弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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6 バレてしまった嘘

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どうしたらいいかわからずにしばらくそのまま座っていたのだったが、とにかく勇樹に知らせようとスマホを手に取った。が、やめた。仕事中に連絡しても迷惑なだけだ。今日は早く帰って来る予定だと言っていたから、帰って来たらすぐに伝えよう。

そう思いつつも、気持ちは焦る。真実を伏せるように提案したのは奈瑠だ。それが知世のためでも勇樹のためでもあると思っていたのに、まさか雨宮さんのせいで奈瑠の口からそれをバラすことになるとは。けれど雨宮さんを責めることはできない。あくまで、悪いのは自分だ。

次の部屋が決まるまで、少しの間だけ置いてもらうつもりだったのに、勇樹の優しさに甘えてもう二か月以上もここにいる。

さっさと出て行っていればこんなことにはならなかったはずだ。

勇樹の帰りを待つ間、自分が蒔いた種で勇樹と知世がヘンなことになったらどうしようと、そればかり考えていた。

七時過ぎ、勇樹は「ただいま」と普段どおり帰って来た。まだ何も知らないのだろうか。

「知世ちゃんに話聞いた?」

「何の?」

「わたしたちが本当の姉弟じゃないってバレちゃった。どうしよう」

おかえりも言わず、勇樹に向かっていきなりそう切り出した。そして昼間の出来事を話して聞かせた。

「わたしのせいだよ……。どうしよう」

「姉ちゃんのせいじゃないよ。とにかく俺、会ってちゃんと話してくる」


勇樹はそう言うと、荷物を自分の部屋に置いてすぐまた家を出て行った。

ちゃんと二人で話して、知世が許してくれればいい。そう願う一方で、知世のもとへと向かう勇樹の背中を見送ったあと、その場に突っ立ったまま、胸の辺りに微かな痛みを感じていた。

それは、知世に本当のことを隠していた罪悪感とは別の、いつか感じたことのある痛みのような気がした。愛する人が、自分を置いて他の女性のもとへと行ってしまうような――。

けれどそんなおかしな感覚はすぐに振り払った。

そうであるはずがない。愛する人に背中を向けられる痛みと、今勇樹の背中を見送って感じた微かな痛みが同じのはずが。

第一、勇樹の背中は何度も見送っている。仕事に出かけるときもそうだし、知世と二人で出かけると言って玄関を出て行くときだって。けれどこんな痛みを感じたことなど一度もなかったはずだ。きっと気持ちが落ち込んでいるから、そんな風に感じるのだ。

奈瑠は自分でそう納得して、ようやく居間に戻った。

のっそりと座り、食卓に頬杖をついてテレビをつける。でもテレビの内容は一切入って来なかった。さっきの勇樹の背中が頭から離れないのだ。ただ弟が彼女のところへ行っただけなのに。ふと、昼間知世が言った言葉が頭を過る。

(今はただの男と女じゃないですか)

いったい何を期待していたと言うのだろう。なんとなく選ばれなかったような気持ちになるなんて、勇樹が「そんなのほっとけばいいよ」とでも言うと思っていたのだろうか。バカみたいだ。

ただの居候。ただの、男と女。そう考えると、この状況が改めて不思議に思えてくる。

勇樹は今でも、奈瑠のことを本当の姉のように慕い、心配してくれている。ならば自分はどうだろう。勇樹のことはかわいいと思う。昔のように世話を焼いてあげるのは楽しいし、時々頼もしさも感じる。

保之のことをたった四ヶ月で吹っ切ることができたのも、勇樹がいたからだと思う。でもそれは百パーセント姉としての感覚だろうか。実際にはきょうだいのいない奈瑠には、きっとそれはわからない。でも勇樹は勇樹だ。本当の弟ではないにしても、自分にとって男ではない。そう考えれば考えるほど深みにはまっていく気がして、奈瑠は自分の気持ちを持て余し始めていた。
 

日付が変わっても、勇樹は帰って来なかった。待っているつもりでもなかったけれど、なんとなく居間から動かずに、そのうちテーブルに突っ伏していつの間にか眠ってしまった。

人の気配を感じてふと目が覚めたのは、時計の針が午前六時を指そうとしている頃だった。今日も雨は降っていないようだ。

「姉ちゃんここで寝たの?」

寝起きの目で勇樹を見上げる。今帰って来たらしい。

「ちゃんと話できた? 知世ちゃんと」

勇樹は腰を下ろした。

「納得してもらうために、知世に全部話したよ。姉ちゃんのこと。ひどい婚約者のせいで結婚がダメになったこととか、それで仕事も辞めたこととか、実家に帰りたくない理由とか。それに姉ちゃんと俺は、血の繋がりはなくても、会ったのが十五年ぶりだったとしても、ちゃんと姉と弟だからって。そうじゃなかったら一緒に住んでないって」

わかり切ったはずの言葉に、なぜか胸がチクッとする。

「ちゃんとそうやって話したらわかってくれた。知世、姉ちゃんのこと何にも知らなかったからひどいこと言っちゃったって気にしてた」

「そんなこと……」

「とにかくもう大丈夫だから。もう気にしなくていいよ。姉ちゃんもう一回ベッドでちゃんと寝なよ。俺これからシャワー浴びて仕事行くからさ」

勇樹は立ち上がった。

部屋へと向かうその姿を目で追いながら、なぜか高熱を出したときに見た引き締まった体が頭に浮かぶ。あの胸に、知世を抱いたんだなと思う。今まで、何度も。なぜか急に、勇樹が遠い存在に思えた。

その日から早速、本腰を入れて部屋探しを始めた。「もう気にしなくていい」と言われても、これ以上勇樹と一緒の生活を続けることはできない。知世だって表面上は理解したふりをしていても、本当のところは心穏やかではないだろう。それに奈瑠自身、今までと同じように勇樹と接する自信が、なんとなくなかった。

まずは仕事が決まってからとのんびり構えていたけれど、今はとにかく部屋が先だ。

インターネットでめぼしい物件をピックアップしては、内覧に出かけた。だが条件のいい物件は、見に行った日にはすでに借り手が決まっていたり、ネット上ではよさそうに見えても、実際に出向くとかなり印象が違っていたりと、そう簡単に見つかるものでもなかった。

どんな仕事に就けるかもわからない状況ではあまり高い家賃は払えないし、かと言ってへんぴな場所のボロアパートというのも気乗りがしない。

一旦マンスリーマンションに移ってから、気長に条件のいい物件を探すというのも手ではあるが、奈瑠の荷物を考えると手狭だし、いちいちの引っ越し代だってバカにならない。

すぐには困らない程度の貯えはあるけれど、いつ仕事が見つかるかもわからないのに、無駄なお金を使えるほど余裕の額でもない。

改めて、自分には何もないのだと思い知らされる。仕事も居場所も、抱きしめてくれる恋人も。

目標ややりたいこともなくて、この先一人で生きていけるのかさえ不安になる。

親友だって、家庭を持ってしまえばおいそれと会えるわけではないし、会えばますます自分の孤独を痛感させられる羽目になる。

本当に、自分には何もない。


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