嫌童児

じゃぱろう

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後篇

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 ──十数年前、土砂降りの雨の中かつての紫陽と同じように一人の孤児がボロ屋の軒下で座って、目の前の行き交う人々を眺めていた。

 紫陽と同じように惨めな姿で人とは呼べない見た目をしていたが、そのような姿になっても空腹には抗えないようだ。
 継実は前方の道に駆け寄り、暫く踏ん切りがつかずにうろうろしていたがやっと口を開いた。

「お腹が空いています!ご飯を下さい…!」

 人々は立ち止まらない。彼は雨音で聞こえないのではと考え、再び大声で言った。幼き日の彼は恐ろしいほどに純粋で、汚れを知らない阿呆なのだ。

「誰かご飯を下さい!お腹が背中とくっつきそうだ!!」

 少年の正直な言葉に人々の中には吹き出して笑いそうな者もいたが、全員が各々の歩みを進めた。継実のような小さくて貧弱な体は大人の波に飲まれた。

 その間ずっと声を張り上げて懇願していたが、たらい回しにされた挙句道路脇に投げ出された時には口が開いていても声は出ていなかった。彼は尻もちをついて泥水に浸かった。
 仕方なく元いた場所に蹲り、空腹を誤魔化すため眠りについた。

 目を覚ますと消えない飢餓感と周りの視線に気づいた。彼が目を覚ました後も人々は周りを壁のように囲み、彼は好奇の目に刺された。

 雨の中、誰も聞く耳を持たない人々に孤児が必死に叫ぶ姿は憐れであった。
 しかしそれ以上にとても可笑しく、考えるほど笑いがこみ上げてくる。

 彼の周りには奇異な目と野次馬の足が次々と向かい、通りすがりの村人の興味も集めたが救いの手は一つだって集まらない。継実はまだ八歳だった。

 しかし、幸か不幸か。

 このような目にあって同じような孤児を救いたいという野心が芽生え、どんな苦難が襲っても心は折れなかった。
 彼は十歳の時、仏門派に入り、十代の内に徳を積み、二十歳でこの小さな民間の僧堂を建て、かつての願いである孤児を救っては育てていき、すでに三十人の弟子がいた。

 今までの弟子と同じように紫陽も七つになるまで育てた。

 人々の目には彼が本当の仏に見えただろう。
 幼い頃に苦労をしたというのに自立し成長し、さらには同じような境遇の子を救うという信念を成し遂げた。

 結局は同じ経験をした者にしかその人の気持ちを理解できない。孤児の苦痛を孤児以外に誰が理解できるのか?



「師匠は私の恩人でとても尊敬しております。あなたはいつも仰りました。
『孤児だった自分だからこそ孤児の気持ちが分かる。だから孤児のお前は孤児を救いなさい』と」

 これは事実だ。彼はこの教えを説き、そして自らの生きる理由でもあった。

「ですが師匠、私はこの教えだけは理解できないのです」

 紫陽は少しの慈悲も感じさせない冷たさで、まるで自分が倫理にかけ離れたことを言っているとは思っていないように、淡々と言い放った。

「なぜ幼い頃に苦痛を経験したのに、大人になってまで苦労を負わなければならないのですか?
 私は救われた子供たちに幸せそうな笑顔を向けられるたびに耐えられなくなってしまう。そんな気がしてならないのです」

 継実は「そんなことを…言うな…」と覇気はなくともハッキリと叱った。しかしその後は小さな声でブツブツと言い続けることしかできない。


 ────ガシャーン!

 この時、皿が割れる音が耳を劈く。継実が卓をひっくり返したのだ。
 継実は突然蹲りその両手には血が垂れ、彼がひっくり返した卓を見た紫陽は、それでも気にせず続けた。
 彼は毒衣を見せつけるように痛みに耐えながら体をくねらせた。

「そのお叱りは受け入れられません…なぜ師匠はこの毒衣を私のために作ってくださったのに、もう一つの美しい晴れ着をあとから作ったのですか?」

 継実は床の木目に爪を這わせ気づかぬ内に引っ掻いており、爪は剥がれ血だまりに額を押し付けていた。

「私を殺したかった。…それでも師匠は私を殺めることを躊躇って、思いとどまってくださったのですよね」

 彼は先程倫理に反することを言った弟子を再び咎めようとし口を開いたが、息を吸う音が漏れるだけで、すぐにそれすら聞こえなくなった。

 彼は泣いていた。

 嗚咽を漏らし目は血走って必死に声を出そうとする。

「紫陽、お前が言っていることはお前の人生を否定することだ。孤児だった私が孤児のお前を助けなければ息絶えていたかもしれない」

 そんな脳裏に浮かんだ言葉は声にならずに消える。もちろんこんなこと言えるはずがなかった。

 継実も心の底で
「なぜ苦痛を乗り越えた先にまた苦労を負わねばならないのか?」
 と思っていたからだ。

 勝手に助けて、勝手に後悔する。身勝手で醜いこの感情。
 そしてこんなにおぞましい感情を留めておくには器が足らなかった。二十数年の中で彼は何度も自問自答を繰り返し、自らの手を汚している。

 彼は紫陽の八つの誕生日に向けて晴れ着を用意した。最初は毒を染み込ませた法衣に、これでもかというほど内側に毒も塗って、これを晴れ着として渡す気だった。

 今までと同じ単純な作業だ。

 何年も何年も繰り返してきた彼が間違いを起こすはずがない。

 ただ少し、今回は躊躇していた自分がいたのだ。
 なぜかは分からない。
 だからずっと前から毒衣とともに惨めな気持ちを暗所に仕舞っていた。

 隠した毒衣を見つけなければ、やっと弟子の八つの歳を迎えられていた。どうしてこうなったのか、継実にはもう何も解らない。

 彼の孤児を救いたいという思いは消えたわけではなく、だから新しく華やかで霊力のこもった晴れ着を作り直し、皺にならないように表に出しておいた。

 なんと滑稽なことか。傍から見れば理解しがたい狂人だ。救いたい、生きててほしいという気持ちと、死を切望する思いが両立することなどあるのだろうか?

 結局は同じ境遇の人にしか分からない。

 紫陽を拾ったとき彼は孤児だった自分を重ね、救いたいと思った。そして四歳の衰弱していた小さな命を一生懸命繋ぎ止めた。

 五歳を迎える頃には元気になったが、それでもまだ小さかった彼は雛鳥のように継実について回った。六歳の彼は驚くほどの生命力を見せ、小さいながらも修行に励み優秀な師匠の力を着々と身につけた。

 今では七つの彼も、八歳になろうとしている。彼は次第に笑顔が増えていった。
 継実は「子供は嫌いだ」と言いつつも彼を我が子のように育てた。

 そんな日々の中で、彼には拭いきれない疑問があった。

「自分が六つの頃己が生きることを望んでくれた人はいただろうか?七つの頃慕う人がいただろうか?八つの頃笑えただろうか?」

 大人になって幸せの渦中におり生き抜く力があったとしても、八つの頃の自分に手を差し伸べる人などいなかった過去に変わりはない。紫陽を拾ったとき彼は孤児の自分と重ねた。

 その孤児が八つになるというのなら、なぜ八つ頃の嘲笑われても必死に生きる自分と重ねないでいることができるだろうか?

 紫陽は明日八歳を迎える。三日前から喜びを抑えられずに子供のようにはしゃぎ、そんな姿を見て継実は心から嬉しかった。

 童の笑顔は眩しく、心を温める宝物だ。

 刺すような雨に降られてこそ輝く、紫陽花のような強さが嫌いだったとしても。

 八つの頃の自分がお腹を空かせ、泥水に浸かり生きるために笑いものになっていたとしても。

 紫陽が拾われたのと同じように、手を差し伸べてくれる人が己にはいなかったとしても。

 子供の笑顔を眺め、宝物だと感じた継実の思いは変わらない。

 小さな僧堂に吹く風は止んだ。それでも風ぐるまは周り、彼らを導くかのように一段と激しく音を立てて回り続ける。

 紫陽は感覚が麻痺し、痛いのか痒いのか苦しいのかも分からずただ首がただれて気道が塞がり、窒息するのを待つだけの状態だった。
 ハクハクと口を動かし喉を鳴らした。

「師しょ…子供は、嫌い、ですか…?」

 継実は応えない。

 紫陽は首筋の血管に針が流れているような激痛に耐え首を左に向け、へばりついて乾いた眼球は「パキパキ」と音を立てながらも師匠を見つめた。
 光のない彼の目にはただ蹲り、乱れた長い黒髪が遮り表情すら見えない師匠の姿が白黒で映った。

「ししょ…きらい、なのは…こどもじゃ…ないよ……。だって…ししょうは……やさしいもん…」

 彼の声は空気が漏れた音のように静かで聞こえづらい。風ぐるまの音がさらに邪魔をする。それでも継実の耳には彼の声が聞こえた。

「黙れ!」

 拳を叩きつけ、顔を挙げずに手探りで物を掴み無造作に壁に投げつけた。まるで三歳の子供が腹を立てて、手の届くすべてが気に食わず物を投げるのと同じだ。

「うるさい!うるさいっ!しらないっ!」

 ぐずっては泣きわめく。まるで大っきらいな子供のように。

 幾分かそうして、駄々っ子がやっと落ち着いたかと思うと立ち上がって紫陽の方にゆらゆらと歩き出した。

 そのまま紫陽になだれ込むように跨り、彼の上半身を起こして青筋を立てて叫んだ。

「私が子供を嫌いじゃないなら、私はいったい何が嫌いなんだ!」

 誰も応えない。
 継実は彼の体を見て元の白かった肌に赤い痣が分布し火傷のようにただれ、腫れ上がった喉を捉えやっと彼がとっくに死んでいることに気がついた。


「カラカラ」「カラカラカラ」
 小さな子どもたちが新たな遊び相手を見つけ、恥ずかしくも喜んでいるように激しく回り続ける。

 小さな幼霊の僧堂の仏壇には三十一個目の墓が建てられた。一つ余っていた卒塔婆を立て、甘い果実が供えられ、とても大切にされているように見えた。

 三十一個の風ぐるまは回り、寂しく僧堂に鳴り響く。

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