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第四夜:角部屋の女霊

除霊オペレーション(3)

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「――そんな。でも、だとすると――」

 この幽霊が美沙という女性でない、としよう。だがそうすると、新しい矛盾が生まれてしまう。
 七瀬と渚が見た幽霊の記憶。そこで彼女は、たしかに“美沙”と呼ばれていた。つまり記憶の持ち主は美沙で間違いない。そして、記憶を持っていたのはこの幽霊だ。
 故に。幽霊と美沙という女性とは、イコールで繋がる筈である。そうなっていないとおかしい。

「う――ん、ちょっとおしいかな」

 七瀬の考えを読み取ったかのように幽霊が応えた。実際、筒抜けとまではいかないにしろ、思考は読み取られているのだろう。霊能者が言葉を使わずとも、霊の気持ちを感じ取るように。
 憑依されている今の状況なら、起きてもおかしくない話だった。

「あなたたちに見せたのは美沙って女の記憶。でもあたしは美沙じゃない」
「なっ……。それは――どういう意味」
「そのままの意味よ」
「……他人の記憶をそのまま持ってるってこと? そんなの有り得ないよ。二人分の魂が・・・・・・合わさってでも・・・・・・・いない限り・・・・・――」

 ――まさか。

 自分で口にして、その可能性に思い至る。

「まあ、正解。あたしの中にはあのオンナが入ってるの。ちなみに、写真に映っていた方があたし」

 その宣告は、七瀬へ絶望を突き付けるに充分なものだった。
 幽霊は時として他の魂を取り込んで融合することがある。目的は場合により様々なのだが、共通して、そうして出来上がった集合体は元の霊よりも強い。複数体の霊が集まって霊団を形成すれば、凄腕の霊能者でも除霊は難しくなる。
 七瀬に憑依しているこの幽霊が、霊の集合体だった。それはすなわち、一対一では確実に敵わない相手ということだ。

「あの後、アイツはあたしのことを調べ上げて、マンションまでおしかけて来たの。あたしたちは揉み合いになって、アイツはあたしを絞め殺した。そうしたらアイツ、死んだ私を見てどうしたと思う? ――“こんな筈じゃなかった”って泣き出したのよ。自分でやったくせに」

 嬉々として幽霊が、残酷な真実を打ち明け始める。自分の為した事を誰かに喋りたくて仕方ない――、そんな様子だった。圧倒的な優勢を前にして、彼女の口調は余裕に満ちていた。

「許せないでしょ? だからあたしは幽霊になって、アイツの耳元で“許さない許さない”ってずっと呟き続けてやったわ。そしたらすぐに、アイツは気が狂って自殺。魂は、どこかへ昇って行こうとしたんだけど――逃がすのが癪だったから、あたしが取り込んで吸収しちゃった。――あたしを殺したんだから、このくらい当然よね。だから、ほら、ウソはついてないでしょう? わたしの中には美沙って女も入ってるのよ」
「――じゃあ、どうしてこんなことを。部長や僕は、貴女と何の関わりもないのに」
「さあね。気がついたらあの部屋にいたからそれは分からない。オトコオンナを狙ったのは、私が気に入らなかったから」
「気に入らなかったから、って。それだけの理由で……!」
「黙って。あたしは女がキライなのよ。特に、誰かに恋してる女がね。あたしを殺したアイツを思い出すもの」

 一切悪びれることなく、幽霊はそう言い放った。
 その根元にあるものがただの悪意なら、改心させることも不可能ではなかっただろう。残っている良心に訴えることだって出来た。
 だが、幽霊の心に巣くう深淵を覗き見たとき、七瀬がそこに見出した感情は、ただただ自分の欲を満たそうとする、底知れない衝動だけだった。

 ――狂ってる。

 全て間違っていた。善意も理性も、一欠片とて残ってはいない。ある筈のないものに、自分達は縋っていたのだ。そして挙句の果てに、幽霊を自分から憑依させた。それは喩えるなら――凶悪殺人犯に、ナイフを喉元へ突き付けさせるくらい、馬鹿げたことだったのに。
 幽霊からすれば、どれだけ愚かで滑稽に見えたことだろう。けれど、もうやり直すことは出来ない。
 今考えるべきは、これからどうするかということだった。どうにかして、身体から幽霊を追い出すか、出ていってもらう必要がある。

「こんなことをして……何するつもり。目的を教えて」
「目的? いいわよ。あたしは――」

 言葉が途切れたその時、幽霊の口元が興奮に歪んだような気がした。

「――キミが欲しいのよ。七瀬クン・・・・

 ※

 様子がおかしいことに、渚は早いうちから気が付いていた。
 形代に息を吹きかけて川へ流す。それだけのことが中々終わらない。幽霊は七瀬から出て行く気配を一向に見せない。内容は分からないが、二人は何かを話しているようだった。
 次第に不安が募っていく。だが渚は“きっと上手くいく”という七瀬の言葉を信じて、駆け寄りたい思いを抑えていた。
 せめて、会話の内容だけでも。
 目を閉じて、耳を澄ませた渚の元に丁度、舐め回すような女性の声が届いた。
 “キミが欲しいのよ。七瀬クン”。
 それは間違いなく、幽霊が発したもので。
 七瀬が危ないという確信を抱かせるのに、充分すぎる程の説得力があった。

「先輩!」

 駆け寄ろうとした渚を、当の七瀬自身が、片腕を上げて制する。

「渚ちゃん!」

 必死で、絞り出すような叫びが、渚の足を止めさせた。

「来ちゃダメだ。早く――僕から離れて」
「でも……!」
「大丈夫。大丈夫だから……!」

 ウソだ。焦燥と恐怖が滲み出ている語調からして、今の七瀬に、余裕が一切残っていないことは明らかだった。
 その言葉を発したのが七瀬以外だったなら、渚は無視していただろう。
 だが、それは他でもない彼自身の言葉だったから。即座に振り払うことは出来なかった。
 行くべきか、待つべきか。相反する二つの感情が、渚の中でせめぎ合う。 

 ※

 渚が自分の言葉に従ってくれたのが、七瀬にとって唯一の安心材料だった。
 今近づいて来れば、彼女にまで危険が及ぶだろう。だが距離を開けておくことで、当面の安全は確保できる。
 だからと言って、状況が好転したわけでもないのだが。
 “キミが欲しい”――幽霊の言葉が頭の中で反響する。

「――――僕、を」

 文字面だけなら甘い告白の台詞だが、言っているのは人を呪い殺すような幽霊だ。七瀬にとって、いい意味である筈がなかった。

「そう。初めて見たときから、ずっとそう思っていたわ。だってキミ、あたしのタイプにぴったりなんだもの。こうしてもう一度会えるとは、思っていなかったけどね」

 初めて見たときというのは、闇鍋をした日のことなのだろう。
 あの時、七瀬と渚はそれぞれ得体の知れない何かからの視線を感じた。粘つくような視線と敵対的な視線――その意味は幽霊に会ってもなお、不明なままだった。
 だが今、考えられる限り最悪の形で全てが繋がる。幽霊が女性を嫌っていて、かつ七瀬を手にすることが目的とすれば、残っていた謎にも筋が通ってしまうのだ。
 七瀬に幽霊を取り憑かせるというやり方は、幽霊からすれば渡りに船だっただろう。拒絶されるのではないかという心配は杞憂だった。断る理由なんて、元からある筈がなかったのだ。
 幽霊は恍惚とした様子で囁きかけてくる。その撫で廻すような声が、本能的な恐怖心をくすぐってくる。冷たい手で心臓を掴まれたような感覚がする。

「あたしとイッショになりましょう? あたし、七瀬クンのこと好き。元から好みな顔だったけど、こうして取り憑いているともっと好きになってくるわ。自分で分かってる? キミの精気って、キミが考えている以上に質がいいのよ」
「……そんな風に口説かれても、嬉しくないな」

 打開策は一つも思い浮かばないが、それでも、幽霊の申し出を断るのにためらいは無い。
 まだやり残したことだって山ほどあるのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。

「僕は貴女のことを何とも想っていないし……これからも、想うことは絶対にないよ。だから――“イッショ”にはなれない」
「つれないなあ。あたしの中に入ってきたら、ずっと大切にしてあげるのに。……さ、“はい”って言って?」

 たとえ、どれだけ怖くても。どれだけ分が悪くても。

「――いやだ」

 拒絶以外の選択肢など、存在すらしえない。
 揺るがない決意を声色に感じ取ったのか、幽霊は口を閉じる。唇の端が歪んで、意地の悪い笑みを浮かべた。快感にも似た興奮がそこにはあった。

「おとなしく取り込まれてくれないなら、そうね。キミと仲のいいあの子――渚ちゃん、だっけ? 彼女をキミの代わりにしちゃおっかな」
「――っ!」

 幽霊の口から彼女の名前が出たとき、まず最初に沸き上がってきたのは怒りだった。増幅しつつあった恐怖はそれによって上書きされ、幽霊への敵意に変わった。
 我ながらそのことに驚く一方で、当たり前のことだと納得する自分もいる。

「どこまでつかしらね? 隣のオトコ女はちょっと手強かったけど。あの子もあたしが見えるんでしょう。その分だけ早く壊れちゃいそう。どんな悲鳴を聞かせてくれるかしら?」
「…………やめろ」

 後ろに感じる渚の存在が、幽霊へ反攻する勇気をくれた。
 自分を信じてくれている、彼女のためにも。幽霊のいいなりになんてなるものか。

「うん、なぁに?」
「彼女に手を出したら――絶対に許さない。何をしてでも消滅させる」
「……ふぅん、案外にカッコいいこと言うのね。でも全然怖くないわ。消滅させる? 出来るならやってみてよ。――無理でしょ? キミに、そんな力はないもの」
「……ぐ」

 食い縛った歯の間から呻き声が漏れる。幽霊の言っている事は残酷なまでに正しかった。
 だが、よしんばそうだとしても、このまま大人しく降伏するつもりはない。
 振り払え。拘束を外せ。このまま時間を稼いでも、こちらの体力が削られるだけなのは明らか。勝ち筋の無い持久戦だ。ならば、金縛りを解く要領で一気に力を込めて、身体の自由を取り戻すしか――――。

「――もういいわ。無理やり取り込んじゃうから」

 幽霊から放たれる冷気が一層濃くなった気がした。全身がそそけ立つような感覚を覚える。いつの間にか七瀬の首元には、こちらから触れることの出来ない、半透明の両手が当てられていた。

「――は?」
「苦しいけど、ガマンしてね?」

 その意味を悟るよりも早く、添えられた手に沿うように、全方向から圧力がかかる。

「……かはっ!? ……っ!」

 自分の首が絞め上げられていると気づいたときには、もう遅かった。
 顔面が圧迫され、視界が夜と昼とを激しく繰り返す。
 息が吸えない。肺が割れそうだ。初めて味わった窒息の苦しみが、容赦ない死の恐怖を突き付けてくる。
 七瀬は藻掻いた。だが何をしてみたところで、虚しく喉元を掻き毟る以上のことは出来ない。ぎりぎりと力を込めてくる幽霊を、振りほどける可能性はゼロだった。
 相手の腕を掴むことすら出来ないのだから。

「……は、ぐ……ああああ……」

 次第に意識が遠退いていく――――。

 ※

 彼を助けないと。
 苦しみ始めた七瀬の姿を見たとき、渚の頭を満たしたのはその一心だった。
 幽霊が話していたその目的は、渚にも聞こえていた。
 もし自分が何もしなければ、彼はこのまま殺されてしまう。そして幽霊に取り込まれ、成仏も出来ないまま苦しみ続けることになる。
 そんなこと――絶対にさせるわけにはいかない。
 南部長の部屋で彼と交わした、短いやり取りを思い出す。

『もし何かあったら私を呼んでください。助けにいきますから』
『うん。そうなった時はお願い。頼らせてもらうね』

 半ば無理強いのような言葉を、彼は笑って受け止めてくれた。

 ――私を、信じてくれたのだ。

 その信頼を――ましてや想い人からのものならなおさら――裏切る訳にはいかなかった。
 渚は神社の巫女でも、高名な霊能者でもない。だが簡単なお祓いの方法は一つだけ知っていた。
 自分の気を相手に注ぐことで、取り憑いている幽霊を追い出すというものだ。つまりはトコロテンの要領である。“気”というとややこしく聞こえるだろうが、重要なのは、幽霊を押し出すようなイメージを持つことだ。
 しかし『言うは易し行うは難し』という諺だってあるように。この方法は、実行するのは皆が出来ても、成功させるのは容易ではなかった。
 真っ向から幽霊と対峙する分、お祓いをする者にもそれなりの力が必要になるのだ。もし負けてしまえば、それはお祓いが失敗するどころの騒ぎではない。幽霊がその人に乗り移って、二次被害を生む可能性も大いにある、危険なやり方なのだ。
 渚もそのことは十分に分かっていた。七瀬を助けるのに、自分一人の力では足りないだろうことも、重々自覚していた。
 だがその事実が、諦めへと繋がることはない。
 力が足りないなら、合わせればいいのだから。

「――っ! 部長さん!」
「ここだ。私はどうすればいい」

 部長が応えた。焦りの滲み出ている声色だったが、持ち前の精神力で冷静さを維持している。彼女の思いは渚と寸分違わず同じ方向を向いているようだった。そのことが、渚に勇気をくれた。

「先輩から貰った粗塩、ありましたよね。それを先輩の背中に当てて何度も念じてください。出て行け、出て行けって。幽霊を押し出すようなイメージです」
「――分かった」

 説明しながら、渚は預かっていたショルダーバッグに手を差し入れて、あるものを探していた。一番助けになってくれそうなもので、同時に必須でもあるものだ。
 見つかるまでのわずかな時間が、何倍にも引き伸ばされて感じる。やがて指先が滑らかな布の質感を捉えた。迷いなくそれを取り出した渚の手には、金の刺繍糸で装飾された、小さな巾着袋が握られていた。
 七瀬のお守り――――渚がこれを知ったのは、思えばほんの数時間前。奇跡にも似た巡り合わせに、心の内で感謝する。
 彼女の思いと共鳴しているかのように、今朝触った時よりも、手の中のお守りは温かみを増していた。
 渚と部長は顔を見合わせると、七瀬の傍へと駆け寄った。
 気がついた幽霊が鬼の形相で睨み付けてくる。それを無視して、二人はその手を七瀬の背中へと当てた。
 火花が爆ぜるような音がした。
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