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第一夜:怪奇譚の始まり

予期せぬファーストコンタクト

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 遡ること約一年、八月中旬のある日。
 この日九鳥大学は、普段なら有り得ないレベルで大混雑の様相を呈していた。見渡せばそこらじゅうに、制服を着て歩く高校生たちの姿がある。つまるところ――今日は、オープンキャンパスの日なのだった。

 教育学部“一年生”の七瀬も、もれなく運営側として駆り出されていた。午前中は、自身のすみかである教育学部門前での資料配布。訪れた高校生らに、教育学部について纏められた冊子を渡す。
 午後からはまた別の仕事、キャンパスツアーのガイド補佐が予定されていた。ツアーと言えば、バスを貸しきって行うような大掛かりなものを思い浮かべがちだが、此度はそれほどたいしたものではない。学生の案内で、構内全体を散歩して回るようなものだ。
 それだけか、と思うかもしれない。だが参加する高校生の多くにとっては、将来自分が通うであろう大学の雰囲気をその身に感じ、決意を新たにするというだけでも意味のあることなのだ。多分。
 七瀬の役目はあくまでも「補佐」で、主立った進行は顔見知りの先輩が行ってくれる予定だった。だからそうつらい仕事でもない。炎天下の下歩きまわる事、そのものを除けば、だけれど。

 ※

「――ようこそお越しくださいました。こちらが地図と資料です。ごゆっくりどうぞ」

 他の学部に負けず劣らず、教育学部も高校生で賑わっている。
 つい去年までは、自分もあちら側の人間だったと七瀬は思った。大学と高校、たった一年の違いでここまで生活は変わることに少しだけ驚かされる。
 開始から早々にして、用意していた資料は早くも残り半分を下回っていた。来る人が多ければそれだけこちら側の負担も増える。だが、自分の通う教育学部棟が、興奮に満ちた様子の高校生たちで賑わっているのは、何だかんだ言って嬉しいものがあった。

「ああ忙しい! 実に忙しいなぁ七瀬くん!」

 そうぼやく先輩も、どこか楽しそうな表情だ。半分ヤケになっているとも言える。

「ええ、意外と大勢来るものなんですね。もうちょっと少ないかと思っていました」
「去年はもうちょっと少なかった覚えなんだけどね。これは資料が足らなくなる予感。まあいいか。よし。ちょっとお茶を取ってくるから、少しの間をここをお願い出来るかな」
「分かりました、ついでに僕のも。……あ、第四講義室はあちらです。この廊下を真っ直ぐ進んで、右に曲がってください」

 体育会系そうな男の子に道を教えながら。目の前の人ごみにも幽霊が混ざってたりするだろうかと、七瀬は何となしに考えた。現に朝から今まで、二回程それらしきモノを見かけている。
 勿論基本的に、大多数の人々からはその存在は見えていない。幽霊の姿を肉眼で捉えられるのは、霊感を有する者――つまりは七瀬のような人間に限られるからだ。
 加えて幽霊も、当初の未練を忘れてただ彷徨っているだけの存在がほとんど。
 故に大抵の場合は、幽霊が混ざっていたからといって何か問題が起きる訳でもないのだった。格別こちらからアプローチをしたりしない限りは無関係を貫ける。およそ人畜無害である。
 ちなみに。人が多く集まるということは、それだけ幽霊も集まってくるということを意味する。人と幽霊の数は、Y=aXのグラフで表わされる比例関係にある……というのは、七瀬の持論だ。
 高校生の時、修学旅行で一度東京に行ったことがあるが、さすがは首都と言うべきか。人の多さもさることながら、案の定そこかしこに人ならざるものが浮遊していたのを覚えている。
 
 そんなことを考えていると。

「あの……?」

 戸惑ったようなその声で、七瀬は自分の手が止まっていた事に気づいた。
 やってしまった。相手も困っているだろう。慌てて目の前の人物に頭を下げる。

「っ……、すいません」
「いえ、大丈夫です」

 言われて、顔を上げた七瀬の目の前で、滑らかな黒髪が風に煽られてなびいた。
 そこに立っていたのは一人の女子高生だった。襟元に縫い付けられた鷹の刺繍は、彼女が県内有数の進学校、鷹飛高校の生徒であることを表している。
 パチリと開いた瞳と、暑さで仄かに上気した頬が印象的で。それでいて清楚な雰囲気を纏った彼女は――喩えるならば、まさしく一輪の花のように思えた。
 太陽の光をめい一杯に浴びて咲くヒマワリ……というよりは、穏やかながらも力強く咲くスミレの花だ。

「教育学部へようこそ。こちらに資料と地図が入っています。ゆっくりしていってください」
「……」

 目礼を返す彼女に、七瀬が袋に入った資料を差し出す直前。
 不意に、周囲の音がくぐもって聞こえるようになった。

「――っ!」

 同時につんざくような耳鳴りが始まる。夏だというのに、凍えるような寒さが全身を駆け巡った。
 反射的に七瀬は身構える。それらは幽霊が登場する前触れみたいなものだからだ。
 到来まで、コンマ一秒。

 ――ふらり、と。

 半透明な人影が、向き合う二人の間を音もなく通り抜けて行った。

『ォオオォォォオ』

 ぽっかりと開いた口から、気持ちの悪い咆哮を発している。息をすることが出来なかった。危険・・なやつだと、七瀬は直感的に悟った。
 いかなる事柄にも例外は存在するものだが、今の幽霊がそれだった。極めて稀な、悪霊の類に違いなかった。恨みを持って死んだ人間が、霊となった後も心の中で憎しみを増幅し続ければ、やがてああいう風になる。金を積まれても関わりたくない存在だ。
 七瀬は目だけを動かして、視線でそれを追いかける。だがそれはこちらのことをまるで意に介さない様子で、やがて人ごみの中へと紛れて消えていき。そしてそのまま見失ってしまった。思わず、ホッと息をつく。

「……すいません、なにか?」

 少女の呟きに、七瀬は我に返った。慌てて資料を手渡す。
 不自然に思われただろうか。心配になったが、彼女は気にした様子もなく資料を受け取ると、その場を後にした。
 彼女が立ち去ったあとには、勿論次の人が来る。次から次へと人が来て、いつしかさっきの幽霊のことは頭から消えていた。
 だから当然の如く、彼女が立ち去る途中に振り向いて七瀬のことを見たのにも、気づく筈なかったのだった。

 ※

 午後。
 時間が経つに従って、真夏の熱気はその残虐性を増してきていた。
 コンクリートの地面は完全に熱しつくされて、半熟の目玉焼きくらいなら作れてしまいそうだ。キャンパスの各所では移動式のミストスプリンクラーが稼働していたが、全域に涼しさをもたらすには、どれだけ数を増やしても足りそうになかった。日陰で休憩する高校生たちの姿がそこかしこにある。
 ツアーの出発地点に向かうと、既に件の先輩は先に到着していた。学部やサークルこそ違えど顔見知りの相手。遠くからでもすぐにその姿は分かった。

「おっ、来た来た。おーい、こっちだこっち」

 手を振ってくる。暑いのに元気なことだ。七瀬は小走りで急ぎ、だが途中で、ギョッとして立ち止まった。
 灼熱に等しい真夏の暑さが、一瞬で吹き飛ばされる。

 相手の肩に女が乗っていたら、誰だって似たような反応をすることだろう。

『彼女』はその上半身を、ぐたりと先輩の右肩に預けていた。今にもずり落ちていきそうな格好だが、危なげ無く今の体勢を保っている。着ている服は真っ赤なワンピースにハイヒール。その顔は長い黒髪に隠されているが、目が合う心配が無いだけそちらの方がありがたい。
 行き交う人の誰もが、女性を認識していなかった。先輩自身とて気付いている様子ではない。
 普通なら、自分の肩へ乗っている人に気が付かない筈がない。
 その矛盾が、『彼女』は七瀬のような人にしか見えない存在――すなわち幽霊だということを、完全に証明していた。
 やけに今日はこういうのに出会う。七瀬はふと、予感のようなものを感じた。
 そしてその動揺は、先輩にも伝わったようだった。

「ん? そんな顔して、どうかしたのか。気分が悪かったら早めに言うんだぞ」
「調子は大丈夫です。それよりも先輩、最近どこか変な所行きませんでしたか。山奥のトンネルとか、廃病院とか」
「最近か……おおそういえば、三日前に山奥の廃墟に肝試しに行ったっけな。『幽霊が出る』とか『行ったら呪われる』とかネットにあったから行ってみたんだが。この通り、なんも起こりゃしなかったよ」
「はあ………」

 豪快に笑う先輩を見ながら、七瀬は内心で嘆息していた。
 ここまで鈍感な人がいるものなのか。見るからに危険そうな幽霊を、思いきり肩に乗せているのにまったく気づいていない。
 ボリジという花には、『鈍感』なんていう花言葉があるが。今の彼にはぴったりかもしれない。

「……まあ、おツかれさまでした?」
「はっはっは。何だか、語感に不穏な響きを感じるぞ」
「気のせいですよ」

 そう言いながら、そっと目線を逸らす。『彼女』に、自分が見えていると気付かれないように。
 幽霊というものは、大なり小なり皆各々の未練を持っている。それを叶えてもらう上で、七瀬のような見える人は彼らにとって救世主に等しい。だがそうして頼られた所で、悲しきかな、七瀬にはどうにもできない。普通は彼らに触ることすらできないし、ましてや無理矢理に成仏させるなんて出来るわけもない。
 だからこういうときは、見えないふりをすることにしている。残酷だけれど、幽霊に付き纏われる趣味は七瀬にも無いのだ。

「もうぼちぼちと来てますね」

  話題を逸らそうと、七瀬が言った。ちなみにツアー参加希望者のことだ。

「立錐の余地も無い、って程じゃあないが、こりゃ大盛況だな。大仕事になりそうだ、きついぞ」
「閑古鳥の声を聞くより、ましでは」
「はっはっは」

 先輩は豪快に笑った。
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