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3夜:七瀬のお守り

逢魔が時のニアミス

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 母方の実家には、家庭菜園をするのに丁度いい広さの庭がある。顔ぶれは季節によりけりで、夏真っ盛りの今はトマトやキュウリやらの夏野菜が植えられており、それらはサラダや浅漬けに変身を遂げて食卓へと登場する。
 勿論どれも美味しいのだが、特に氷水で冷やしたミニトマトは一口でいくのに最適だ。噛んだ直後、冷たい汁がはじけるように口内を満たして、喉を駆け下りていく時の快感は何物にも代えがたい。
 庭で草むしりをしていた祖母が帰ってきた七瀬の姿に気付いた。引き抜いた草の束を足元に置くと、七瀬に向かって微笑みかけてくる。

「おかえり。こんな遅うまでよう遊んどったねぇ」

 もう六時を回っとるがね、と祖母が言う。夏だからまだ辺りは明るい。だが確かにそれは、小学生が帰宅するには比較的遅めの時間だった。いつもなら母から口を酸っぱくして注意されるだろう。今は帰省中だから色々と緩くなってはいるが。

「そんなに?」
「なかなか帰ってこんから、少し心配しよったところよ」

 自分の記憶を遡ってみる。サクと出会ったのが、二時かそこらだった筈だが、そうなるとのべ四時間近くもあの木立の中にいたことになる。七瀬の感覚では精々二時間程度のものだったので驚いたが、それくらいに楽しい時間だったのだろうと思いなおすことにした。

「何か楽しいことでもあったんね?」
「偶然出会った子と仲良くなって、一緒に遊んでたんだよ」
「ほう、友達が出来たんか」

 祖母は眼を細めて笑った。

「ええことええこと。楽しかったか」
「うん!」
「よしよし。そんで、その子はどんな子だったん?男の子かえ?」
「女の子だよ。髪は短かったから最初は男の子みたいにも見えたけど。サクちゃんって名前で、この近くに住んでるって言ってた」
「サク……? はて、そんな子この辺におったかねぇ」

 祖母が首をかしげて呻る。
 いたもいないも、七瀬は実際に合って遊んできたのだが。まさかあれが夢や幻だったなんてこともないだろう。今七瀬の手にある、彼女から貰った三粒の黒い種が何よりの証拠だ。
 どんなふうに出会ったか、どんなことをしたか、一つ一つ丁寧に話して聞かせた。

「最近、引っ越してきたんかねぇ……。聞いたことのない名前じゃ」
「……本当に、一緒に遊んだんだよ」
「いいんよ。俊は嘘をついてない。声の調子で分かっとる」

 祖母は優しい手つきで、七瀬の服に付いていた、冒険の残りかすを払い落とした。

「そうだ……お祖母ちゃん」
「ん?」
「これを見て。その子から貰ったんだ。お守りにしてねって」

 七瀬が手の平を開いた。
 汗の滲んだ手の平の上、三つの種が夕焼けの下へ躍り出る。艶めきはまるで宝石のようだ。祖母はそれに顔を近づけると、目を見開いてじっと眺めた。

「種、か……?その子は何て言いよったん?」
「……“種”だって言ってた。何のかは秘密だって」
「何の種じゃろ……見たことないね」
「お祖母ちゃんも分からない?」
「うん……俊、種これを少し貸してもらってもええか?明日帰るまでには返すけん」
「いいよ。はい」

 七瀬の手から、種が祖母へと移った。祖母は種をしっかりと掌で包み、もう一方の手を七瀬の背中に当てた。

「さ、入りんさい。じきにご飯が出来る。ジュースもたんとある」
「うん。でも僕お茶の方が好きだよ」
「じゃあ、キンキンに冷やした麦茶の方がええかね」

 家の中から漂ってきたカレーの匂いを感知して、途端に腹の虫が大声で鳴きだす。
 ふと後ろを振り返ると、夕焼けの空、一羽のカラスが飛んでいた。



「散歩に行かんかね」

 優しく肩を叩かれて、ようやくそれが自分に向けられた言葉なのだと気づく。
 時計の針は七時を微かに過ぎていた。つい先ほど夕食を食べ終わって、今は居間で一息付いているところだ。
 テレビでは夏らしく心霊特番を放送していた。おどろおどろしいBGMがかかって、ブラウン管の中から芸能人の悲鳴が聞こえてくる。『お分かりいただけただろうか』。何度この台詞を耳にしたかもう覚えていない。
 七瀬が振り向くと、そこには穏やかに微笑んだ祖母の姿がある。

「随分と涼しくなってきよる。出歩くには丁度ええ頃合いじゃろ」

 太陽はもう山の向こうに沈み、わずかな残滓だけが空に残っているばかりだった。対して、夜の気配がその反対方向からじわじわと強さを増している。七瀬のいるこの空間は今まさに昼夜の境目に位置しているのだ――と言ってみれば、どことなくファンタジーチックだ。
 網戸を通って吹いてくる風が、汗ばんだ体に心地いい。誘いを断る理由はないだろう。

「うん、行くよ」

 七瀬は答えると、近くにあった団扇を持って立ち上がった。

 ※

「学校は楽しいかい?」

 コンクリートで舗装されていない、まさにあぜ道と呼ぶにふさわしい道を二人は歩いていた。
 両脇には一面、見事な田んぼが広がっている。そよ風に合わせて稲の葉が一斉になびいたかと思えば、二人の足音を察知した蛙が田んぼへ跳び込んでいった。水音、一つ。耳の奥まで沁みわたる。

「楽しいよ。休憩時間はいつもみんなで遊んでる。ドッヂとか、泥団子を作ったりとか」
「仲良うしとるんね」
「もちろん!」
「うんうん、ええことええこと」

 祖母は何度も頷いた。辺りは薄暗かったけれど、その顔に満面の笑みが浮かんでいる事が、何となく七瀬には分かった。

「友達っちゅうのは宝物じゃけん。大切にせんといけん」

 こちらに語りかけてくるようで、また独り言のようでもある。返事をしていいものかどうかよく分からないまま、しばらく田舎道を歩き続けて、やがてその会話はうやむやになってしまった。

 ※

 山の麓に差し掛かった。
 逢魔が刻に見る山々の景色というものは、どうしてこうも不気味なのだろう。昼間は子供心をくすぐる雑木林も一転して魔物の巣窟のように感じてしまう。枝の間で赤い瞳が煌めく想像をしてしまって、七瀬はそっと視線を逸らせた。
 足もとの地面はゴツゴツとしている。長い間放置されたアスファルトが、雨風にさらされて削られたのだろう。転んだらとても痛そうだ。
 その時ふと。二人の進む先に、七瀬は長身の白い人影を見つけた。
 彼、あるいは彼女は――ここからでは横を向いていることが分かるだけで判別出来ないが――宙に浮いているように見える。よくよく目を凝らせば、ただ単に、何かの上に腰掛けているだけだったのだけれど。一瞬妖怪か何かと思ったので、それに気づいてホッとした。

「あそこに誰かいるね」
「うん?どこだい」
「ほら、あそこだよ」
「あそこって言われてもねぇ、ばあちゃん目が悪いから……」

 祖母は体を前屈みにして、七瀬の指が差す先を凝視した。だがそれでも、その眼には人影の姿が映っていないのか、おかしいねぇと首を傾げる。
 不思議に感じたのは、七瀬も同じだ。

 ――あんなにはっきり見えてるのにな。

 心の中でそう呟いたのがもしかすると届いていたのだろうか。白服の頭が途端に、錆びついたロボットのような、ぎこちない動きで回り始めた。金属の擦れるあの音が頭の中で再生された。
 そして七瀬の方を向く。
 寒気がした。
 同時に、祖母が七瀬の手を強く掴んだ。突然のことに訳も分からず、そのまま引き摺られるようにして七瀬は来た道を戻らされる。段差に躓いて転びかけた。

「帰るよ」
「え、でもおばあちゃ」
「しばらく、口を塞いどきんさい。親指の先も隠して」

 有無を言わせぬ迫力だった。こんなに険しい表情の祖母を、七瀬はこれまで見たことがない。言われるままにもう片方の手でグーを作り、早足の祖母に必死でついて行く。
 後ろを振り向きかけて止めた。祖母の呟きが耳に入って来たからだ。

「夜中に墓場におるなんて、きっと録なモンじゃないよ」
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