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9 勇樹のいない家
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その後の術後の経過も順調だったらしく、ちょうど一週間後には退院したと連絡があり、さらにその二週間後には、病理検査の結果が出て今後の治療のスケジュールが決まったとのことだった。
その数日後に届いたメールは食事の誘いだった。世話になったからお礼に好きなものを奢ってくれると言う。世話になったなんて、奈瑠は手術のときただ隣にいただけだ。
仕事をしながら母親のサポートをするのは大変だろうと、「何でも言って」と伝えていたのだったが、勇樹が何かを言ってくることはなかった。
頼まれてもいないのに出しゃばるわけにもいかず、結局何にもしてあげられなかった。だから奢ってもらう理由なんかないけれど、誘ってくれたのはすごくうれしかった。
四日後、待ち合わせの場所に現れた勇樹は元気そうだった。わりとマメに連絡は取っていたものの、顔を合わせるのは手術の日依頼だ。
勇樹が連れて行ってくれたのは、ビルの地下一階にある、一見して高そうなお寿司屋さんだった。
何がいいか聞かれて、お寿司が食べたいと言ったのは奈瑠だけれど、まさかこんなお店を選ぶとは思っていなかった。
「ここに入るの?」
「そうだよ」
「ここってきっとすごく高いよ。別のところにしない?」
「もう予約してあるから。予約だってなかなか取れないんだぞ」
「でも……」
「俺の奢りだから心配しないで」
「だから心配なんじゃない。だいたいわたし、勇樹にお礼してもらう筋合いないし」
「とにかく、味は絶品だから。以前仕事関係の人に連れて来てもらってさ。今日の予約もその人の伝手で無理言って。だから今さら行かないとかありえないから」
もうここに入るしかなさそうだ。
「わたしもちゃんと半分払うからね」
「俺がしたいようにさせてよ。支払いのときに財布出してわたしもわたしもとか、おばさんみたいなことするの絶対やめろよ。恥ずかしいから」
「しないよ。何よおばさんって……」
店の中はカウンター席のみだったが、狭苦しい感じはなく、さすがに高級店の店構えだった。
こういう店に来たことがないわけではないけれど、やっぱりちょっと気遅れする。だが、勇樹と言葉を交わす大将は親しみやすい雰囲気で、奈瑠がちょっと固くなっているのを察してか、「たらふく食べて行ってくださいね」と笑顔で声をかけてくれた。
とりあえずビールを注文したあとは、“本日のおまかせコース”ということになった。こうなったらもう開き直って高級寿司を楽しむしかない。
コチンとグラスを合わせ、ビールを喉へと流し込む。居酒屋で飲むビールよりも泡が繊細で、味が濃い気がする。
「お母さんの調子はどうなの?」
「元気だよ。通院での治療はけっこう続くみたいだけど。そろそろ少しずつ仕事も始めるようだし」
「そっか。よかったね。でも無理しないようにしないといけないよね」
「そうなんだよ。あの人仕事好きだからなあ。ちょっとよくなるとすぐ無理しそうでこわいんだけど」
「退院してしばらくはお母さんのマンションに泊まってたんだよね?」
「三泊だけ。母さんが今住んでるマンションは五年前に引っ越したところでさ。俺が中学まで一緒に住んでたところじゃないから、なんか落ち着かなくて」
「でもお母さん、心強かったんじゃないかな。勇樹がいてくれて」
「どうかな。逆に落ち着かなかったんじゃないの。ほら、手術のとき叔母さんが来てただろ? 母さんの妹。あの人が母さんのマンションのすぐ近くに住んでて、毎日通って世話してくれてたから、本当言うと俺はいなくてもどうってことなかったわけ」
アジやスズキ、アナゴにあわびなど、小ぶりの寿司がタイミングよく順番に出される。勇樹が言っていたとおり、味は絶品だ。
店の雰囲気もあって、ビールを空けたあとは冷酒を頼んだ。
深刻な話は一切しなかった。席は全部お客さんで埋まっていたし、カウンターの向こうにはお店の人がいたから、状況的にしづらいというのもあったかもしれない。でも最初から別に、そういう話をするつもりもなかった。
ただ純粋に、勇樹と普通におしゃべりできる時間を楽しんだ。
「すっごく美味しかった。ごちそう様でした」
「よろこんでもらえたならよかったよ」
「この後どうする? どこかで飲み直す?」
「ごめん。そろそろ帰らなきゃいけないんだ」
「お母さんとこ?」
「そうじゃないけど」
「じゃあまた今度だね。あ、そうだ。これ」
奈瑠はバッグの中から鍵を取り出し、差し出した。
「知世ちゃんから預かってた合鍵」
受け取った勇樹の表情からは、何を思っているのかうかがい知れなかった。
最寄りの駅で、それぞれ反対のホームへと別れた。
奈瑠はホームに着くと同時に滑り込んで来た電車に乗り込み、反対側のドアのガラス越しに勇樹の姿を捜した。
向かいのホームで電車を待つ人たちに混じって、勇樹は立っていた。
奈瑠が手を振ると、少し笑って、手を振り返してくれた。
その数日後に届いたメールは食事の誘いだった。世話になったからお礼に好きなものを奢ってくれると言う。世話になったなんて、奈瑠は手術のときただ隣にいただけだ。
仕事をしながら母親のサポートをするのは大変だろうと、「何でも言って」と伝えていたのだったが、勇樹が何かを言ってくることはなかった。
頼まれてもいないのに出しゃばるわけにもいかず、結局何にもしてあげられなかった。だから奢ってもらう理由なんかないけれど、誘ってくれたのはすごくうれしかった。
四日後、待ち合わせの場所に現れた勇樹は元気そうだった。わりとマメに連絡は取っていたものの、顔を合わせるのは手術の日依頼だ。
勇樹が連れて行ってくれたのは、ビルの地下一階にある、一見して高そうなお寿司屋さんだった。
何がいいか聞かれて、お寿司が食べたいと言ったのは奈瑠だけれど、まさかこんなお店を選ぶとは思っていなかった。
「ここに入るの?」
「そうだよ」
「ここってきっとすごく高いよ。別のところにしない?」
「もう予約してあるから。予約だってなかなか取れないんだぞ」
「でも……」
「俺の奢りだから心配しないで」
「だから心配なんじゃない。だいたいわたし、勇樹にお礼してもらう筋合いないし」
「とにかく、味は絶品だから。以前仕事関係の人に連れて来てもらってさ。今日の予約もその人の伝手で無理言って。だから今さら行かないとかありえないから」
もうここに入るしかなさそうだ。
「わたしもちゃんと半分払うからね」
「俺がしたいようにさせてよ。支払いのときに財布出してわたしもわたしもとか、おばさんみたいなことするの絶対やめろよ。恥ずかしいから」
「しないよ。何よおばさんって……」
店の中はカウンター席のみだったが、狭苦しい感じはなく、さすがに高級店の店構えだった。
こういう店に来たことがないわけではないけれど、やっぱりちょっと気遅れする。だが、勇樹と言葉を交わす大将は親しみやすい雰囲気で、奈瑠がちょっと固くなっているのを察してか、「たらふく食べて行ってくださいね」と笑顔で声をかけてくれた。
とりあえずビールを注文したあとは、“本日のおまかせコース”ということになった。こうなったらもう開き直って高級寿司を楽しむしかない。
コチンとグラスを合わせ、ビールを喉へと流し込む。居酒屋で飲むビールよりも泡が繊細で、味が濃い気がする。
「お母さんの調子はどうなの?」
「元気だよ。通院での治療はけっこう続くみたいだけど。そろそろ少しずつ仕事も始めるようだし」
「そっか。よかったね。でも無理しないようにしないといけないよね」
「そうなんだよ。あの人仕事好きだからなあ。ちょっとよくなるとすぐ無理しそうでこわいんだけど」
「退院してしばらくはお母さんのマンションに泊まってたんだよね?」
「三泊だけ。母さんが今住んでるマンションは五年前に引っ越したところでさ。俺が中学まで一緒に住んでたところじゃないから、なんか落ち着かなくて」
「でもお母さん、心強かったんじゃないかな。勇樹がいてくれて」
「どうかな。逆に落ち着かなかったんじゃないの。ほら、手術のとき叔母さんが来てただろ? 母さんの妹。あの人が母さんのマンションのすぐ近くに住んでて、毎日通って世話してくれてたから、本当言うと俺はいなくてもどうってことなかったわけ」
アジやスズキ、アナゴにあわびなど、小ぶりの寿司がタイミングよく順番に出される。勇樹が言っていたとおり、味は絶品だ。
店の雰囲気もあって、ビールを空けたあとは冷酒を頼んだ。
深刻な話は一切しなかった。席は全部お客さんで埋まっていたし、カウンターの向こうにはお店の人がいたから、状況的にしづらいというのもあったかもしれない。でも最初から別に、そういう話をするつもりもなかった。
ただ純粋に、勇樹と普通におしゃべりできる時間を楽しんだ。
「すっごく美味しかった。ごちそう様でした」
「よろこんでもらえたならよかったよ」
「この後どうする? どこかで飲み直す?」
「ごめん。そろそろ帰らなきゃいけないんだ」
「お母さんとこ?」
「そうじゃないけど」
「じゃあまた今度だね。あ、そうだ。これ」
奈瑠はバッグの中から鍵を取り出し、差し出した。
「知世ちゃんから預かってた合鍵」
受け取った勇樹の表情からは、何を思っているのかうかがい知れなかった。
最寄りの駅で、それぞれ反対のホームへと別れた。
奈瑠はホームに着くと同時に滑り込んで来た電車に乗り込み、反対側のドアのガラス越しに勇樹の姿を捜した。
向かいのホームで電車を待つ人たちに混じって、勇樹は立っていた。
奈瑠が手を振ると、少し笑って、手を振り返してくれた。
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