ファンレター~希望、繋ぐ馬へ~

緋野 真人

文字の大きさ
上 下
36 / 54
再起への苦慮

再起への苦慮

しおりを挟む
「――そうか、アカツキが……」

クロテンの帰厩に合わせ、海野厩舎を訪問した石原は、その衝撃的な一報に、翔平たちと同じ様な反応を示した。


「ヤマトに始まった、松沢かれの調教師人生に残った"宿題"とも言える、あのレースを勝って……全てを終えて、去って行きたかったんだろうに」

石原は、松沢の胸中をそう察して、悔しそうに表情を歪めた。


「ええ、本当に残念です」

海野はコーヒーを淹れ、石原の前に置いた。

「――で、由幸くん。

テンユウの仕上がり……どういう感想だい?」

「見た目でも、検量してみても、確かに太くはなっていましたが、あれはある程度、成長分も加わっていますね。

まずは、レースに使えるレベルまで、馬体重を絞らなければいけませんが――復帰まで、大幅な時間を要する程ではないと思っています」

その海野の感想に、石原は大きく安堵した。


「そうか――では、具体的にはどれくらいかかると?」

「そうですね……出来れば年内、そう考えてはいます」

海野はそう伝えると、何かを思い出したかの様に笑みを見せる。


「そんな楽観的な目算が出来るのは、白畑Fの手腕と、クロテンの賢さのおかげですよ」

「――えっ?」

「コレを見てください」

海野は、先程大田に渡されたデータが表示された、タブレットを差し出す。


「スタッフが与える飼い葉の量や、トレーニングメニューもそうですが……クロテンの食べる量と、体重変化の動きが面白いんですよ。

まるで、クロテン自身が、自分のどこを鍛える必要があるのか、それに必要な食事の量をどれぐらいなのかを、理解している様に推移している――それも、翔平くんたちと再会した"あの日"を境に。

クロテンは『戦いたがっていた』と、翔平くんから聞かされましたが、その言葉通りのデータですよ」


次に、海野が表示したのは先程のクロテンの馬体写真と、日経賞の前に写した写真の比較である。


「骨折した部分を守るために、まるで、筋肉の鎧でもまとわせた様な鍛え方――増えた体重の影響を弱くするために、脚の部分は可能な限り鍛えず、胸前や太ももを増量して、馬体を支える"基礎部分"の強化に重きを置いた造り方、彼の爆弾を抱えた脚を守るには、ベストの選択ですよ。

あとは、私の調教で、無駄な分を削ぎ落とすだけ――という状態です」

海野は、熱弁を奮って、石原に説明した。

「……なるほど『準備は牧場で終えてある』というコトか。

――では、私の考えも由幸くんに伝えやすいね」

石原は、小さく笑みを見せた後、海野の目を黙って見据えた。

「テンユウを――有馬記念に使って欲しいんだ」

「?!」

「……可笑しいだろう?、能力落ちの不安が拭えない馬を、天下のグランプリに出せって言うのは」

「いっ、いえ――そんな」

「単に、派手に有馬で復帰させたい――というワケじゃない、もちろん、どこで復帰させるかは、トレーナーの君の裁量さ。

ただ――あの怪我をしてしまった、中山の2500mをいつか走りきらないと、テンユウも私たちも、あそこに"ナニか"を置き忘れた様な気がしないかい?

それを取って来ないと、本当の意味の復帰が出来ていないと思うんだ」

「……」

「それに、臼井さん――『手紙のあの人』に、大舞台に帰ってきたテンユウの姿を、見せたいんだよ。

テンユウも――きっと、それを望んでいると思うんだ」

石原は迷いの無い瞳で、海野の返事を待った。

「……解りました、オーナーの要望ですから、私は出来るだけ、それを叶えるだけです」

――と、海野は、ちょっとやさぐれた返事をした後――

「――私も、中山の2500mには、同じ事を思っていました。

流石に、"有馬記念で"とは思っていませんでしたがね」

海野は、自分の気の弱さに、改めて苦笑いを見せた。

その海野の笑みを見て、石原はふっと声を漏らしながら――

「私たちの様なイイ歳の者が、そんな事を思うのは――」

――と、海野に問いかけると――

「――無垢な若者たちが、側にいるせいかもしれませんね」

――そう、答えた海野は、笑いながらも、メガネの向こうには、勝負師たる決意に満ちた鋭い眼光を覗かせていた。





――そして、秋も深まった11月の日曜日。

京都競馬場では、エリザベス女王杯というGⅠレースが開催され、現役牝馬の頂点が決まる日だ。


場面はココ、福島競馬場のパドック――時刻は、その件の女王杯のスタートまで、約1時間に迫った午後3時前。


そこで、騎乗命令が掛かるのを待つ、騎手の群れの中に――翼の姿があった。


青く塗られたヘルメットをかぶり、パドックを周回している馬を凝視している翼は、何度もスーハー、スーハーと、大きく深呼吸していた。


どうやら、かなり緊張しているらしく――頬は紅潮し、喉では何度も唾を呑み、ズレたヘルメットの顎紐を直そうと触れた右手は、小刻みに震えていた。


高鳴る心臓を抑えようと、胸に手を当てた翼が目線を上に向けると、ソコに掲げられた垂れ幕には――


『第…回 福島記念 GⅢ』


――と、書かれている。


翼の緊張の元は、どうやらコレの様だ。

そう――翼はついに、初めて重賞レースに騎乗する。


垂れ幕を見ただけでも、翼の手の震えはさらに増し――

(――ダメッ!、見ちゃダメッ!)

――と、翼は自分にそう言い聞かせ、胸に当てた手の平で勝負服の胸元を強く握る。


その時、丁度、翼の前を周回している騎乗馬あいぼうと目が合い、翼はその一瞬だけは落ち着き、笑顔も覗かせた。


その翼を安堵させた騎乗馬は、華麗な尾花栗毛をなびかせ"どっしりとした"雰囲気を醸し、落ち着き払って周回しているが、時々、どこか懐かしさ気にパドックをキョロキョロと見渡している。


そんな、珍しい毛色でもうお解かりかもしれないが――その翼の初重賞騎乗のパートナーというのは、なんとクロテンである。


クロテンも――ついに、復帰戦を迎えたのだ。


帰厩して、まだ約1ヶ月――故障明けの馬の実戦復帰としては、セオリーから外れた急ピッチな復帰過程ではあるが。

そのクロテンの手綱を引くのは、もちろん翔平――彼も、ついに迎えたこの日を、噛み締める様に安堵した表情で、周回している。


翼の前を通り過ぎた1人と1頭の姿を、パドックのセンターサークルから、眺めているのは海野だ。

(――よし、とりあえず、ココまではクリアだね)

海野は、クロテンの歩様を凝視し、先の二人と同じく安堵の表情を見せた。

帰厩から、今日までの1ヶ月――人間たちも、クロテン自身も、試行錯誤の毎日であった。


一番、苦労したのは、調教師トレーナーであり、厩舎チーム指揮官リーダーである海野だろう。


海野は、当座の目標こそは有馬記念と定めたが、天下のグランプリに挑むとなれば、生半可な仕上げにはしたくないという自負プライドから、故障明けとはいえ、本番ありまの前にどこか、先に復帰戦を設けたいと考えた。

しかし――クロテンは、左回りコースのレースには使えないというハンデを抱えているので、この時期の関東の主戦場、東京でのレースには出せないのだ。

――そうなると、残ったのは、この時期の関西勢の主戦場である京都と、第三場ローカルの福島。

どちらも右回りなので、その心配はクリア出来たが、次に問題となったのは、レース条件と有馬への日程だ。

休養中だったとはいえ、クロテンはGⅡを勝った実績を持つ、バリバリのオープン馬である――当たり前ではあるが、オープンクラスに開放されている、上級クラスのレースにしか出走出来ない。

しかし、クロテンが結果を残している、芝コースで行われる2000m以上のレースは、この時期の京都や福島には少ない。

――そして、有馬に疲れを残さないためにも、使うのなら11月前半まで、というのが望ましいので、それらを加味すると、合致したのが――この福島記念であった。


3場開催の一方では、GⅠが行われている事からも解るように、今は、毎週GⅠが行われる時期。

悪い言い方だろうが、再び地味な裏街道を行かせるのは、皆の本心ではなかったが、一度試すとしたら、ココ以外には考えられなかったのである。


復帰戦を決めた海野は、今度は脚に爆弾を抱えたクロテンを、わずか1ヶ月でレースに出せる身体に仕上げる事に取り組んだ。


毎日の様に調教用プールを歩かせ、負担が少ないトレーニングを多く消化させる方法で馬体重を絞り、コースに出る時には足元に優しいウッドチップコースを選択し、翼を背にしたオーバーレジェンドを追いかける調教を中心に施した。

これは――持ち前の勝負根性を刺激する事で、運動量を増やすのが海野の思惑だったが、相手のレジェンドに翼を乗せる事を提案したのは翔平である。

「併せるんなら、絶対ソレが良いです。

この間――レジェンドが、翼に身体を洗ってもらってたのを、凄っい形相で睨んでましたから」

――と、翔平は呆れた顔でそう進言した。


翔平の提案を実践してみると、見違えたように反応が良くなり、かつての相手をねじ伏せる様な走りも見せる様になった…

翔平が、クロテンの"スケテン"な部分を、巧みに利用した結果である。


その時のクロテンが――

「ごらぁ~!、レジェンドォ~!、俺の騎手おんなを乗せて、タダで済むと思ってんじゃねぇぞぉ!!!!!」

――と、凄んで追いかけている事は、人間たちには秘密だ。


ちなみに――オーバーレジェンドも、この経験が功を相し、弱点である出足の鈍さが解消され、生粋の逃げ馬として開眼。

後に、クロテンに次ぐ厩舎の主力として活躍するのだが――それはまた、別の物語である。


さて、次に海野を悩ませたのは、この福島記念での騎手選びだった。


海野は――

『レースには、クロテンを支配出来るベテランを』

――という方針を貫くつもりでいたが、復帰戦にココを選んだ時点で、その方針は頓挫せざるを得なくなった。

何故、そうなってしまったかというと――"裏"でGⅠレースが行われているということは、経験豊富で"腕"が確かな、ベテランの一流ジョッキーがそちらのGⅠ開催場に集まり易い傾向があるコトだった。


それはある意味、当然の道理である。


その分、ローカルには必然的に、経験や実績に乏しい翼の様な若手や、表現がまたも失礼になってしまうが、かつての佐山の様な2流、3流の騎手が集まる。

海野は、そんな人材の中から、クロテンを任せるに適う人物を探す事を迫られた。


海野が、鞍上探しに取り掛かろうとした時期に、石原から――

「――麻生騎手では、ダメなのかい?」

――と、まさに"灯台下暗し"な提案を海野は受けのだった。


「石原さん、本気でおっしゃってるんですか?」

「もちろんだよ、彼女は、どんな騎手よりもテンユウの背を――そして、特徴を知る人間だと言っても過言ではない。

確かに、まだまだ場数や勝負勘は足りないだろうが、大っぴらには言えないが、今回のテンユウには勝利を期待しているわけではない、調教の延長と考えれば、彼女に任せるのも一考ではないかな?」


石原は続いて『それに――』と、付け加える体で、厩舎事務所の壁に貼られた、あるポスターを指差した。

そのポスターは、翼がクロダの勝負服を着て、あの写真撮影の時も見せたぎこちない笑顔で、右腕を掲げる写真が使われており、口元に配されたマンガの様な吹き出しには――

『ローカルに行こう!』

――と、記されていた。


コレは、GⅠの裏で目立たない、第三場開催のプロモーション企画の一環で、その広告に翼が起用されたモノだ。


注目度の低さの打開に、ローカルへの参戦が多くなる新人ながら、知名度と人気――"だけ"は、一流騎手たちをある意味凌駕する、翼を使うというのは……企画の立案者は相当な策士であろう。


その広報からの提案に、海野はまたも断りきれずに渋々了承――翼も『先生が引き受けたのなら』と、ポスターとネット動画の撮影に協力した。


そのポスターと動画は大反響を呼び、特に動画などは公開初日に、競馬関連としては破格の再生回数を記録したという。

ちなみに、翼がクロダの勝負服を着ていたのは、単にクロテンとの繋がりが有名だったからであるのだが――

「――図らずも、テンユウが福島ローカルに参戦するのなら、彼女を乗せれば、お客さんも、広報の人たちも、喜ぶんじゃないかな?」

――そう、石原は含み笑いを覗かせて、そう言った。


「質実な石原さんの言葉とは、思えませんね……」

海野は、そう返して苦笑いしていたが、彼も翼の起用には特に異論は無く、彼女の初めての重賞騎乗は、トントン拍子に決まったのだった。

こうして、海野の苦慮と皆の工夫の末、クロテンは今日という日を迎えたのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

されど服飾師の夢を見る

雪華
青春
第6回ライト文芸大賞 奨励賞ありがとうございました! ――怖いと思ってしまった。自分がどの程度で、才能があるのかないのか、実力が試されることも、他人から評価されることも―― 高校二年生の啓介には密かな夢があった。 「服飾デザイナーになりたい」 しかしそれはあまりにも高望みで無謀なことのように思え、挑戦する前から諦めていた。 それでも思いが断ち切れず、「少し見るだけ」のつもりで訪れた国内最高峰の服飾大学オープンカレッジ。 ひょんなことから、学園コンテストでショーモデルを務めることになった。 そこで目にしたのは、臆病で慎重で大胆で負けず嫌いな生徒たちが、己の才能を駆使してステージ上で競い合う姿。 それでもここは、まだ井戸の中だと先輩は言う―――― 正解も不正解の判断も自分だけが頼りの世界。 才能のある者達が更に努力を積み重ねてしのぎを削る大きな海へ、船を出す事は出来るのだろうか。

古屋さんバイト辞めるって

四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。 読んでくださりありがとうございました。 「古屋さんバイト辞めるって」  おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。  学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。  バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……  こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか? 表紙の画像はフリー素材サイトの https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。

音が光に変わるとき

しまおか
大衆娯楽
黒人顔の少年、巧が入部したサッカークラブに、ある日年上の天才サッカー少女の千夏が加入。巧は千夏の練習に付き合う。順調にサッカー人生を歩んでいた千夏だったが突然の不幸により、巧と疎遠になる。その後互いに様々な経験をした二人は再会。やがて二人はサッカーとは違う別のスポーツと出会ったことで、新たな未来を目指す。しかしそこに待っていたのは……

何ノ為の王達ヴェアリアス

三ツ三
ファンタジー
太古の昔。 生命の主である神という一つの存在が人や動物、火や水、風や木々等が、多くの生命が共に暮らしていた世界。 生きるモノ全てが神を敬い、神もまたそんなモノ達を愛していた。『楽園』そう呼ばれていた世界がそこにはあった。 けれど神は、突如としてその姿を消した。 禁断の果実、知恵の実。多くの名と由来を持つその果物を人が食らってしまったからである。 人以外の生命は口を揃えて言う「神を怒らせた」だから神は我々の前から消えてしまったのだと。 楽園と呼ばれたその世界は次第にその名を地に落とし、世界が元は楽園だった事すらも忘れる程に朽ち果て、変わり果てていった。 人は、悲しみと共に罪を生んでしまった。他から蔑まれ、異端モノ烙印を刻まれてしまい生命の輪から外れてしまったのだった。 だが、たった一つの種族だけ、人に寄り添った。 それは「蛇」だった。 神を激昂させた真の原因。楽園を破滅へと導いた張本人であった。 どの生命からも後ろ指を指される世界で、蛇はその姿を変え、名前も『竜』と呼ばれるモノへと変え再び人へと近付いた。 それは、再び人を陥れようとする目論見があるからか、それとも・・・。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...