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8 奈留の役割
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実家での生活は思ったよりも気楽だった。
父たちの前で、お風呂上りにビールを飲みながらテレビを見て笑うことなんてないと思っていたけれど、そんな奈瑠を見ても父は何とも言わなかったし、みや子さんは「たまにはわたしもいただこうかしら」などと言って、自分の分を持って来て隣に座る。
父もみや子さんも、奈瑠に特別気をつかっている風でもない。
それが本当は気遣いなのはわかっているけれど、素直に甘えることにしたのだった。
昔の自分だったら、そんなことはできなかったと思う。父が自分をどう思うか、また、父の奥さんであるみや子さんの前でちゃんとしていないと、父に申し訳ない。そんな思いが先に立っていた。けれど、辛い経験が素直になることを教えてくれたのか、今は父の前でも自然体でいられる。
みや子さんとは一緒にスーパーに買い物に行ったり料理を教わったりして、たとえ真似事だとしても、それは昔憧れた母娘のようでうれしかった。
みや子さんの料理はお店で出してもいいほどで、つい、レシピを覚えて今度勇樹に作ってあげよう、と思ってから、そんな機会はもうないことを再認識するのだった。
実家に戻ってから三週間が過ぎた。
勇樹からは何の連絡もない。
知世とはどうなったのだろう。ちゃんとわかり合えただろうか。本当はずっと気になっているけれど、こちらからも連絡はしていない。勇樹が幸せならそれでいい。そのために、自分は勇樹の家を出てきたのだから。
父は何にも言わないけれど、きっと奈瑠のこれからについて心配しているだろう。
そろそろ本腰を入れて仕事を探さなければと、久しぶりにハローワークに出かけた。
求人の内容は出向かなくてもネットで見られるが、全ての情報が開示されているわけではなく、中にはハローワークの端末でしか事業所名がわからないものもある。それに、応募したい求人があれば窓口で紹介状をもらう必要があるのだ。
しばらく検索してみたものの、その日も今一つピンとくるものがなく、あきらめて外に出た。
風通しのいい木陰のオープンカフェの前を通り過ぎようとしたとき、突然「沢井?」と声をかけられた。驚いて声の方を向くと、一人で席に座り、タブレットを手にした男性がこちらを見ている。
「濱田君!?」
「何だよすごい久しぶりじゃないか」
彼は親しい大学の同級生で、社会人になって一、二年は、同じく親しかった仲間数人と時々集まったりしていたのだったが、時が経つにつれそういうこともだんだんと減り、ここ数年は顔を合わせていなかった。
「せっかくだからちょっと座れよ」と誘われるままテーブルにつくと、彼は店の中の店員に向かって軽く手を上げた。
「何年ぶりかな」
注文を終えると彼は言った。
「もう……五年? 六年? 七年? 忘れちゃったね」
「誰かと連絡取ってる?」
「結衣とは時々ね。でもあの子も子育てが忙しいし、なかなか会えないけど」
「お前は? 結婚は?」
「してない」
「そっか。仕事は? 今日は休み?」
「それがねえ……。いろいろあって今ニートなの。ちょうどハローワーク行ってきたとこ。あんまり聞かないで」
奈瑠はため息交じりに笑って見せた。
「いろいろねえ。ま、いいよ。聞かないさ」
「濱田君は結婚したんだよね?」
「うん。でさ、この前娘が生まれたばっかりなんだよ。見る? 見る? もうかわいくてかわいくて」
一緒にタブレットに映し出された赤ちゃんの写真を覗き込む。
スワイプして次々と見せてくれるけれど、どの写真もあまり変わらない。一応「かわいいね」とは言うものの、まだ本当に生まれたてで、あのぷくぷくした赤ちゃんのかわいらしさが出てくるのはもう少し先だな、と思う。
「濱田君もパパかあ」
「そうなんだよ。責任重大なんだよ」
「にしては、ここで何してるの? 仕事さぼって子どもの写真見てたわけ?」
「違うよ。これでも一応仕事してたの」
仕事中にしてはポロシャツにチノパンと、かなりカジュアルないで立ちだ。
「たしか、鉄鋼メーカーの営業だったよね?」
「あれは辞めたんだ。今は自分で小さな旅行会社やってる。主にマニアックな個人客向けの」
「そうなの!? ってことは、社長さん?」
「そういうこと」
「すごいじゃない」
「別にすごくないよ。小さな会社だし」
「ううん、すごいって。濱田君、旅行すきだったもんね」
それから三十分くらい、それぞれが知っている仲間の近況などを教え合ったりして懐かしく話をした。
「そろそろ会社に戻らないと。今日は会えてよかったよ」
「わたしも。ありがと。声かけてくれて」
「近いうちまたみんなで集まろうぜ」
「そうだね」
「沢井の連絡先って変わってないの?」
「変わってないよ」
「わかった。じゃあまた連絡するわ」
手を振って別れた後、少しの間濱田君の後ろ姿を見送った。
彼はああ言ったけれど、実際には連絡は来ないだろう。大人ってそういうものだ。「連絡する」は挨拶みたいなものだから。したくないわけではないけれど、日々の生活に追われて余裕がないのが現実。何の責任も負わず、ただだらだらと過ごしているのなんて奈瑠くらいのものだろう。
帰宅後、リビングでぼうっとテレビを見ているとスマホの通知音が鳴った。知世からだった。最初に会ったとき、盛り上がって連絡先を交換したものの、実際に連絡を取り合ったことはない。勇樹と何かあったのだろうか。
開いてみると、近いうち一度会えませんか、という内容だった。
どうしたというのだろう。
こっちはいつでも大丈夫、と返すと、しばらく経ってからまた連絡が来て、翌日の午後会うことになった。
なんとなく、勇樹との結婚の報告のような気がした。
父たちの前で、お風呂上りにビールを飲みながらテレビを見て笑うことなんてないと思っていたけれど、そんな奈瑠を見ても父は何とも言わなかったし、みや子さんは「たまにはわたしもいただこうかしら」などと言って、自分の分を持って来て隣に座る。
父もみや子さんも、奈瑠に特別気をつかっている風でもない。
それが本当は気遣いなのはわかっているけれど、素直に甘えることにしたのだった。
昔の自分だったら、そんなことはできなかったと思う。父が自分をどう思うか、また、父の奥さんであるみや子さんの前でちゃんとしていないと、父に申し訳ない。そんな思いが先に立っていた。けれど、辛い経験が素直になることを教えてくれたのか、今は父の前でも自然体でいられる。
みや子さんとは一緒にスーパーに買い物に行ったり料理を教わったりして、たとえ真似事だとしても、それは昔憧れた母娘のようでうれしかった。
みや子さんの料理はお店で出してもいいほどで、つい、レシピを覚えて今度勇樹に作ってあげよう、と思ってから、そんな機会はもうないことを再認識するのだった。
実家に戻ってから三週間が過ぎた。
勇樹からは何の連絡もない。
知世とはどうなったのだろう。ちゃんとわかり合えただろうか。本当はずっと気になっているけれど、こちらからも連絡はしていない。勇樹が幸せならそれでいい。そのために、自分は勇樹の家を出てきたのだから。
父は何にも言わないけれど、きっと奈瑠のこれからについて心配しているだろう。
そろそろ本腰を入れて仕事を探さなければと、久しぶりにハローワークに出かけた。
求人の内容は出向かなくてもネットで見られるが、全ての情報が開示されているわけではなく、中にはハローワークの端末でしか事業所名がわからないものもある。それに、応募したい求人があれば窓口で紹介状をもらう必要があるのだ。
しばらく検索してみたものの、その日も今一つピンとくるものがなく、あきらめて外に出た。
風通しのいい木陰のオープンカフェの前を通り過ぎようとしたとき、突然「沢井?」と声をかけられた。驚いて声の方を向くと、一人で席に座り、タブレットを手にした男性がこちらを見ている。
「濱田君!?」
「何だよすごい久しぶりじゃないか」
彼は親しい大学の同級生で、社会人になって一、二年は、同じく親しかった仲間数人と時々集まったりしていたのだったが、時が経つにつれそういうこともだんだんと減り、ここ数年は顔を合わせていなかった。
「せっかくだからちょっと座れよ」と誘われるままテーブルにつくと、彼は店の中の店員に向かって軽く手を上げた。
「何年ぶりかな」
注文を終えると彼は言った。
「もう……五年? 六年? 七年? 忘れちゃったね」
「誰かと連絡取ってる?」
「結衣とは時々ね。でもあの子も子育てが忙しいし、なかなか会えないけど」
「お前は? 結婚は?」
「してない」
「そっか。仕事は? 今日は休み?」
「それがねえ……。いろいろあって今ニートなの。ちょうどハローワーク行ってきたとこ。あんまり聞かないで」
奈瑠はため息交じりに笑って見せた。
「いろいろねえ。ま、いいよ。聞かないさ」
「濱田君は結婚したんだよね?」
「うん。でさ、この前娘が生まれたばっかりなんだよ。見る? 見る? もうかわいくてかわいくて」
一緒にタブレットに映し出された赤ちゃんの写真を覗き込む。
スワイプして次々と見せてくれるけれど、どの写真もあまり変わらない。一応「かわいいね」とは言うものの、まだ本当に生まれたてで、あのぷくぷくした赤ちゃんのかわいらしさが出てくるのはもう少し先だな、と思う。
「濱田君もパパかあ」
「そうなんだよ。責任重大なんだよ」
「にしては、ここで何してるの? 仕事さぼって子どもの写真見てたわけ?」
「違うよ。これでも一応仕事してたの」
仕事中にしてはポロシャツにチノパンと、かなりカジュアルないで立ちだ。
「たしか、鉄鋼メーカーの営業だったよね?」
「あれは辞めたんだ。今は自分で小さな旅行会社やってる。主にマニアックな個人客向けの」
「そうなの!? ってことは、社長さん?」
「そういうこと」
「すごいじゃない」
「別にすごくないよ。小さな会社だし」
「ううん、すごいって。濱田君、旅行すきだったもんね」
それから三十分くらい、それぞれが知っている仲間の近況などを教え合ったりして懐かしく話をした。
「そろそろ会社に戻らないと。今日は会えてよかったよ」
「わたしも。ありがと。声かけてくれて」
「近いうちまたみんなで集まろうぜ」
「そうだね」
「沢井の連絡先って変わってないの?」
「変わってないよ」
「わかった。じゃあまた連絡するわ」
手を振って別れた後、少しの間濱田君の後ろ姿を見送った。
彼はああ言ったけれど、実際には連絡は来ないだろう。大人ってそういうものだ。「連絡する」は挨拶みたいなものだから。したくないわけではないけれど、日々の生活に追われて余裕がないのが現実。何の責任も負わず、ただだらだらと過ごしているのなんて奈瑠くらいのものだろう。
帰宅後、リビングでぼうっとテレビを見ているとスマホの通知音が鳴った。知世からだった。最初に会ったとき、盛り上がって連絡先を交換したものの、実際に連絡を取り合ったことはない。勇樹と何かあったのだろうか。
開いてみると、近いうち一度会えませんか、という内容だった。
どうしたというのだろう。
こっちはいつでも大丈夫、と返すと、しばらく経ってからまた連絡が来て、翌日の午後会うことになった。
なんとなく、勇樹との結婚の報告のような気がした。
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