上 下
32 / 48
第四夜:角部屋の女霊

除霊オペレーション(2)

しおりを挟む
 流水には清めの力があると言われる。
 厄、ケガレといった悪いものを、流水で心身から祓い落として自分を清めるのだ。この考えは、所謂いわゆる『禊みそぎ』として今なお残っているし、『水に流す』という慣用句の由来でもある。他には『流し雛の儀』も有名だ。

 七瀬が考えた方法は、その流し雛を真似たものになる。つまり、幽霊を水に流して浄化させようという訳だ。
 これをするにはまず幽霊が入るための器が要るが、それは人型に切った白い紙で十分役目を果たしてくれる。
 だが、幽霊は自力で器に入ることが出来ない。そこを解決するために、誰かに幽霊を取り憑かせる必要が出てくるのだ。幽霊をその人にとっての『厄』と見立てることで、簡単に器へと吹き込むことが出来る。
 言い方を変えれば――一度誰かに幽霊を憑依させない限り、成功が難しいどころか、儀式さえまともに始められない。

「もし、もし幽霊を先輩に憑かせて、何か取り返しのつかないことが起きたら……」

 誰かに幽霊が憑依している時、一つの体に二人分の魂が入っていることになる。乗車率は二百パーセント。当然そんな状態で正常運転出来る筈もなく、大抵は熱や肩こりといった具合に症状が出てくるものだ。
 すぐさま命には関わる訳ではないが、渚の心配ももっともではある。

「――大丈夫、きっと何も起こらないよ」

 七瀬はそう応えてから、微かに笑ってみせた。彼女の不安を宥めるためなら、少しくらい楽観的になっても許されるだろう。

「それとも、僕が信じられない?」
「……ずるいですよ、先輩。そんなの、“はい”としか返せないじゃないですか」
「そうだね、ごめん。でもほら、美沙さんだって成仏する気はあるみたいだから。上手くいくと思うよ」

 その言葉を聞いて、渚もついに観念したようだった。苦笑がその顔に浮かぶ。

「……分かりました。その代わり、もし何かあったら私を呼んでください。助けに行きますから」
「うん。そうなった時はお願い。頼らせてもらうね」
「――二人とも、話は纏まったか?」

 ここまでのやりとりを黙って聞いていた部長が口を開いた。
 渚ともう一度視線を合わせた後、二人揃って肯き返す。

「よし。……わたしはこういう事の知識はさっぱりだから、あまり役には立てない――自分のことなのにな。それでも出来ることはさせてもらうぞ。確か、準備するものがあるんだったよな?」
「人型の白い紙、ですよね。私の記憶だと、紙は普通のもので大丈夫だった筈です」
「それならコピー用紙があるな。取って来よう」

 そう言って、部長は寝室へと姿を消した。
 彼女が戻ってくるまで特にすることもなく、手持ち無沙汰になったなと七瀬が思っていた時、渚にそっと肩を叩かれた。見れば、彼女は七瀬に向けて小さく手招きをしている。

「どうしたの?」
「……少し、訊いておきたいことが」

 言いながら、視線を短く幽霊の方に向けた。どうやら幽霊にはあまり聞かれたくない話らしい。
 幸いにも幽霊は、興味が無いのか、近づいてくる気配はない。
 渚の傍まで行って耳を傾けた。彼女もまた七瀬に顔を寄せる。そして、二人以外には聞こえないような囁き声でこう訊いてきた。

「私が見ていたものが、先輩とまったく同じという保証はありません。ただ、それを踏まえて一つ訊かせてください」
「いいよ。何だい? 言ってみて」
「最後、意識がこっちへ戻ってくる直前、幽霊が首を吊ったまま私たちの方へ迫ってきましたよね」
「そうだね。僕も同じものを見た」
「先輩はその時、何かを感じませんでしたか?」
「何か、って……? 『許さない』っていう声は聞こえていたけど」

 七瀬が訊き返すと、渚は少し逡巡を見せてから、応えた。

「恐怖、です。幽霊――美沙さんが、何かを怖がっているように感じたんです」


 ※


 準備は終わった。
 形代となる紙は胸ポケットの中に入れてあり、いつでも取り出せる状態だ。持ってきたショルダーバッグは、全てが終わるまで渚に預かってもらっている。
 これからの手筈も確認済み。まず、幽霊を体に取り憑かせたまま、儀式の場所――近くの川原まで歩いて移動する。そこで幽霊を形代へと吹き込んでから、それを川に流せばお仕舞いだ。流れる水が彼女の魂を清めて、成仏へ導いてくれる。

 ――後は、僕が少しだけ勇気を出せばいい。

 “幽霊に憑依される”。七瀬の人生で、これまでそんな経験は無かった。どんな感覚がするのか、どんな気分になるのか、これっぽっちも分からない。
 肩が重くなる、とか。頭が痛くなる、とか。そんな証言は、調べれば幾らでも出てくることだろう。
 だがそれらは、所詮言葉にすぎない訳で。彼らの経験全てをそこから窺い知ることは、実際問題として不可能だ。

「それじゃあいこうか、美沙さん」

 深呼吸をすると、緊張が微かに和らぐ。
 七瀬はゆっくりとした動作で、自身の右手を幽霊の方へと差し出した。

「いいよ。――入って来て」

 幽霊が手の甲に触れた――かと思えば次の瞬間には、その姿は目の前から消え去って、七瀬へ乗り移ってくる。
 すぐさまやってきたのは、誰かにのしかかられているような感覚だった。
 足もとから寒気が這い上がってくる。全身から嫌な汗が噴き出る。見えない手で、心臓を掴まれている感覚がする。
 幽霊の髪の毛らしきものが数本、視界を縦断するように垂れ下がっていた。

「くっ……、結構……辛いんだね、これ」

  格別何かをしなくても、幽霊が取り憑いているだけで精気は吸いとられていく。精気というのは、生命が持っているエネルギーのようなものだ。

 ――しかし、これは。

 予想以上に負担が大きく、歩くことすら重労働に思えた。この感覚を言葉で表すにはどうしたらいいのだろう。
 風邪とインフルエンザとマイコプラズマ肺炎が、まとめて襲い掛かってきたような。
 あるいは、マラソンを走り終えた後の疲労感が延々と続いているような。
 どれも的を得ているようだが、やはり何か足りない気がする。

「肩を貸してやる。――渚、入口の扉を開けといてくれ」
「……助かります」
「気にするな。これくらいしか出来ないからな」

 部長に支えて貰いながら玄関へ向かう。靴を履く辺りで、自分の息が荒くなっていることに気が付いた。

「渚ちゃん。今の僕……、渚ちゃんからはどんな風に見える?」
「……先輩の肩から、美沙さんの上半身が突き出て先輩にしがみついています。先輩は……すごく、苦しそうです」
「……分かった。ありがとう」

 外へ出た七瀬を、真夏の容赦ない熱気が弄っていく。空では太陽が燃え上がっていた。これからこの炎天下を、目指す川まで歩く――過酷なことは言うまでもない。
 体力が足りるかどうかは、どうやら賭けになりそうだった。

 ※

 途中で休憩を挟みながら、ようやく目的地に辿り着いた頃には、七瀬はヘトヘトだった。
 倒れることなくここまで来れただけでも幸運だろう。直射日光と道路の照り返しが合わさって、体力の減少も二倍のペースだった。
 汗が服に染み込んで、肌に張り付いているのがこれまた気持ち悪く。我関せずとばかりに、上空で照り輝いている太陽が恨めしい。
 今目の前にあるのは、陽光を反射して煌めく川の流れだ。ここは中流域にあたる位置で、川幅もさして広くない。川岸のほとんどは蒲や菖蒲で覆われているが、軽く見回してみると、所々にその群生が途切れている箇所があった。
 そこなら川の水にも直接触れられて、儀式にもってこいの場所だ。
 肩を貸してくれていた部長に、手で合図を送った。部長は小さく肯いてから、七瀬を水際に残して、後ろにいる渚の所まで下がる。
 七瀬と二人の距離は凡そおよそ五メートル程。何かあったときに巻き込まれず、されど互いの声は届きすぐに助けに来れる絶妙な間隔だ。
 形代を取り出して、地面に膝と片腕を付き、丁度水面を覗き込むように前へと屈み込む。
 そして目を閉じると、心の中で幽霊へ呼びかけた。

『準備はいい? 説明した通りに、僕が息を吹くのと合わせてこの中へ移って』

 返事は無かった。少し不安になったがよく考えれば、彼女は喋れないのだからこれで問題ない。

『……行くよ』

 合図と同時に、形代へ息を吹きかける。こちらへ移りますようにと念じながら。
 そうすると幽霊は七瀬を離れて形代へ宿り、掛かっていた負担も消える――筈だった。
 だが現実は違った。予定の通り進めたにも関わらず、七瀬が息を吹きかけた後も、幽霊は彼の身体にとどまったままだったのだ。

 ――おかしいな。

 こちらの動きに問題は無かった。ならば彼女の方が、上手くいかなかったのだろうか。
 ともあれもう一度だ。次は、きっと成功してくれるだろう。
 そう思いながら七瀬は再び息を吹きかけた。だが今回もまた、幽霊は形代へ移れなかった。

 ――いや、違う。

 もし幽霊が形代へ移ろうとしていたなら、憑依されている側も何かしら感じる筈だ。だが、一度目も二度目も、そんな感覚は一切感じなかった。
 まるで、元からそうする・・・・・・・つもりなどない・・・・・・・かのように・・・・・

「……ふふっ」

 女性の笑い声が聞こえてくる。今この状況からして、それを発したのは幽霊の他にありえない。
 いやそれ以前に、どうしてこんなタイミングで、笑うことが出来るのだろう。

「美沙さん……? どうかし――」

 七瀬は最後まで言い終わることが出来なかった。彼が疑問を覚えたのと同時に、今までの数倍の負荷が全身に掛かったからだ。

「うぐっ……」

 首から上と、形代を持っていた右手とを除いて、身体が動かせなくなる。金縛りだ。
 心の底に押し込んでいた筈の恐怖と焦りが、予期し得ぬ事態と共に舞い戻ってきた。
 幽霊がどういうつもりかは分からない。ただおそらく、もはや彼女に、おとなしく成仏するつもりはない。
 最善に思えた道筋が、実は最悪の選択肢だったということだ。

「――ごめんね、ダマしちゃって」

 幽霊が、嘲るような口調で言う。
 喋れない筈なのに。そう訊いた時、確かに頷いていた筈なのに。

「嘘だった? 美沙さん……どうしてこんなこと」
「“美沙さん”、ね。キミ、誰のことを言ってるのかな?」
「それは、もちろん――」

 “貴女のことだ”と続けようとして、ふと引っかかりを感じる。
 質問がおかしいのだ。彼女が本当の美沙ならば、今の問いは、自分で自分の存在を否定していることになる。
 と、なれば。考えられる可能性は一つしか残らない。
 七瀬の中で、確信にも似た一つの悪い予想が組み上がった。

「貴女は……美沙さんじゃない?」

 幽霊は七瀬の耳元に顔を近づけ、一言囁く。

「――そうよ」

 それはまるで、獲物を狙う毒蛇のようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

イケメン政治家・山下泉はコメントを控えたい

どっぐす
キャラ文芸
「コメントは控えさせていただきます」を言ってみたいがために政治家になった男・山下泉。 記者に追われ満を持してコメントを控えるも、事態は収拾がつかなくなっていく。 ◆登場人物 ・山下泉 若手イケメン政治家。コメントを控えるために政治家になった。 ・佐藤亀男 山下の部活の後輩。無職だし暇でしょ?と山下に言われ第一秘書に任命される。 ・女性記者 地元紙の若い記者。先頭に立って山下にコメントを求める。

化想操術師の日常

茶野森かのこ
キャラ文芸
たった一つの線で、世界が変わる。 化想操術師という仕事がある。 一般的には知られていないが、化想は誰にでも起きる可能性のある現象で、悲しみや苦しみが心に抱えきれなくなった時、人は無意識の内に化想と呼ばれるものを体の外に生み出してしまう。それは、空間や物や生き物と、その人の心を占めるものである為、様々だ。 化想操術師とは、頭の中に思い描いたものを、その指先を通して、現実に生み出す事が出来る力を持つ人達の事。本来なら無意識でしか出せない化想を、意識的に操る事が出来た。 クズミ化想社は、そんな化想に苦しむ人々に寄り添い、救う仕事をしている。 社長である九頭見志乃歩は、自身も化想を扱いながら、化想患者限定でカウンセラーをしている。 社員は自身を含めて四名。 九頭見野雪という少年は、化想を生み出す能力に長けていた。志乃歩の養子に入っている。 常に無表情であるが、それは感情を失わせるような過去があったからだ。それでも、志乃歩との出会いによって、その心はいつも誰かに寄り添おうとしている、優しい少年だ。 他に、志乃歩の秘書でもある黒兎、口は悪いが料理の腕前はピカイチの姫子、野雪が生み出した巨大な犬の化想のシロ。彼らは、山の中にある洋館で、賑やかに共同生活を送っていた。 その洋館に、新たな住人が加わった。 記憶を失った少女、たま子。化想が扱える彼女は、記憶が戻るまでの間、野雪達と共に過ごす事となった。 だが、記憶を失くしたたま子には、ある目的があった。 たま子はクズミ化想社の一人として、志乃歩や野雪と共に、化想を出してしまった人々の様々な思いに触れていく。 壊れた友情で海に閉じこもる少年、自分への後悔に復讐に走る女性、絵を描く度に化想を出してしまう少年。 化想操術の古い歴史を持つ、阿木之亥という家の人々、重ねた野雪の過去、初めて出来た好きなもの、焦がれた自由、犠牲にしても守らなきゃいけないもの。 野雪とたま子、化想を取り巻く彼らのお話です。

十年後、いつかの君に会いに行く

やしろ慧
キャラ文芸
「月島、学校辞めるってよ」  元野球部のエース、慎吾は同級生から聞かされた言葉に動揺する。 月島薫。いつも背筋の伸びた、大人びたバレリーナを目指す少女は慎吾の憧れで目標だった。夢に向かってひたむきで、夢を掴めそうな、すごいやつ。  月島が目の前からいなくなったら、俺は何を目指したらいいんだろうか。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる

春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。 幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……? 幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。 2024.03.06 イラスト:雪緒さま

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

望月何某の憂鬱(完結)

有住葉月
キャラ文芸
今連載中の夢は職業婦人のスピンオフです。望月が執筆と戦う姿を描く、大正ロマンのお話です。少し、個性派の小説家を遊ばせてみます。

処理中です...