないか”などと不安を抱く人物もおり、徒に不安を抱かせてしまうのは忍びなく思う。だがそれでも、滲む汗に早鐘を打つ心臓、空気を求める肺や駆け抜けた後の爽快感には心地良いものがあった。
不謹慎ではあるが、いつか身に着けた護身術で大柄な男を相手にしてみたいとすら思う。しかし護身術はあくまで“相手を打ち倒すもの”では無く“自分が安全に逃れる為のもの”だ。その様な人物を相手にするのなら、戦闘術を身に着けるべきだろうか。
とにかく、いつか目一杯に身体を動かしてみたい。それに、強烈なスリルも味わいたい。こんな足に纏わり付く邪魔なスカートなどでは無く、紳士服を身に着けて。
漸く息も整い、そろそろ良いだろうと一度身体を伸ばした後診療所の扉を開いた。からりと、心地よいドアベルの音が鳴る。
「――おや、また来たんですか」
カーテンの奥から顔を覗かせたのは、エリオット先生の後任医師、エドワード・マクファーデンだ。
「貴方に、会いに来たんじゃない」
「分かっています。二階の、“あの方”にでしょう」
彼は、何を考えているか分からない人だ。彼がこの診療所に来てまだ日は浅いが、初めて彼と顔を合わせた時から未だに、彼の心が読めた事は一度でも無かった。それが、私にとっては不気味で仕方が無い。
普通の人間は、人の心など読めない。そんな事、頭では分かっている。しかし、人の心が読めない事がこんなにも怖くて不安なのだという事を、目の前の彼と出会って改めて覚えた。だがそれと同時に、人の心を読まなくても良い心地良さというものも知った。
彼が何を考えているか分からず不安ではあるが、人の心を覗き見しなくて良い安堵感に満たされる。
それでも、私にとっては初めての感覚でしかなく、目の前の男――エドワード・マクファーデンが私にとって苦手な人物だという事には変わりなかった。
「あの、余裕があれば、で構わないので“彼女”の面倒も見てやって貰えますか」
「彼女?」
彼の言葉に、首を傾げる。すると、彼がカーテンを開き奥の部屋を見せた。
奥の部屋のテーブルに着いているのは、この前3歳になったばかりのノエルだ。彼女は子供にしては随分と大人しく、泣いたり叫んだりする事も無い非常にいい子だ。私にも懐いてくれていて、子供は少々苦手であるが、彼女の世話をするのは苦では無い。
「――分かった。マリアちゃんと話が済んだら、あの子と少し遊んでいくよ」
「お願いします」
彼の隣を擦り抜け、二階の部屋に繋がる階段へと足を向ける。その途中、私に気付いたノエルが顔を上げた。
「まーしゃ」
子供特有の舌ったらずな声で名前を呼ばれ、寄り道をする様にふらりとノエルに近付く。
「ママのところ、いくの?」
「うん、少しお話してくるね」
エリオット先生によく似た、糸の様に柔らかなアッシュグレーの髪をそっと撫でると、ノエルが顔を綻ばせた。
二階に続く階段を上りながら、脳内でどうマリアに説明をするかを考える。彼女は、ノエルをどうにかして借金取りから逃がしてやりたいと言っていた。親の心理を考えれば、無理もない話だ。自身の娘が競売にかけられ、得体の知れない人物に買われ痛めつけられる位ならば、自ら手放してでも幸せになれる場所へ逃がしてやりたいと思うものだろう。
しかし、それは最終手段の話だ。決して手放す事が彼女の本懐では無い。
朝目覚めた時にはいち早くマリアに知らせなければと思っていたのに、直前になって怖気づいてしまったのだろうか。足が竦んでしまい、上手く階段を上る事が出来ない。
だが、そんな事を言っている場合では無いのも分かっている。今マリアとノエルを救えるのは、この道しかないのだ。
無理矢理足に力を籠め、残りの階段を全て上り切った。そしてマリアの住む部屋の前で立ち止まり、深呼吸を繰り返す。
大丈夫、彼女なら分かってくれる筈だ。そう自身に言い聞かせ、扉を4度ノックした。
しかし私は、誰が何を思おうと街を駆け抜けるのが好きだった。幼少期は、子供故に街を駆け抜けていても周囲から関心を寄せられる事は無かったが、この歳になると流石にそうもいかない。
中には、“何か事件でもあったのではないか”などと不安を抱く人物もおり、徒に不安を抱かせてしまうのは忍びなく思う。だがそれでも、滲む汗に早鐘を打つ心臓、空気を求める肺や駆け抜けた後の爽快感には心地良いものがあった。
不謹慎ではあるが、いつか身に着けた護身術で大柄な男を相手にしてみたいとすら思う。しかし護身術はあくまで“相手を打ち倒すもの”では無く“自分が安全に逃れる為のもの”だ。その様な人物を相手にするのなら、戦闘術を身に着けるべきだろうか。
とにかく、いつか目一杯に身体を動かしてみたい。それに、強烈なスリルも味わいたい。こんな足に纏わり付く邪魔なスカートなどでは無く、紳士服を身に着けて。
漸く息も整い、そろそろ良いだろうと一度身体を伸ばした後診療所の扉を開いた。からりと、心地よいドアベルの音が鳴る。
「――おや、また来たんですか」
カーテンの奥から顔を覗かせたのは、エリオット先生の後任医師、エドワード・マクファーデンだ。
「貴方に、会いに来たんじゃない」
「分かっています。二階の、“あの方”にでしょう」
彼は、何を考えているか分からない人だ。彼がこの診療所に来てまだ日は浅いが、初めて彼と顔を合わせた時から未だに、彼の心が読めた事は一度でも無かった。それが、私にとっては不気味で仕方が無い。
普通の人間は、人の心など読めない。そんな事、頭では分かっている。しかし、人の心が読めない事がこんなにも怖くて不安なのだという事を、目の前の彼と出会って改めて覚えた。だがそれと同時に、人の心を読まなくても良い心地良さというものも知った。
彼が何を考えているか分からず不安ではあるが、人の心を覗き見しなくて良い安堵感に満たされる。
それでも、私にとっては初めての感覚でしかなく、目の前の男――エドワード・マクファーデンが私にとって苦手な人物だという事には変わりなかった。
「あの、余裕があれば、で構わないので“彼女”の面倒も見てやって貰えますか」
「彼女?」
彼の言葉に、首を傾げる。すると、彼がカーテンを開き奥の部屋を見せた。
奥の部屋のテーブルに着いているのは、この前3歳になったばかりのノエルだ。彼女は子供にしては随分と大人しく、泣いたり叫んだりする事も無い非常にいい子だ。私にも懐いてくれていて、子供は少々苦手であるが、彼女の世話をするのは苦では無い。
「――分かった。マリアちゃんと話が済んだら、あの子と少し遊んでいくよ」
「お願いします」
彼の隣を擦り抜け、二階の部屋に繋がる階段へと足を向ける。その途中、私に気付いたノエルが顔を上げた。
「まーしゃ」
子供特有の舌ったらずな声で名前を呼ばれ、寄り道をする様にふらりとノエルに近付く。
「ママのところ、いくの?」
「うん、少しお話してくるね」
エリオット先生によく似た、糸の様に柔らかなアッシュグレーの髪をそっと撫でると、ノエルが顔を綻ばせた。
二階に続く階段を上りながら、脳内でどうマリアに説明をするかを考える。彼女は、ノエルをどうにかして借金取りから逃がしてやりたいと言っていた。親の心理を考えれば、無理もない話だ。自身の娘が競売にかけられ、得体の知れない人物に買われ痛めつけられる位ならば、自ら手放してでも幸せになれる場所へ逃がしてやりたいと思うものだろう。
しかし、それは最終手段の話だ。決して手放す事が彼女の本懐では無い。
朝目覚めた時にはいち早くマリアに知らせなければと思っていたのに、直前になって怖気づいてしまったのだろうか。足が竦んでしまい、上手く階段を上る事が出来ない。
だが、そんな事を言っている場合では無いのも分かっている。今マリアとノエルを救えるのは、この道しかないのだ。
無理矢理足に力を籠め、残りの階段を全て上り切った。そしてマリアの住む部屋の前で立ち止まり、深呼吸を繰り返す。
大丈夫、彼女なら分かってくれる筈だ。そう自身に言い聞かせ、扉を4度ノックした。
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