弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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5 知らない誰か

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梅雨の只中で雨が続いていた。仕事探しにもなかなか気分が乗らない。ここのところ、ついだらだらと時間を過ごしていた。

縁側に座り、ガラス越しに外を眺めていると電話の着信音が鳴った。スマホを手に取り、画面を確認する。表示されていたのは、見覚えのある、番号だけ。保之からだった。奈瑠はさほど迷うことなく電話に出た。

「具合はどうなの?」

〈おかげでだいぶいいよ〉

「もう退院したの?」

〈ああ。二週間入院してたけど〉

すぐに沈黙が訪れた。何を話したらいいのかわからない。ガラス戸を流れる雨粒をただ見ていた。

〈あのさ、奈瑠。最後にもう一度だけ会えないかな。今回のことも、ちゃんと謝りたいし〉

保之の申し出を受けることに、特に迷いはなかった。もう一度面と向かって保之と会うことで、奈瑠自身もきちんと気持ちの整理ができるような気がしていた。


翌日の午後二時、小雨が降る中待ち合わせのカフェへ向かった。

店に着くと、保之はもう来ていた。入院していたせいなのか、それまでの荒んだ生活のせいなのか、生気がなく、つき合っていた頃とは別人のようだ。

「ありがとう。来てくれて」

奈瑠が席に着くと、保之はまずそう言った。

「コーヒーでいい?」

保之の問いに、こくりとうなずく。保之は店員を呼んで、コーヒーとハーブティーを注文した。

「そっか。コーヒーは胃にはよくないよね」

奈瑠が言うと、保之は力なく笑った。

「本当は君に会わす顔なんてないのにな。別れた後まで迷惑かけて、本当にすまなかった」

保之はテーブルに頭が着くかと思うほど頭を下げた。別れを切り出された日のことを嫌でも思い出してしまう。冷たい床に額を擦り付け、土下座した保之の姿を。

保之はゆっくりと頭を上げた。

「なんで奈瑠に電話したのか、自分でもわからないんだ。胃だかお腹だか、急にすごく痛み出して、座り込んだらいきなり血を吐いて、自分でもびっくりしちゃって。普通一一九番だよな」

「わたしも驚いた。いきなり電話がきて、出ようか出まいか迷ったんだけど、出てよかったよ」

「奈瑠が電話に出てくれなかったら、今頃俺死んでたかもな」

「人間はそう簡単には死なないんじゃない?」

本当は保之が死んでしまうのではないかと不安でしょうがなかったとは言わなかった。

「心配してくれたんだろ。あとで看護師さんから聞いたんだ。救急車で一緒に来た彼女、わんわん泣いてたって」

「…………」

「奈瑠ってすごく気ぃ遣いだから、何かと自分より相手のこと優先に考えちゃうようなとこあるよな」

「わたしが?」

「つき合ってたときも、何かと俺に合わせようとしてくれてた」

「そうだっけ?」

「たとえば、見たい映画が違ったり、行きたい場所が違ったりしても、『じゃあそっちでいいよ』って言ってくれたり」

「でもわたし無理してたわけじゃないよ」

「わかるよ。奈瑠は自然とそうしちゃうんだよ。料理もよく作ってくれたけど、いつも俺に合わせてばっかり。自分が作るんだから、たまには自分の食べたいもの作ればいいのにさ」

「料理って、あんまり自分のために作ろうとは思わないかな。自分だけだったら何でもいいって感じ。食べてくれる人がいるから、頑張って作ろうと思うんじゃない?」

そう言いながら頭に浮かんだのは勇樹の顔だった。

保之が何か思い出したように少し笑った。

「何?」

「奈瑠さ、俺の好きな料理、イタリアンだと思ってただろ?」

「え?」

「そう思ってるんだろうなって思ってた」

「違うの?」

「いや、違いはしないよ。もちろんイタリアンは好きだけど、俺が一番好きなのは、実は焼きナス。なぜか子供のころから」

「焼きナス? 初めて聞いた」

「初めて言ったから」

「どうして言ってくれなかったの?」

「奈瑠が一生懸命だったから。奈瑠、思い込んだら一直線、みたいなとこあるから」

「それってなんかバカみたいじゃない」

「そんなことないよ。せっかく俺のために一生懸命やってくれてるのに、ナスを焼くだけの料理が好きだなんて言えなかったんだ」

今さらながら、保之の口からそんな話を聞かされるのはショックだった。いつどこでそんな勝手な思い違いをしたのだろう。保之のことは何でも知っていると思っていたのに。

「あの子には言えたの? 素直に」

穏やかだった保之の表情がふっと曇った。

「それって結局、わたしの前では本当の保之を見せてくれてなかったってことじゃないの?」

「そんなんじゃないよ。たかが焼きナスじゃないか」

「たかが、なのかな」

「本当にそういうことじゃないんだ。奈瑠が俺を思ってくれる気持ちに、俺も応えたかったんだ」

「だとしたら今こんな状況にはなっていないんじゃない?」と言いかけて言葉を飲んだ。今さらそんなことを言うつもりで来たのではない。もうどうでもいいことだ。

「そんなこと、俺に言う資格ないか。何言ってんだって感じだよな」

保之は自嘲するように笑った。
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