弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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6 バレてしまった嘘

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笹野さんが来ることは勇樹も知らなかったようだ。

「元気だった?」ということは久しぶりに会ったのだろうが“たまたま近くまで来たから顔を見に寄ってみた”といった気楽な雰囲気ではなさそうだ。コーヒーを出すまでは特に何ということもない世間話をしていたようだが、よっぽど何か直接話したいことがあって、わざわざ訪ねて来たのだろう。二十歳以上も年上の女性が、直接会って話したいこととは、いったい何だろう……。

いくら勝手な想像を膨らませてみたところで、二人の関係性が見えてくるはずもない。

畳に座って背中をベッドにもたれ、自分の知らない、勇樹のこの十五年を思った。人生、いろいろある。生きていれば。誰だって。


奈瑠が自分の部屋に引っ込んでから三十分近くたっただろうか。また玄関の呼び鈴が鳴った。今度こそ知世かもしれない。奈瑠は立ち上がって部屋を出た。

縁側の方ではなく、風呂場の前の廊下を通り、台所を抜けて玄関へ出る。勇樹のクロックスをつっかけて下に降り、引き戸を開けると、いつかの元気のいい宅配便のお兄さんが段ボール箱を持って立っていた。勇樹がまた何か注文したらしい。またしても知世でなかったことに拍子抜けしながら、奈瑠は勇樹の名字をサインして荷物を受け取った。

台所の台の上に段ボール箱を置いたとき、笹野さんが言った言葉がちょうど耳に届いた。

「だからね、勇樹君は勇樹君の人生を生きてほしいの」

前後のつながりはわからない。どういうことなのだろう。それから間もなく、笹野さんと勇樹は立ち上がって居間を出た。笹野さんが帰るようだ。奈瑠も玄関に顔を出した。

「本当に、突然お邪魔してしまってどうもすみませんでした」

笹野さんは来たときのように、奈瑠にもまた丁寧にお辞儀をして帰って行った。

「笹野さんって誰なの?」

なんとなく重い空気の中、できるだけ軽い感じで聞いてみる。当然の疑問だ。

「誰って、言ってもわかんないじゃん」

勇樹はそっけなく言って背中を向けた。

「わからないから聞いてるんじゃない。やさしそうな人だよね。昔お世話になった先生? それとも仕事関係の人とか?」

何か訳ありなのだとしてもそのくらいの質問はいいだろう。別に根掘り葉掘り聞いて核心に迫ろうなどと思っているわけではない。

「写真館やってる人」

意外な答えだった。

「そうなんだ? どこで?」

「中野」

「じゃあ、笹野さんもカメラマンなの?」

勇樹は答えず、縁側に腰を下ろして煙草に火をつけた。

これ以上あの人のことは聞いてほしくない――無言でそう訴えているようだった。

別に機嫌が悪いというわけではないようだが、ぼんやりと視線を宙に泳がせながら煙を吐く姿は、いつもの勇樹とは別人のように思えた。

コーヒーカップを片付けていると、食卓の下に置いてあった勇樹のスマホの通知音が鳴った。

「何か来たみたいよ」

持って行ってやると、勇樹はぼそっと「ありがと」と言って受け取り、くわえ煙草で何度か画面をタップした。そして煙草をまた指に挟んでふうっと煙を吐いてから、「知世、今日来られないって」と言った。

元々知世と顔を合わせるのは気が重かったし、今は様子がいつもとは違う勇樹のことも気になっていて、こんな状態で三人で食事をしなくてよくなったのは正直ありがたかった。

結局その夜は外には出かけず、奈瑠が食事を作った。カレーとサラダという簡単なものだったが、いつになく深刻な顔をして黙り込んでいた勇樹が、少しでも元気になってくれればと思って作ったのだった。

「ところで今日見に行った部屋どうだったの?」

勇樹はそう言うとまずサラダに手を付けた。

「決まらなかった。どこかで折り合いをつけなきゃいけないんだろうけど、納得のいく条件の所ってなかなかね……」

勇樹は「ふうん」とだけ言って、今度はカレーを口に運んだ。黙って何度か口を動かしてから、ふたくち目を口に運ぶ。けれどすぐに噛むのをやめ、しばらく思いつめたような顔で目の前のカレーを見つめたあと、遠慮がちに口を開いた。

「姉ちゃん、これ辛過ぎない?」

「そう? わたしは普通だけど。勇樹辛いカレーが好きだって言ってたじゃない」

「そりゃ言ったけどさ。これはマジで辛過ぎだって。よく平気な顔して食えるな」

勇樹は眉間にしわを寄せて水を飲んだ。

「食べないの?」

「いや……食べ……食べるっていうか食べないっていうか……食べられないっていうか……」

軽く首を傾げながらぶつぶつと言っている。

「えっ、食べないの? わたしがせっかく作ったのに? 一生懸命作ったのに?」

「いや……食べる……食べるよ。食べるさそりゃ」

困った顔で再びカレーを口に運んだ勇樹を見て、こらえきれずに奈瑠は笑い出した。

「なんだよ。ちゃんと食ってんだろ」

勇樹は涙目でまた水を飲んでいる。

「勇樹のお皿だけ、特別にスパイスいっぱい混ぜ込んどいた」

「は?」

「わたしのはそんなに辛くないよ」

「はあ?」

勇樹は奈瑠の皿に手を伸ばした。スプーンですくい、恐る恐る口に入れる。

「何だよこれ! なんで俺のだけ……。もおおおっ!!」

奈瑠はけたけたと笑った。

「そっちよこせ」

勇樹は奈瑠の皿と自分の皿を交換して食べ始めた。

「ったく何の罰ゲームだよ」

「ちょっとわたしのとらないでよ。新しくよそってあげるから」

笑いすぎて滲んだ涙をぬぐう。

「何ツボにはまってんだよ。だいたいな、食べ物粗末にしたらもったいないお化けが出るってばあちゃんがいっつも言ってたぞ。それは姉ちゃんが責任持って食えよ」

「食べられるわけないじゃない。あんなに辛いの入れたのに」

「あんなにってどんなにだよ。こえーよ」

文句を言いつつも勇樹は楽しそうだった。

さっきまであんな顔をしていた理由もわからないし、根本的な解決には何一つなっていないけれど、それでも、笑ってくれたことがうれしかった。

勇樹は、いつもの勇樹でいてほしい。奈瑠の前での勇樹は、やさしくて、どこか天然で、時々ちょっと頼もしい。言い方を変えれば、奈瑠はそんな勇樹しか知らない。知世や、あの笹野さんという女性は、自分の知らない勇樹をどれだけ知っているのだろう。ふと、そんなことを思った。


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