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第一夜:怪奇譚の始まり
ようこそ心霊スポットへ
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約二時間を使ってキャンパスを巡り終え、ツアーがお開きになった頃。時刻は三時半を回っていた。
当初の予定ではこれより三十分早く終了する予定だった。だが、参加者が熱中症になるのを防ぐため、途中で急遽小休憩を導入。その分だけ予定より遅れて終わっていたのだった。“予定に遅れる”というのは、あまり聞こえがよくないものの、健康の為には必要な措置と思われた。
さて。
参加者たちはツアーが終われば、当然そのまま解散だ。だが主催者側の七瀬にはまだ後始末が残っている。とは言っても、何か設備を使ったわけではないので、本部に手続きをして終わりだ。建物の中は冷房が効いていて、熱された身体に心地よかった。
――さ、帰ろうかな。
伸びをしている七瀬の所へ、件の先輩がやって来る。勿論、というべきかどうかはさておき、幽霊も一緒だ。
「何かいい雰囲気だったじゃないか。うん?」
何のことを言っているかは、ニヤついた顔と言葉の雰囲気で、何となく察しがついた。
多分、渚とのことについてだろう。ツアーの残り時間、話が盛り上がった二人は列の最後尾で談笑して過ごしていた。その光景は先輩からも見えていた筈だ。
しかし。その内容はいたって、いたって公明正大と言っていい。共通の趣味――すなわち読書の話題で、盛り上がっていたのだ。好きな作家が、偶然にも一緒だったり。先輩が内心で期待しているような、ロマンス要素など一切無かった。
そもそも出逢って五分十分の相手に、そういう想いを抱き得るだろうか? 否、断じて有り得ない。彼女の笑顔でくらっとなりかけたのは……否定できないにしても。
「……ちょっと話してただけですよ」
「ほうほう。一時間を『ちょっと』か……。まあ楽しい時間はあっという間に過ぎるからな。相対性理論とかいうやつか。うんうん。妬けてしまうよ」
「ちがっ! そんなんじゃありませんから! 僕で遊ばないでくださいよ」
「はっはっは。悪い悪い。でも、前から見ていて、二人ともいい笑顔だったぞ」
「そりゃたしかに、話しているのは楽しかったですけど」
「おお――!」
「も、もう帰ります。お疲れ様でしたっ!」
それでもにやにやと詰め寄ってくる先輩を、七瀬は半ば強引に振り切って帰路についた。
※
九鳥大学のキャンパスが広大だというのは、先に書いた通りだ。
何故そこまで広く作れたのかというと、理由は簡単。場所が土地代の安い田舎だからに他ならない。
都会と違ってそこかしこに店なんて無いので、日常生活では必然的に移動を強いられる。だから学生は皆バイクか自転車持ちで、七瀬も普段の移動には自転車を使っている。
大学から自身のマンションまで、緩やかな坂道を自転車で下る。正面からの風が爽快感をかき立てた。
道中には、心霊スポットと噂される例の廃墟もあった。途中で脇に逸れる道が伸びており、そこを曲がれば辿りつけるようになっている。曲がり角には信号がある訳でもなく、目立つ要素も無いので、車で通る人なら見逃していてもおかしくなさそうだ。
位置的には、農学部が有する林の裏手になるのだろうか。そこへと続く道は、山の麓ということもあって、両脇から覆いかぶさるように張り出してくる樹木の枝のせいで常に薄暗い。風が吹きぬけないので年中枯れ葉が散らばっている。涼しそう、という雰囲気ではない。いや、日なたと比べて実際気温は低いのだろうが――見た時の不気味さが先行して、あまりそう思えないのだ。
“おどろおどろしい”と言い表すのが、一番的確だろう。
その曲がり角を過ぎる時。七瀬は何気なく廃墟の方に目を向けた。
「……誰?」
思わずブレーキをかける。廃墟の入口の辺りに―――遠目では女の子に見える、人影があったのだ。
制服を着ているようだし、オープンキャンパスに来た高校生が迷い込んでしまったのだろうか。
何にしろ、そこはむやみやたらと近寄っていい場所でもない。加えて気づいてしまった以上、このまま放っておくのは自分が許せない。せめて一声かけておこうと、七瀬は邪魔にならないような位置に自転車を留めてそちらへと向かう。
―――あんまり近寄りたくないんだけどな。
触らぬ神に祟りなし、という諺がある。それと同じで、行かぬ心霊スポットに祟りなし、だ。いまいち語呂が悪いが。
彼女は憂いを帯びた様子で廃墟の前に佇んでいた。その背中に近づくにつれて、七瀬は次第に既視感を覚えてくる。細身の姿、肩にかかる黒髪に見覚えがある。
「渚ちゃん……?」
靴の下で枯れ枝が折れて、乾いた音を立てた。彼女はハッと振り返り、それから驚いた様子で、あっ、と小さく呟く。
何のことはない。それは、つい数時間前に会った相手。
「七瀬先輩……?」
上川渚の発した呼びかけに、七瀬は小さくうなずき返す。互いに予想していなかった、思いがけない再会だった。
※
「……という訳なんです」
どういういきさつで今のようになったのか、おおまかな流れを渚が話し終えた。
曰く。一緒に行動していた訳では無いが、彼女の同級生たちもまた大勢、オープンキャンパスに来ていた。その同級生の男子たちから、ツアーを終えた彼女にLINEが来たという。
『廃墟にいる』と。御丁寧にも写真つきで。
最初は向こうがふざけているのだろうと思った。だがそれ以降彼らからの連絡は一切無く、こちらからの電話にも出てくれる気配がない。しかも写真からは心霊的な気配を感じる。同級生の安否が不安になった彼女は、七瀬の言っていた廃墟と写真とを結び付け、自身の霊感を頼りに付近を歩きまわった結果、ここまで辿り着いたという。そして、中に入るかどうか迷っていた所に、丁度七瀬が現れたとのことだった。
「先輩が言っていた心霊スポットというのは、ここのことですよね」
「そう。存在は知ってたけれど、ここまで近づいたのは初めてだよ。これまでは遠くから眺めてるだけだったから」
いかにも冷静な風を装っているが、その実内心七瀬の体は強張っていた。
家全体からひしひしと、人ならざるものの気配と視線を感じる。中に潜む何かは、間違いなくこちらに気が付いているようだった。
年単位で風雨に曝され続けた結果、壁の表面は所々剝がれていた。玄関の手前には、落下してきたであろう屋根の瓦が、粉々に砕け散っている。ガラス窓にはヒビが入っていた。それらの光景全てが、七瀬の恐怖心を増幅させていく。
首筋がそそけだつ。窓の向こうで、何かが動いたような気がする。
庭を見れば。錆びついた物干しざおの根本を覆い隠すように、烏羽からすば色のクロユリの花が一面に咲き誇っていて、生ぬるい風にその花弁を揺らしていた。
「……百合、ですね。住んでいた人が植えたんでしょうけど、それにしても多い気がします」
「そうだね。一応、百合は自然に球根が分かれて増えはするけど。それでもこんなに生い茂るには相当な時間がかかりそう」
「それに、百合は春に咲く花じゃなかったですか?」
「その筈、なんだけど」
花言葉は『愛』だったか。他にもあった気がするが、思い出せない。まあ今はそんなことはどうでもいいだろう。
「渚ちゃんのクラスメイトはまだこの中、かな。まだ連絡はつかない?」
「ダメです。美雪にもお願いしてみてますが、多分。あっ、美雪っていうのは私の友達です」
「だとすると……やっぱり早めに探しに行くべきだね」
彼らが無事な内に――という言葉は、心の中で呟くに止めておいた。無駄に渚を不安がらせても、意味なんて無いからだ。
「……そうですよね」
決心したように、渚は拳をグッと握り締めて頷いた。
「行こう、渚ちゃん。日が高い内に終わらせないと」
覚悟を決めて廃墟の玄関へ向かう。だが二、三歩行った所で、渚に呼び止められた。振り向けば、彼女の綺麗な瞳がじっとこちらを見つめている。
「一緒に付いて来てくれるんですか?」
七瀬は首を縦に振る。
「もしかして――だめだったりする?」
「いえ。でも……危ないです。先輩も私も、幽霊が見えます。それはつまり、幽霊からしても惹きつけられる存在ってことです」
「そうだね。……ちゃんと分かってるよ」
「危ないんですよ」
確認するように渚は繰り返した。彼女が真に伝えたいことは、七瀬にも分かっていた。
「危ないから。だから、自分一人で行くつもり? その方がもっと危ないよ。それとも僕が信用できない? それなら僕はここに残るけど」
「っ……! それは、違います……! 先輩が誠実な人だっていうのは、あの時お話していて分かっています。ただ……だからこそ、先輩に危険をおかして欲しくないんです」
「ほら、やっぱり危ないんじゃない。だったらなおさら、二人で行く方がいいと思うな」
白状しよう。入りたくないという思いが、無いと言えばそれは嘘になる。
だがだからといって、ここで渚を見捨てるという選択肢は七瀬の中には無かった。
年下の女性が、危険だと分かっている場所に一人で入ろうというのだ。放っておくなんて男としてあり得ない。それに彼女は、自分と同じ世界を共有出来る、数少ない相手だ。出来ることなら助けになりたかった。
「えっとね、その、何て言えばいいかな」
七瀬は頭を掻いた。そして、良い表現を思いつく。
「花が水を欲しそうにしていたら、誰だって水をあげるでしょ。それと同じ事」
七瀬が肩をすくめて見せると、渚は微かに目を見開いて、それから不意に相貌を崩して笑った。
一拍の後。ありがとうございます、と律儀に頭を下げてくる。その頬は微かに上気していた。
「先輩は……素敵な人ですね」
「ありがとう。……さ、行こう、渚ちゃん」
「はい。お願いします」
渚が頷いて、七瀬の横に来る。古ぼけた扉に、二人で並んで向き合う。
「実を言うとこういう所に入るのは初めてなんだ。だから今、結構緊張してる」
「私もです。お互い、初めてどうしですね」
二人して小さく笑った。虎穴に跳び込む前には似つかわしくないが、おかげで少しだけ恐怖が和らぐ。
「いい? 開けるよ」
隣で彼女が頷くのを確認してから、七瀬は入口の扉を引いた。傷んだ結合部分がこすれて嫌な音を立てる。埃交じりの生ぬるい風が、家の奥から吹いてくる。
さあ、幽霊屋敷探検の始まりだ。
当初の予定ではこれより三十分早く終了する予定だった。だが、参加者が熱中症になるのを防ぐため、途中で急遽小休憩を導入。その分だけ予定より遅れて終わっていたのだった。“予定に遅れる”というのは、あまり聞こえがよくないものの、健康の為には必要な措置と思われた。
さて。
参加者たちはツアーが終われば、当然そのまま解散だ。だが主催者側の七瀬にはまだ後始末が残っている。とは言っても、何か設備を使ったわけではないので、本部に手続きをして終わりだ。建物の中は冷房が効いていて、熱された身体に心地よかった。
――さ、帰ろうかな。
伸びをしている七瀬の所へ、件の先輩がやって来る。勿論、というべきかどうかはさておき、幽霊も一緒だ。
「何かいい雰囲気だったじゃないか。うん?」
何のことを言っているかは、ニヤついた顔と言葉の雰囲気で、何となく察しがついた。
多分、渚とのことについてだろう。ツアーの残り時間、話が盛り上がった二人は列の最後尾で談笑して過ごしていた。その光景は先輩からも見えていた筈だ。
しかし。その内容はいたって、いたって公明正大と言っていい。共通の趣味――すなわち読書の話題で、盛り上がっていたのだ。好きな作家が、偶然にも一緒だったり。先輩が内心で期待しているような、ロマンス要素など一切無かった。
そもそも出逢って五分十分の相手に、そういう想いを抱き得るだろうか? 否、断じて有り得ない。彼女の笑顔でくらっとなりかけたのは……否定できないにしても。
「……ちょっと話してただけですよ」
「ほうほう。一時間を『ちょっと』か……。まあ楽しい時間はあっという間に過ぎるからな。相対性理論とかいうやつか。うんうん。妬けてしまうよ」
「ちがっ! そんなんじゃありませんから! 僕で遊ばないでくださいよ」
「はっはっは。悪い悪い。でも、前から見ていて、二人ともいい笑顔だったぞ」
「そりゃたしかに、話しているのは楽しかったですけど」
「おお――!」
「も、もう帰ります。お疲れ様でしたっ!」
それでもにやにやと詰め寄ってくる先輩を、七瀬は半ば強引に振り切って帰路についた。
※
九鳥大学のキャンパスが広大だというのは、先に書いた通りだ。
何故そこまで広く作れたのかというと、理由は簡単。場所が土地代の安い田舎だからに他ならない。
都会と違ってそこかしこに店なんて無いので、日常生活では必然的に移動を強いられる。だから学生は皆バイクか自転車持ちで、七瀬も普段の移動には自転車を使っている。
大学から自身のマンションまで、緩やかな坂道を自転車で下る。正面からの風が爽快感をかき立てた。
道中には、心霊スポットと噂される例の廃墟もあった。途中で脇に逸れる道が伸びており、そこを曲がれば辿りつけるようになっている。曲がり角には信号がある訳でもなく、目立つ要素も無いので、車で通る人なら見逃していてもおかしくなさそうだ。
位置的には、農学部が有する林の裏手になるのだろうか。そこへと続く道は、山の麓ということもあって、両脇から覆いかぶさるように張り出してくる樹木の枝のせいで常に薄暗い。風が吹きぬけないので年中枯れ葉が散らばっている。涼しそう、という雰囲気ではない。いや、日なたと比べて実際気温は低いのだろうが――見た時の不気味さが先行して、あまりそう思えないのだ。
“おどろおどろしい”と言い表すのが、一番的確だろう。
その曲がり角を過ぎる時。七瀬は何気なく廃墟の方に目を向けた。
「……誰?」
思わずブレーキをかける。廃墟の入口の辺りに―――遠目では女の子に見える、人影があったのだ。
制服を着ているようだし、オープンキャンパスに来た高校生が迷い込んでしまったのだろうか。
何にしろ、そこはむやみやたらと近寄っていい場所でもない。加えて気づいてしまった以上、このまま放っておくのは自分が許せない。せめて一声かけておこうと、七瀬は邪魔にならないような位置に自転車を留めてそちらへと向かう。
―――あんまり近寄りたくないんだけどな。
触らぬ神に祟りなし、という諺がある。それと同じで、行かぬ心霊スポットに祟りなし、だ。いまいち語呂が悪いが。
彼女は憂いを帯びた様子で廃墟の前に佇んでいた。その背中に近づくにつれて、七瀬は次第に既視感を覚えてくる。細身の姿、肩にかかる黒髪に見覚えがある。
「渚ちゃん……?」
靴の下で枯れ枝が折れて、乾いた音を立てた。彼女はハッと振り返り、それから驚いた様子で、あっ、と小さく呟く。
何のことはない。それは、つい数時間前に会った相手。
「七瀬先輩……?」
上川渚の発した呼びかけに、七瀬は小さくうなずき返す。互いに予想していなかった、思いがけない再会だった。
※
「……という訳なんです」
どういういきさつで今のようになったのか、おおまかな流れを渚が話し終えた。
曰く。一緒に行動していた訳では無いが、彼女の同級生たちもまた大勢、オープンキャンパスに来ていた。その同級生の男子たちから、ツアーを終えた彼女にLINEが来たという。
『廃墟にいる』と。御丁寧にも写真つきで。
最初は向こうがふざけているのだろうと思った。だがそれ以降彼らからの連絡は一切無く、こちらからの電話にも出てくれる気配がない。しかも写真からは心霊的な気配を感じる。同級生の安否が不安になった彼女は、七瀬の言っていた廃墟と写真とを結び付け、自身の霊感を頼りに付近を歩きまわった結果、ここまで辿り着いたという。そして、中に入るかどうか迷っていた所に、丁度七瀬が現れたとのことだった。
「先輩が言っていた心霊スポットというのは、ここのことですよね」
「そう。存在は知ってたけれど、ここまで近づいたのは初めてだよ。これまでは遠くから眺めてるだけだったから」
いかにも冷静な風を装っているが、その実内心七瀬の体は強張っていた。
家全体からひしひしと、人ならざるものの気配と視線を感じる。中に潜む何かは、間違いなくこちらに気が付いているようだった。
年単位で風雨に曝され続けた結果、壁の表面は所々剝がれていた。玄関の手前には、落下してきたであろう屋根の瓦が、粉々に砕け散っている。ガラス窓にはヒビが入っていた。それらの光景全てが、七瀬の恐怖心を増幅させていく。
首筋がそそけだつ。窓の向こうで、何かが動いたような気がする。
庭を見れば。錆びついた物干しざおの根本を覆い隠すように、烏羽からすば色のクロユリの花が一面に咲き誇っていて、生ぬるい風にその花弁を揺らしていた。
「……百合、ですね。住んでいた人が植えたんでしょうけど、それにしても多い気がします」
「そうだね。一応、百合は自然に球根が分かれて増えはするけど。それでもこんなに生い茂るには相当な時間がかかりそう」
「それに、百合は春に咲く花じゃなかったですか?」
「その筈、なんだけど」
花言葉は『愛』だったか。他にもあった気がするが、思い出せない。まあ今はそんなことはどうでもいいだろう。
「渚ちゃんのクラスメイトはまだこの中、かな。まだ連絡はつかない?」
「ダメです。美雪にもお願いしてみてますが、多分。あっ、美雪っていうのは私の友達です」
「だとすると……やっぱり早めに探しに行くべきだね」
彼らが無事な内に――という言葉は、心の中で呟くに止めておいた。無駄に渚を不安がらせても、意味なんて無いからだ。
「……そうですよね」
決心したように、渚は拳をグッと握り締めて頷いた。
「行こう、渚ちゃん。日が高い内に終わらせないと」
覚悟を決めて廃墟の玄関へ向かう。だが二、三歩行った所で、渚に呼び止められた。振り向けば、彼女の綺麗な瞳がじっとこちらを見つめている。
「一緒に付いて来てくれるんですか?」
七瀬は首を縦に振る。
「もしかして――だめだったりする?」
「いえ。でも……危ないです。先輩も私も、幽霊が見えます。それはつまり、幽霊からしても惹きつけられる存在ってことです」
「そうだね。……ちゃんと分かってるよ」
「危ないんですよ」
確認するように渚は繰り返した。彼女が真に伝えたいことは、七瀬にも分かっていた。
「危ないから。だから、自分一人で行くつもり? その方がもっと危ないよ。それとも僕が信用できない? それなら僕はここに残るけど」
「っ……! それは、違います……! 先輩が誠実な人だっていうのは、あの時お話していて分かっています。ただ……だからこそ、先輩に危険をおかして欲しくないんです」
「ほら、やっぱり危ないんじゃない。だったらなおさら、二人で行く方がいいと思うな」
白状しよう。入りたくないという思いが、無いと言えばそれは嘘になる。
だがだからといって、ここで渚を見捨てるという選択肢は七瀬の中には無かった。
年下の女性が、危険だと分かっている場所に一人で入ろうというのだ。放っておくなんて男としてあり得ない。それに彼女は、自分と同じ世界を共有出来る、数少ない相手だ。出来ることなら助けになりたかった。
「えっとね、その、何て言えばいいかな」
七瀬は頭を掻いた。そして、良い表現を思いつく。
「花が水を欲しそうにしていたら、誰だって水をあげるでしょ。それと同じ事」
七瀬が肩をすくめて見せると、渚は微かに目を見開いて、それから不意に相貌を崩して笑った。
一拍の後。ありがとうございます、と律儀に頭を下げてくる。その頬は微かに上気していた。
「先輩は……素敵な人ですね」
「ありがとう。……さ、行こう、渚ちゃん」
「はい。お願いします」
渚が頷いて、七瀬の横に来る。古ぼけた扉に、二人で並んで向き合う。
「実を言うとこういう所に入るのは初めてなんだ。だから今、結構緊張してる」
「私もです。お互い、初めてどうしですね」
二人して小さく笑った。虎穴に跳び込む前には似つかわしくないが、おかげで少しだけ恐怖が和らぐ。
「いい? 開けるよ」
隣で彼女が頷くのを確認してから、七瀬は入口の扉を引いた。傷んだ結合部分がこすれて嫌な音を立てる。埃交じりの生ぬるい風が、家の奥から吹いてくる。
さあ、幽霊屋敷探検の始まりだ。
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