弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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8 奈留の役割

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本心なのだと思う。知世が話してくれたことは、全て。けれど、人の気持ちがそう簡単にリセットできるものでないことは、奈瑠にだってよくわかっている。

前に進むためにはどうするべきかわかってはいても、歩みを止めたり、後戻りしてしまったりする。

気丈に振る舞っていても、知世も本当は葛藤を抱えているのだろう。

「奈瑠さん、お願いがあるんですけど」

知世はバッグの中からスモーキーなピンク色のキーケースを取り出すと、鍵を一つ外し、奈瑠の前に置いた。

「勇ちゃんちの鍵です。返すの忘れてたんで、奈瑠さんから勇ちゃんに返しておいてもらえませんか」

最後に知世は「勇ちゃんをよろしくお願いします」と言った。

勇樹はどんな思いでいるのだろう。知世のように、葛藤しながらも前に進もうとしているのだろうか。

帰宅時間帯でだんだんと混みだした駅の改札を抜け、奈瑠は自宅とは反対方向の電車に乗った。

一度乗り換えて最寄りの駅で降り、勇樹の家へと向かう。

知世から鍵を預かったとはいえ今日すぐさま返す必要はないし、まだ六時にもなっていないから、そもそも勇樹が家にいる確率は低い。なのに、どうしても行きたかった。

角を曲がると、車庫に車があるのが見えた。だが今日は車で出かけていないだけかもしれない。

とはいえ少しは期待をしながら門のそばまで来たところで、奈瑠はとっさに身を隠した。勇樹がちょうど玄関に入るところだったのだ。制服姿の、女の子と一緒に。

いけないところを見てしまったような気がした。

あの女の子の後ろ姿には見覚えがある。ストレートの長い髪、スカートから伸びた細い脚。奈瑠が勇樹の家に転がり込んだ次の日、偶然訪ねて来た美少女だ。あれ以来一度も見かけてはいなかったのに、どうして――。

勇樹は知世と別れたわけだし、誰と何をしようが自由だが、相手は女子高生だ。勇樹だってそんなことぐらいわかってると言っていたのに。それに、彼女に対しては何の感情もないと……。

しばらくそこに立ってストーカーみたいに玄関の様子を窺っていたけれど、出てくる気配はなかった。

ショックだった。

二人がキスしているところや、その先までも想像してしまう。荒くため息を吐いて、頭の中からそれを追い払った。

辛いのはわかる。けれど、もっと他に気持ちの持って行きようがあるだろうに……。

奈瑠は駅への途中にある公園のベンチに、気がつけば暗くなるまで座っていた。

その日の晩、夕飯の席でみや子さんが言った。

「そういえばお隣の三浦さんの奥さん、入院してるらしいわよ」

「そうなの? なんで?」

「股関節の手術を受けたんですって」

「そうだったんだ。ここのところ顔見ないと思ってた。大丈夫なのかな」

「わりとよくある手術らしくて、もう終わってリハビリに入ってるみたいだけど」

隣のおばさんは、奈瑠が小さいときから何かとよくしてくれ、中学生の頃子犬のぽんたを飼い始めたときには、学校に行っている間預かってもらったりもしたものだ。早速明日、みや子さんと一緒にお見舞いに行くことにした。


おばさんが入院しているのは大きな総合病院だった。

病室を訪ねるとちょうどリハビリから戻って来たところで、奈瑠たちが行ったのをとてもよろこんでくれた。もうだいぶいいようで、元気そうで安心した。


十五分ほど話をして病室を後にし、一階に下りたときだった。

勇樹に似た人を見かけてハッとした。

広い待合室の総合受付の前を、玄関に向かって歩いて行く。

いや、似た人ではない。勇樹本人だ。こんなところで何をしているのだろう。

昨日あんな場面を目撃したばかりでもあるし、ものすごく気になる。

「ごめんなさいみや子さん、先に帰っててくれる?」

「どうしたの? 知り合いでもいた?」

「ちょっとね」

「わかった。先に帰ってるわね」

みや子さんはトイレに寄るからと、そこで別れた。

急いで追いかけ、玄関を出たところで声をかけると、勇樹は驚いた顔でふり向いた。

「どうしたの? どこか体調でも悪いの?」

奈瑠は聞いた。

「いや、別に……。姉ちゃんこそどうしたんだよ。こんなところで」

「わたしは知り合いの人のお見舞い。勇樹も誰かのお見舞い?」

「まあ……」

答えがどうも煮え切らない。

「少し時間ある? どこかで話さない?」

勇樹は少し迷ってからうなずいた。

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