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閑話5
一ヶ月前
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枯れ葉を撒き散らすことにはめっぽう定評のある霜月の風が、講義室の窓をガタガタと揺らしていく。
ガラス一枚を隔てた向こう側に広がるのは、すっかり殺風景になってしまった一面の山々。ついこの前までは美しい紅で彩られていた分、余計にもの寂しく感じてしまう。底の見えない灰色の層雲が、その気持ちをさらに加速させた。
「――私の時代、告白の方法と言えば、靴箱に忍ばせたラブレターだったわけでしてね?」
今は水曜一コマ目、『文学論入門』の授業だ。
ここの教授は要所要所でゆかいな雑談を披露してくれ、率直に言って退屈せずに済む。その内容は教授自信の過去話だったり、受講生が誰一人として知らないマイナーな豆知識だったりするのだが、えてして普段なら傾聴に値する内容だ。
だが今日の七瀬は、そんなことよりも遥かに重要な試練を控えていた。
「手紙はいいものですよ。メールなどと違って、筆跡に書き手の個性が出る。暖かみがあります」
教授の話す言葉が、右耳から入ってそのまま左耳から抜けていく。
七瀬の脳内を占めているのは、これからの事への緊張とあの日の記憶のみだった。
※
事の始まりは一ヶ月前に遡る。
友人の一人が、七瀬に耳寄りなイベントの情報を持ってきてくれたのだ。
『これ見てみろよ。クリスマスの週限定でイルミネーションするらしいぜ』
彼が差し出してきたスマートフォンの画面には、七瀬も名前だけは知っている丘陵公園のホームページが映っていた。華やかに飾り付けられた花壇と、色とりどりの電球で象られた動物たちの横で、『輝かせます。あなたの一日を』という謎のキャッチコピーが存在感を放っている。
『綺麗。で、これがどうかしたの?』
七瀬が頷いて友人の方を見ると、彼は意味深な笑みを浮かべて応えた。
『分からないか? これはクリスマス限定のイベントだぞ』
好きな娘を誘うにはもってこいだろう。秘め事のように声を潜めながら、友人はパチリとウインクをしてみせた。
彼の言いたいことは何となく察しが付く。
『……まあ、そうだろうね』
つまりは、そういうことだ。
“好きな娘”と聞いただけで、七瀬の脳は勝手に渚を思い浮かべてしまう。
心中の動揺を悟られたくなくて七瀬はそっと視線を逸らした。とはいっても、全てを知られているこの友人が相手では、ほとんど意味の無い抵抗だったが。
『俺は誘うぞ。気になってる娘が一人いるしな』
『ああそう。だから、僕も勇気を出して誘えと?』
『誘うにはいい機会だ、とだけ言っとくよ。実際に誘うかどうかは七瀬次第だがな。もし成功したらその時は、クリスマスプレゼントに土産話を頼む』
※
そんなこんなで背中を押されたわけだが、その場で覚悟を決めれるほど七瀬は勇敢ではなかった。
何しろ今回のお誘いは、これまでのあれこれと比べてハードルが高すぎる。
クリスマスの夜に、男女二人がイルミネーションを観に行くのだ。このようなお出かけを、人はデートと呼称する。むしろデート以外の何でもない。
渚に対してどれほど言葉を濁してみたところで、日付と目的地でこちらの好意は見抜かれてしまうことだろう。
非常にリスクの高い挑戦だ。
だがそれにも関わらず、最終的に七瀬は覚悟を決めた。ある程度の勝算があると判断したからだ。
これまでの渚と振る舞いと。彼女が掛けてくれた言葉を思い出すに、少なくとも、こちらに対して悪い感情を抱いてはいないだろう。脈があるかないかで言えば、少しだけある気がする。
恋は盲目というから、この予想もあまりあてには出来ないけれど。
「誰に対してでもいいです。是非一度、手紙を書いてみることをオススメしますよ――」
教授が雑談を終えたタイミングで、丁度講義終了のチャイムが鳴って、七瀬の意識は現実世界に引き戻された。
次は水曜日の二コマ目。いつもなら渚はこの時間、部室で執筆に勤しんでいる。行けば会えるだろう。話す時間もたっぷり取れる筈だ。
心の準備は昨夜済ませてきたから、後は実行に移すだけ。
手早く荷物を片付けて七瀬は席を立った。
さあ、ぬるま湯を上がる時間だ。
※
深呼吸をして部室の扉を開くと、そこには予想通り渚の姿があった。ノートパソコンとにらめっこをしながら、一心不乱に何かを打ち込んでいる。
だがそのしかめ面も、七瀬の存在に気付くやいなや一転。渚の顔はたちまちに綻び、嬉しげに手を振ってきた。七瀬もいつもと同じように、右手を軽く持ち上げて応える。
「おはようございます」
「おはよう、渚ちゃん」
部長や副部長は今来ていないらしく、室内に窺えるのは彼女一人だ。
七瀬にとっては好都合である。第三者がすぐ隣にいたのでは、誘おうにも誘えない。
とは言ってもいきなりクリスマスの話題を持ち出すのは唐突すぎるので、まずは普段通りの雑談からだ。
適当な所に荷物を置き。ポットでお湯を沸かしながら七瀬は渚に声を掛ける。
「今日は何書いてるの。原稿? それとも何かの課題かな」
「心理学入門の中間レポートです。"身の回りの出来事を一つ切り取り、心理学の観点から分析せよ"というお題なんですけど」
「波川先生のやつだっけ。僕も去年書いた覚えがある」
「そうですそうです。もうほとんど書き終わっているんですが、最後の一文をどうするか迷っていまして」
「分かるよ。僕も毎回そこで時間を費やすから」
頷きながら、七瀬は棚からカップを二つ取り出してポットの前に並べた。次いで隣にある瓶の蓋を開ける。
中に入っているのは乾燥したカモミールの花だ。それをカップに二つ三つ落とし、お湯が沸くのをのんびりと待つ。
「仮にも文章を書いている者として、何かしら綺麗な形で締めたいってなるものね」
「……時々、先輩は私の心が読めてるんじゃないかって思うときがあります」
「読めてはいないよ? ただ経験則で話しているだけ」
読めていたらこんなに苦労することもない――という言葉は、唾と一緒に呑み込んでおく。
そうこうしている内に、優秀な電気ポットが湯を沸かし終わった。カップに適量を注げば、乾いた花が水流に煽られてくるくると回り、滲み出てきたエキスが全体を薄い山吹色に染める。
カモミールティーの完成だ。
振り向いてみれば、渚の方もレポートを完成させたらしかった。
「――終わりました」
満足げな表情で渚は思い切りのびをした。瞼を降ろして、軽く背中を反らせ、組んだ両手を高く上げて、唇の隙間から気持ちよさげな声を漏らす。
そうやって無防備な姿を見せるのはどうかと事あるごとに思うのだが、本人にそれを言うと自分が彼女のことを変な目で見ていると思われそうなので、心中で呟くにとどめる。無自覚とはかくも恐ろしい。
「お疲れ様。これ、良ければどうぞ」
カップの片方を渚の前に置き、もう一方を自分の口元に近付けると、ほのかに、花畑を閉じ込めたような独特の香りが鼻孔をくすぐってくる。不思議な香りだ。これと似たものを七瀬は他に知らない。
渚はカップを手に取り、小さく会釈をした。
「いただきます」
「どういたしまして。せっかくだから乾杯しよう」
「いいですね。でも何に対してですか?」
「さあ。渚ちゃんのレポート完成祝いか何かじゃない?」
何だかよく分からない事を口走ってしまうのも、きっと緊張のせいだ。
渚のノリが良かったのは七瀬にとって幸運だった。乾杯、と互いのカップを打ち合わせれば、小気味良い音が鳴る。
隣り合わせに腰を降ろして、二人はしばしの間カモミールティーを堪能した。
――さて、そろそろいいタイミングではないだろうか。
心の中で成功を神に祈って。クリスマスの話題を切り出すべく、万感の思いで七瀬は口を開いた。
「ところで渚ちゃ――」
「そういえば七瀬先輩。一つお願いがあるんですけど」
「うん? うんいいよ。何?」
ダメだ、早速やらかした。
教科書通り、見事なまでに出鼻を挫かれた形だ。いや勿論、渚にそんなつもりが無いことは重々承知しているのだが、それでもタイミングの悪さは否めない。
七瀬の苦悩はいざ知らず、渚が応える。
「外にあるタイムの葉っぱを、少し頂いてもいいですか?」
「タイムを? いいよ。好きなだけ持っていって」
「ありがとうございます。ちょっと、作りたい物があって」
鞄からハサミとジップロックを取り出し、渚は部室を後にする。
閉まりきっていない扉の隙間から鼻歌が聞こえてくる。嬉しいことでもあったのか、今日の彼女は機嫌が良さそうだ。
しばらくして渚が戻ってきた時、ジップロックの中には二房のタイムが入っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり。随分少ないように見えるけど、もっと採ってもよかったんだよ?」
「これで十分です。試作自体は済ませてありますから」
試作というと、彼女が作ろうとしているのは料理か何かだろうか。
フランス料理みたく大層なものでなくとも、スープに散らしてみたり焼いた鶏肉に添えてみたり、タイムの使い道は色々とあるだろう。そこには風味を付ける目的もあるが、何よりも、緑を加えることで料理全体が華やいで見える。
ただいずれにせよ、彼女の作る手料理はどれも頬が落ちるほど美味しいに違いない。その味について考えてみただけで、料理そのものを超越して、空想の未来像は果てしなく膨らんでいく。
脳内に思い浮かぶのは新築の家。仕事でヘトヘトになって帰宅した自分がやっとの事で扉を開けると、エプロンをつけた渚の優しい笑顔が出迎えてくれる。台所から漂う香ばしい匂いに、夕食のメニューを想像しながら、"ただいま""おかえりなさい"と言葉を交わす。夢のような光景だ。これこそ理想郷――
――いや待て、自分。
危うい所で七瀬は我に返った。
まったく自分は何を考えているのか。妄想に浸る前に、まずはやるべきことがあるだろう。いい加減グダグダと言い訳をするのは止めて、真正面から勝負に出なくては手に入る物も手に入らなくなってしまう。
「上手くいくことを祈ってるよ」
などと適当に返事をしながら、七瀬はおもむろにスマートフォンを取り出した。丘陵公園の名前をグーグルに打ち込んで、ホームページの画面を表示させる。
準備完了だ。心の準備は未だ出来ていないが、ここを逃すと永久に誘えなくなりそうなので、突き進むことに決めた。
「――あ、あのさ、渚ちゃん」
振り向いた渚に、七瀬はスマートフォンを差し出してみせた。
「友達から教えてもらったんだけど、ここでこんなイベントがあるらしいんだ」
「えっと……これはイルミネーションですか?」
「クリスマス限定で飾り付けるんだってさ」
渚は身体を曲げて、食い入るように画面を覗き込んだ。ほぅ、という感嘆の吐息が唇の隙間から漏れる。
「……なんだか、幻想的です」
よし、最初の反応は悪くない。あとはここから、二人で一緒に行く流れへと上手く持っていけばいい。
「写真で観てもこんなに圧倒されるんですから、きっと実物はこの何倍も綺麗ですね」
「渚ちゃんもそう思う? しかも、ほら。今年のテーマは『花』らしくて」
「先輩にぴったりじゃないですか」
「うん。友達から聞かされたとき僕も同じ事を思ったよ。だから、今度観に行こうかなって思ってるんだけど」
さして多くもない会話力をフル活用し、話の誘導を試みる。正直なところ、上手く出来ている気がしない。自分の意図など渚には既に見透かされているようにさえ感じる。
イメトレの内容はとっくに頭から抜け落ちて、ただただ舌の回るに任せて、行き当たりばったりで言葉を紡ぐ。
「でも、やっぱり一人だと少し寂しいじゃない。……だから、さ。もし渚ちゃんさえ良ければ」
普段なら恥ずかしさで顔を背けていただろう。だが今回ばかりは違った。
わずかに残った理性を総動員して、彼女の方に視線を向け続ける。
「一緒に、このイルミネーションを観に行きませんか」
この台詞だけは彼女の目を見て言おうと、心に決めていたから。
時間の流れがとてつもなくゆっくりに感じる。手の平には汗が滲み、無意識の内に瞬きを繰り返す。世界から一切の音が消えて、太鼓よりも大きい心臓の鼓動だけが脳内に響いている。
「私と、ですか」
七瀬の言葉を噛み締めるかのような口調で、渚は言った。
いつもより少しだけ大きく開かれた瞳で、じっとこちらを見据えてくる。
七瀬の勘が間違っていなければ、そこに浮かんでいたのは驚きの表情だった。
「――うん」
それしか言えない。
本当はもっと気の効いた言葉をかけて、スマートに彼女を誘いたい。なのに緊張に支配された頭からは、どうやってもそれ以上の返事が出てこなかった。
そうしてどのくらいの時間が過ぎただろうか。
「――はい」
小さく、けれどはっきりとした口調で、渚はそう答えた。
その言葉の意味が全身に染み渡るにつれて、喜びと安堵で七瀬の顔が綻んでいく。
“はい”と彼女は言った。自分の頭が変でなければ、それは、彼女が誘いを了承してくれたということだ。
「一緒に行きましょう、七瀬先輩」
目の前に鮮やかな一輪の花が咲く。
家に帰ったら、今日この日を記念日として手帳に書き記しておこう。
好きな人との初めてのデート……の、約束を取り付けた記念日として。
ガラス一枚を隔てた向こう側に広がるのは、すっかり殺風景になってしまった一面の山々。ついこの前までは美しい紅で彩られていた分、余計にもの寂しく感じてしまう。底の見えない灰色の層雲が、その気持ちをさらに加速させた。
「――私の時代、告白の方法と言えば、靴箱に忍ばせたラブレターだったわけでしてね?」
今は水曜一コマ目、『文学論入門』の授業だ。
ここの教授は要所要所でゆかいな雑談を披露してくれ、率直に言って退屈せずに済む。その内容は教授自信の過去話だったり、受講生が誰一人として知らないマイナーな豆知識だったりするのだが、えてして普段なら傾聴に値する内容だ。
だが今日の七瀬は、そんなことよりも遥かに重要な試練を控えていた。
「手紙はいいものですよ。メールなどと違って、筆跡に書き手の個性が出る。暖かみがあります」
教授の話す言葉が、右耳から入ってそのまま左耳から抜けていく。
七瀬の脳内を占めているのは、これからの事への緊張とあの日の記憶のみだった。
※
事の始まりは一ヶ月前に遡る。
友人の一人が、七瀬に耳寄りなイベントの情報を持ってきてくれたのだ。
『これ見てみろよ。クリスマスの週限定でイルミネーションするらしいぜ』
彼が差し出してきたスマートフォンの画面には、七瀬も名前だけは知っている丘陵公園のホームページが映っていた。華やかに飾り付けられた花壇と、色とりどりの電球で象られた動物たちの横で、『輝かせます。あなたの一日を』という謎のキャッチコピーが存在感を放っている。
『綺麗。で、これがどうかしたの?』
七瀬が頷いて友人の方を見ると、彼は意味深な笑みを浮かべて応えた。
『分からないか? これはクリスマス限定のイベントだぞ』
好きな娘を誘うにはもってこいだろう。秘め事のように声を潜めながら、友人はパチリとウインクをしてみせた。
彼の言いたいことは何となく察しが付く。
『……まあ、そうだろうね』
つまりは、そういうことだ。
“好きな娘”と聞いただけで、七瀬の脳は勝手に渚を思い浮かべてしまう。
心中の動揺を悟られたくなくて七瀬はそっと視線を逸らした。とはいっても、全てを知られているこの友人が相手では、ほとんど意味の無い抵抗だったが。
『俺は誘うぞ。気になってる娘が一人いるしな』
『ああそう。だから、僕も勇気を出して誘えと?』
『誘うにはいい機会だ、とだけ言っとくよ。実際に誘うかどうかは七瀬次第だがな。もし成功したらその時は、クリスマスプレゼントに土産話を頼む』
※
そんなこんなで背中を押されたわけだが、その場で覚悟を決めれるほど七瀬は勇敢ではなかった。
何しろ今回のお誘いは、これまでのあれこれと比べてハードルが高すぎる。
クリスマスの夜に、男女二人がイルミネーションを観に行くのだ。このようなお出かけを、人はデートと呼称する。むしろデート以外の何でもない。
渚に対してどれほど言葉を濁してみたところで、日付と目的地でこちらの好意は見抜かれてしまうことだろう。
非常にリスクの高い挑戦だ。
だがそれにも関わらず、最終的に七瀬は覚悟を決めた。ある程度の勝算があると判断したからだ。
これまでの渚と振る舞いと。彼女が掛けてくれた言葉を思い出すに、少なくとも、こちらに対して悪い感情を抱いてはいないだろう。脈があるかないかで言えば、少しだけある気がする。
恋は盲目というから、この予想もあまりあてには出来ないけれど。
「誰に対してでもいいです。是非一度、手紙を書いてみることをオススメしますよ――」
教授が雑談を終えたタイミングで、丁度講義終了のチャイムが鳴って、七瀬の意識は現実世界に引き戻された。
次は水曜日の二コマ目。いつもなら渚はこの時間、部室で執筆に勤しんでいる。行けば会えるだろう。話す時間もたっぷり取れる筈だ。
心の準備は昨夜済ませてきたから、後は実行に移すだけ。
手早く荷物を片付けて七瀬は席を立った。
さあ、ぬるま湯を上がる時間だ。
※
深呼吸をして部室の扉を開くと、そこには予想通り渚の姿があった。ノートパソコンとにらめっこをしながら、一心不乱に何かを打ち込んでいる。
だがそのしかめ面も、七瀬の存在に気付くやいなや一転。渚の顔はたちまちに綻び、嬉しげに手を振ってきた。七瀬もいつもと同じように、右手を軽く持ち上げて応える。
「おはようございます」
「おはよう、渚ちゃん」
部長や副部長は今来ていないらしく、室内に窺えるのは彼女一人だ。
七瀬にとっては好都合である。第三者がすぐ隣にいたのでは、誘おうにも誘えない。
とは言ってもいきなりクリスマスの話題を持ち出すのは唐突すぎるので、まずは普段通りの雑談からだ。
適当な所に荷物を置き。ポットでお湯を沸かしながら七瀬は渚に声を掛ける。
「今日は何書いてるの。原稿? それとも何かの課題かな」
「心理学入門の中間レポートです。"身の回りの出来事を一つ切り取り、心理学の観点から分析せよ"というお題なんですけど」
「波川先生のやつだっけ。僕も去年書いた覚えがある」
「そうですそうです。もうほとんど書き終わっているんですが、最後の一文をどうするか迷っていまして」
「分かるよ。僕も毎回そこで時間を費やすから」
頷きながら、七瀬は棚からカップを二つ取り出してポットの前に並べた。次いで隣にある瓶の蓋を開ける。
中に入っているのは乾燥したカモミールの花だ。それをカップに二つ三つ落とし、お湯が沸くのをのんびりと待つ。
「仮にも文章を書いている者として、何かしら綺麗な形で締めたいってなるものね」
「……時々、先輩は私の心が読めてるんじゃないかって思うときがあります」
「読めてはいないよ? ただ経験則で話しているだけ」
読めていたらこんなに苦労することもない――という言葉は、唾と一緒に呑み込んでおく。
そうこうしている内に、優秀な電気ポットが湯を沸かし終わった。カップに適量を注げば、乾いた花が水流に煽られてくるくると回り、滲み出てきたエキスが全体を薄い山吹色に染める。
カモミールティーの完成だ。
振り向いてみれば、渚の方もレポートを完成させたらしかった。
「――終わりました」
満足げな表情で渚は思い切りのびをした。瞼を降ろして、軽く背中を反らせ、組んだ両手を高く上げて、唇の隙間から気持ちよさげな声を漏らす。
そうやって無防備な姿を見せるのはどうかと事あるごとに思うのだが、本人にそれを言うと自分が彼女のことを変な目で見ていると思われそうなので、心中で呟くにとどめる。無自覚とはかくも恐ろしい。
「お疲れ様。これ、良ければどうぞ」
カップの片方を渚の前に置き、もう一方を自分の口元に近付けると、ほのかに、花畑を閉じ込めたような独特の香りが鼻孔をくすぐってくる。不思議な香りだ。これと似たものを七瀬は他に知らない。
渚はカップを手に取り、小さく会釈をした。
「いただきます」
「どういたしまして。せっかくだから乾杯しよう」
「いいですね。でも何に対してですか?」
「さあ。渚ちゃんのレポート完成祝いか何かじゃない?」
何だかよく分からない事を口走ってしまうのも、きっと緊張のせいだ。
渚のノリが良かったのは七瀬にとって幸運だった。乾杯、と互いのカップを打ち合わせれば、小気味良い音が鳴る。
隣り合わせに腰を降ろして、二人はしばしの間カモミールティーを堪能した。
――さて、そろそろいいタイミングではないだろうか。
心の中で成功を神に祈って。クリスマスの話題を切り出すべく、万感の思いで七瀬は口を開いた。
「ところで渚ちゃ――」
「そういえば七瀬先輩。一つお願いがあるんですけど」
「うん? うんいいよ。何?」
ダメだ、早速やらかした。
教科書通り、見事なまでに出鼻を挫かれた形だ。いや勿論、渚にそんなつもりが無いことは重々承知しているのだが、それでもタイミングの悪さは否めない。
七瀬の苦悩はいざ知らず、渚が応える。
「外にあるタイムの葉っぱを、少し頂いてもいいですか?」
「タイムを? いいよ。好きなだけ持っていって」
「ありがとうございます。ちょっと、作りたい物があって」
鞄からハサミとジップロックを取り出し、渚は部室を後にする。
閉まりきっていない扉の隙間から鼻歌が聞こえてくる。嬉しいことでもあったのか、今日の彼女は機嫌が良さそうだ。
しばらくして渚が戻ってきた時、ジップロックの中には二房のタイムが入っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり。随分少ないように見えるけど、もっと採ってもよかったんだよ?」
「これで十分です。試作自体は済ませてありますから」
試作というと、彼女が作ろうとしているのは料理か何かだろうか。
フランス料理みたく大層なものでなくとも、スープに散らしてみたり焼いた鶏肉に添えてみたり、タイムの使い道は色々とあるだろう。そこには風味を付ける目的もあるが、何よりも、緑を加えることで料理全体が華やいで見える。
ただいずれにせよ、彼女の作る手料理はどれも頬が落ちるほど美味しいに違いない。その味について考えてみただけで、料理そのものを超越して、空想の未来像は果てしなく膨らんでいく。
脳内に思い浮かぶのは新築の家。仕事でヘトヘトになって帰宅した自分がやっとの事で扉を開けると、エプロンをつけた渚の優しい笑顔が出迎えてくれる。台所から漂う香ばしい匂いに、夕食のメニューを想像しながら、"ただいま""おかえりなさい"と言葉を交わす。夢のような光景だ。これこそ理想郷――
――いや待て、自分。
危うい所で七瀬は我に返った。
まったく自分は何を考えているのか。妄想に浸る前に、まずはやるべきことがあるだろう。いい加減グダグダと言い訳をするのは止めて、真正面から勝負に出なくては手に入る物も手に入らなくなってしまう。
「上手くいくことを祈ってるよ」
などと適当に返事をしながら、七瀬はおもむろにスマートフォンを取り出した。丘陵公園の名前をグーグルに打ち込んで、ホームページの画面を表示させる。
準備完了だ。心の準備は未だ出来ていないが、ここを逃すと永久に誘えなくなりそうなので、突き進むことに決めた。
「――あ、あのさ、渚ちゃん」
振り向いた渚に、七瀬はスマートフォンを差し出してみせた。
「友達から教えてもらったんだけど、ここでこんなイベントがあるらしいんだ」
「えっと……これはイルミネーションですか?」
「クリスマス限定で飾り付けるんだってさ」
渚は身体を曲げて、食い入るように画面を覗き込んだ。ほぅ、という感嘆の吐息が唇の隙間から漏れる。
「……なんだか、幻想的です」
よし、最初の反応は悪くない。あとはここから、二人で一緒に行く流れへと上手く持っていけばいい。
「写真で観てもこんなに圧倒されるんですから、きっと実物はこの何倍も綺麗ですね」
「渚ちゃんもそう思う? しかも、ほら。今年のテーマは『花』らしくて」
「先輩にぴったりじゃないですか」
「うん。友達から聞かされたとき僕も同じ事を思ったよ。だから、今度観に行こうかなって思ってるんだけど」
さして多くもない会話力をフル活用し、話の誘導を試みる。正直なところ、上手く出来ている気がしない。自分の意図など渚には既に見透かされているようにさえ感じる。
イメトレの内容はとっくに頭から抜け落ちて、ただただ舌の回るに任せて、行き当たりばったりで言葉を紡ぐ。
「でも、やっぱり一人だと少し寂しいじゃない。……だから、さ。もし渚ちゃんさえ良ければ」
普段なら恥ずかしさで顔を背けていただろう。だが今回ばかりは違った。
わずかに残った理性を総動員して、彼女の方に視線を向け続ける。
「一緒に、このイルミネーションを観に行きませんか」
この台詞だけは彼女の目を見て言おうと、心に決めていたから。
時間の流れがとてつもなくゆっくりに感じる。手の平には汗が滲み、無意識の内に瞬きを繰り返す。世界から一切の音が消えて、太鼓よりも大きい心臓の鼓動だけが脳内に響いている。
「私と、ですか」
七瀬の言葉を噛み締めるかのような口調で、渚は言った。
いつもより少しだけ大きく開かれた瞳で、じっとこちらを見据えてくる。
七瀬の勘が間違っていなければ、そこに浮かんでいたのは驚きの表情だった。
「――うん」
それしか言えない。
本当はもっと気の効いた言葉をかけて、スマートに彼女を誘いたい。なのに緊張に支配された頭からは、どうやってもそれ以上の返事が出てこなかった。
そうしてどのくらいの時間が過ぎただろうか。
「――はい」
小さく、けれどはっきりとした口調で、渚はそう答えた。
その言葉の意味が全身に染み渡るにつれて、喜びと安堵で七瀬の顔が綻んでいく。
“はい”と彼女は言った。自分の頭が変でなければ、それは、彼女が誘いを了承してくれたということだ。
「一緒に行きましょう、七瀬先輩」
目の前に鮮やかな一輪の花が咲く。
家に帰ったら、今日この日を記念日として手帳に書き記しておこう。
好きな人との初めてのデート……の、約束を取り付けた記念日として。
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