48 / 48
太陽に手を伸ばす教皇
6
しおりを挟む執事との奇妙なお茶会の翌日、ようやく肩の包帯が完全に取り外された。恐る恐る動かしてみたが、特に違和感はない。ドレスの肩口をずらして、首をよじるようにして傷を負った場所を覗き見ると、地肌よりも少し薄い色の絵の具ですっと引いたような線が残っているだけだった。
護身術の練習は傷の回復もあって、真剣を持つことが許されるようになった。あくまでも体力づくりの一環で、訓練をした人間が相手では絶対に敵わない、と練習を始めた頃のように釘を刺したあとで、ローズさんが遠慮がちになにかの包みを差し出した。
「カイルから預かっていまして、お渡しすべきか迷ったのですが……」
いつもきりっとしているローズさんがおずおずと差し出したのはひとふりの短剣だった。
長さは私の指先から肘ほどで、透かし彫りで植物の柄が施された鞘に入っている。細身だが手に取ると確かな重みがあった。鞘から抜くと、鏡のようにきれいに磨かれた銀色の刀身が、きらりと日の光を反射した。
「おじいさまから相続したもので、お守り代わりにリンジー様に預けると。なんでも、次に会う時には返せよ、と……」
言いづらそうに、彼女はそう締めくくった。
無骨な兄らしいと思わず笑みがこぼれた。返せという言葉には、再会しようという意味が込められているんだろう。相変わらず意地っ張りな優しさだ。
「カイルお兄様に夢見てる令嬢だったら卒倒しますね。でも嬉しいわ」
そう言って渡してくれたことにお礼を言うと、彼女は同意して私と同じように呆れた笑みを浮かべた。
基本の型をさらってから、対面形式で軽く習った型を打ち込んだ。剣を交えると、キンと甲高い音と同時に手に慣れない重さがかかった。
「なかなか筋がいいですよ」
「ありがとう、お世辞でもっ、嬉しいです」
こちらはもう息が上がっているのに、精一杯の剣を余裕で交わしながらローズさんが褒めてくれた。
そういえば昔は割と外遊びが好きな方だった。何もなければ二番目の兄が軍に入ったとき、練習相手になっていたかもしれない。そう奮起して体を動かした。
少しして一旦手を止めて、額や鼻の頭に浮いてきた汗を布で拭っていると、背後から声がした。
「そろそろ休んだらどうだ」
振り返ると公爵が立っていた。逆光でその表情はよく見えない。いつからいらしていたのだろう。目を瞬かせる私の横で、ローズさんは平然と返事をして剣を納めた。
「また汚れているな、日焼けもしている」
日陰に移動すると、公爵は使用人に飲み物を用意するように言い付けて、細々と世話を焼いてくれた。自然と近づく距離に胸が高まる。
「……君がこんなに無理をする必要はないんだ」
公爵が苦しそうに言ったのは、練習でできた軽い打撲の傷の手当している時だった。
高位貴族らしからぬその行動も、将軍から学んだことかなと思っていた私は、弾かれるように公爵の顔を見上げた。
「それは、どういうことでしょう?」
もしかして、何か作戦が決まったんだろうか。ぐっと黙り込んだ公爵は声を落として話し出した。
「陛下からは口止めされているが、君抜きで進むように修正している」
「そんな……」
急に仲間外れにされたような気持になって私は黙り込んだ。
計画に巻き込まれたと思っていたはずなのに、外されるとなると手放しでは喜べなかった。受け継がれた能力に、なにか運命めいたものを感じていたのかもしれないし、戦争を止めなければならないという義務感に駆られたせいかもしれなかった。
「私も賛成だ」
何も言わない私に、公爵の一言が追い打ちをかけた。もう用済みということだろうか。唐突なことに頭が追い付かなかった。
じわじわと暗い考えが頭を占めていく。不意に頭上からため息が落ちた。
「そんな顔をしないでくれ」
辛気臭い顔なんて見たくないと言われた気がして、傷ついた私は黙ってうつむいた。
「リンジー」
不意に両肩に公爵の手が置かれた。持っていきようのない感情の昂りが、涙になってじわじわと目に溜まっていく。
こぼれ落ちそうなそれを悟られたくなくて、返事もせずに、すねた子供のように顔を上げられないでいた。
そうしていると、肩にそっと力が加わり、公爵の正面を向くようにされたかと思うと、そっと彼の右手が私の顎を掬い上げた。黒い瞳が私の顔を見て一瞬ぎくりと固まる。
ややあって諭すように公爵が話し出した。
「……よく聞いてくれ、君は十分にやってくれた。私も、君のお兄さんも、もう君を危ない目に遭わせたくないんだよ」
顎にかかった彼の手と、距離の近さとが気になってろくに話が入ってこない。涙はいつの間にか引っ込んでいた。ひとまず距離をとりたくて頷いてみせたが、オリバー様は何故だかその手を離してくれなかった。
ごほん、ふいに近くからわざとらしい咳払いがした。ぱっと手を離した公爵から私は思わず二、三歩後ずさった。
「……マーティン、大事な用だろうな」
「えぇ。お茶の用意を致しますので」
地を這うような低い声で言う公爵に、執事はしれっと言い返す。そして後ろに控える使用人に目配せすると、彼らは簡易的な椅子と円卓を運んできて、お茶の支度をてきぱきと始めるのだった。
「さっきは急に詰め寄ったりして、すまなかった」
「い、いえ、こちらこそ……」
お互いにぎこちなく謝りながら、向かい合う形で腰掛けて喉を潤した。
ローズさんもマーティンも一旦屋敷に戻るようで、二人きりになった。皇太子との噂をきちんとしておくのは今しかないかもしれないとふと思った。
「皇太子とは、ただの昔の友達なんです」
口から出た言葉はなんだか間抜けに響いて、どうしてこんな唐突にしか言えないんだろうと、私はまた少し落ち込んだ。
平然と見えるように祈りながらお茶を飲み、こっそり盗み見た公爵は無表情だった。なんだかがっかりしていると、公爵が掠れた声で問いかけてきた。
「どうして、私にそれを?」
問いの意味が分かりかねて戸惑っていると、今度は笑顔を張り付けた公爵が穏やかに言葉を続けた。
「あぁ、噂になっていることを心配しているのかな。別に疑っていないから心配しなくていい」
確かに噂を否定したいということもあった。そういうことにして会話を終えてもいいのだ。彼の言葉に乗っかろうとした私の脳裏に、昨日の執事の言葉が蘇った。公爵のような方は『正面からの攻撃に弱い』――。
「公爵に、オリバー様に、ちゃんと知っていてほしくて」
そう、一番は彼にきちんと知って欲しいのだ。――だって私は公爵が好きだから。恥ずかしさや気まずさを堪えて、正面切って真っ直ぐ言うと、今度は黒い瞳が先に視線を逸らした。
「君はそうでも……アレキサンダー様の方はどうかな」
「そ、れは……」
私には答えようがないことだ。公爵はどうしてそんなことを言うのだろう。少し恨めしく思いながら手元のカップに視線を落とした。
「すまない、ただの嫉妬だよ」
向き直った公爵はそう言うと、怪我に気をつけるようにと言い残して、優雅な足取りで屋敷へと戻っていった。去り際、ダークブロンドの髪から覗く耳が、赤く染まっているように見えた。
一人残された私は声にならない声をあげて顔を覆った。公爵の言葉や態度一つで、私の心がどんなに揺さぶられるか、きっと彼は分かっていないんだろう。
「リンジー様! どうなさったんです、そのお顔」
「あ、いえ、その……日焼けしてしまったみたいで」
公爵と入れ替わるようにして、戻ってきたローズ様は私の顔を見るなり目を丸くした。聡い彼女は、すぐに何かを察したかのようで、体に異常がないことを確かめた後は、顔色のことには触れないでくれた。
夏の強い日差しが、広い庭にも降り注ぐ。私の頬は薔薇のように染まっていることだろう。それはきっと、日焼けのせいだけではなかった。
0
お気に入りに追加
17
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
【完結】もうやめましょう。あなたが愛しているのはその人です
堀 和三盆
恋愛
「それじゃあ、ちょっと番に会いに行ってくるから。ええと帰りは……7日後、かな…」
申し訳なさそうに眉を下げながら。
でも、どこかいそいそと浮足立った様子でそう言ってくる夫に対し、
「行ってらっしゃい、気を付けて。番さんによろしくね!」
別にどうってことがないような顔をして。そんな夫を元気に送り出すアナリーズ。
獣人であるアナリーズの夫――ジョイが魂の伴侶とも言える番に出会ってしまった以上、この先もアナリーズと夫婦関係を続けるためには、彼がある程度の時間を番の女性と共に過ごす必要があるのだ。
『別に性的な接触は必要ないし、獣人としての本能を抑えるために、番と二人で一定時間楽しく過ごすだけ』
『だから浮気とは違うし、この先も夫婦としてやっていくためにはどうしても必要なこと』
――そんな説明を受けてからもうずいぶんと経つ。
だから夫のジョイは一カ月に一度、仕事ついでに番の女性と会うために出かけるのだ……妻であるアナリーズをこの家に残して。
夫であるジョイを愛しているから。
必ず自分の元へと帰ってきて欲しいから。
アナリーズはそれを受け入れて、今日も番の元へと向かう夫を送り出す。
顔には飛び切りの笑顔を張り付けて。
夫の背中を見送る度に、自分の内側がズタズタに引き裂かれていく痛みには気付かぬふりをして――――――。
【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!
ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、
1年以内に妊娠そして出産。
跡継ぎを産んで女主人以上の
役割を果たしていたし、
円満だと思っていた。
夫の本音を聞くまでは。
そして息子が他人に思えた。
いてもいなくてもいい存在?萎んだ花?
分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。
* 作り話です
* 完結保証付き
* 暇つぶしにどうぞ
優しく微笑んでくれる婚約者を手放した後悔
しゃーりん
恋愛
エルネストは12歳の時、2歳年下のオリビアと婚約した。
彼女は大人しく、エルネストの話をニコニコと聞いて相槌をうってくれる優しい子だった。
そんな彼女との穏やかな時間が好きだった。
なのに、学園に入ってからの俺は周りに影響されてしまったり、令嬢と親しくなってしまった。
その令嬢と結婚するためにオリビアとの婚約を解消してしまったことを後悔する男のお話です。
王子妃だった記憶はもう消えました。
cyaru
恋愛
記憶を失った第二王子妃シルヴェーヌ。シルヴェーヌに寄り添う騎士クロヴィス。
元々は王太子であるセレスタンの婚約者だったにも関わらず、嫁いだのは第二王子ディオンの元だった。
実家の公爵家にも疎まれ、夫となった第二王子ディオンには愛する人がいる。
記憶が戻っても自分に居場所はあるのだろうかと悩むシルヴェーヌだった。
記憶を取り戻そうと動き始めたシルヴェーヌを支えるものと、邪魔するものが居る。
記憶が戻った時、それは、それまでの日常が崩れる時だった。
★1話目の文末に時間的流れの追記をしました(7月26日)
●ゆっくりめの更新です(ちょっと本業とダブルヘッダーなので)
●ルビ多め。鬱陶しく感じる方もいるかも知れませんがご了承ください。
敢えて常用漢字などの読み方を変えている部分もあります。
●作中の通貨単位はケラ。1ケラ=1円くらいの感じです。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界の創作話です。時代設定、史実に基づいた話ではありません。リアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。
※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
毎話楽しみに、拝読させて頂いております。
お話の続きが気になって仕方ありません。
次回の更新が、待ちどうしいです。
ちぎり様
メッセージに気づかず、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
感想ありがとうございます!
そう言って頂けて嬉しいです。
不定期更新ですが、これからも頑張ります。
関連の短編も公開したので、もしよかったらそちらもお読み頂ければ嬉しいです☺️