弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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3 蚊帳の外

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十時半前に鎌倉駅に着くと、小町通りを抜け、鶴岡八幡宮の脇を通ってさらに歩いた。まだ時間も早めだし、平日なので観光客はさほど多くないのかと思っていたら、全然そんなことはなかった。天気もよく、久しぶりの小旅行に気分は浮き立つ。

美術館の「ジェイソン・アトキンス写真展」に入ると、勇樹は一枚一枚食い入るように作品を観ていた。奈瑠も最初は勇樹のペースに合わせていたが、そのうち一人で先に進んだ。勇樹は一枚の写真の前に立ち止まる時間が長かったし、奈瑠がそばにいることなど忘れているかのように集中していたので、声もかけなかった。

 一通り観終わると、先に写真展の会場を出てロビーのソファで勇樹を待った。ジェイソン・アトキンスの写真は、いいなと思うものもあったけれど、他の人が撮ったものと何が違うのか、どうして巨匠と呼ばれるのかなどは、はっきり言ってよくわからなかった。

 勇樹が出てきたのは、奈瑠がソファに座ってから一時間近くも経とうとする頃だった。

「ごーめん、だいぶ待った? ついずっと見ちゃって」

 申し訳なさそうに言って、勇樹は奈瑠の隣にどかっと腰掛けた。

「心行くまで楽しめた?」

「楽しめたっていうか、圧倒されよ。いかに自分が無能かって思い知らされた感じ」

 勇樹はふうーっと長いため息を吐きながらソファにもたれ、天井を仰いだ。

「そんなに違うの?」

「違うなんてもんじゃないね」

「そうかなあ。わたしは勇樹の写真の方が好きだけど。ほらあの、おばあちゃんが縁側で笑ってるやつとか」

 素直にそう思った。勇樹は黙っていたけれど、しばらくしてふふふと笑った。

「何よ」

「姉ちゃんがそう言うならいいかなと思って」

 勇樹はまた笑った。

 美術館を出ると、外観に惹かれて入った近くのレストランでお高めのランチをとったあと、せっかくなので鶴岡八幡宮に寄って手を合わせ、今度は若宮大路をゆっくりと歩いた。

そのまま進めば海へと出るようだが、気まぐれに裏路地へと入ってみる。蔦の絡まる古い家や、小さいお寺や神社、昔ながらの商店など、大通りの賑わいとは違った落ち着いた雰囲気がまたいい。勇樹は時々足を止めて、スマホで写真を撮っていた。「姉ちゃん撮ってやるよ」と言われたけれど、照れくさいので断った。

そうやって路地を散策しながら材木座海岸へと出た。潮風が心地いい。

座れるところを探して腰を下ろす。

「鎌倉っていいよね」

 奈瑠が言うと、少し離れて座った勇樹が「いいね」と返した。

「わたしこっちで部屋探そうかな」

「マジで?」

「ちょっと、ありかなって」

「仕事どうすんの」

「さっきのレストランみたいなとこでウェイトレスやるのもいいかもね。鎌倉って多いじゃない。ああいうおしゃれなレストランとかカフェとか」

「あの仕事って、ああ見えてけっこうハードだぞ」

「やったことあるの?」

「学生時代にカフェでバイトしてた。わりとおしゃれな感じの店だったから、安い居酒屋みたいに変な客は来ないだろうと思ってたんだけど、世の中には色んな人間がいるからね。わがままな客とかクレーマーとかホント大変なんだよ。それに単純に立ちっぱなしだし、ランチタイムとかすっごいバタバタだし。とりあえずさ、うちにいれば雨風はしのげるんだし、焦らずゆっくり、まずは仕事を探せばいいんじゃないの? まあどうしても鎌倉がいいって言うんなら別だけど」

 なんとなく、奈瑠に出て行って欲しくないような口ぶりに聞こえなくもない。

 少し置いて、また勇樹は口を開いた。

「最近全然釣り行けてないなあ」

「釣りするの?」

「するよ」

「へえ意外」

「そう?」

「釣りって退屈じゃない? だって糸垂らしてじっと待ってるだけでしょ?」

「そんな単純なもんじゃないよ。それに俺はルアーだからじっと待ってるわけじゃないよ。投げて巻いて投げて巻いてってずっと繰り返すんだ」

「ルアー?」

「本物の餌じゃなくて、ルアーっていう、小っちゃな魚のおもちゃみたいなやつを餌に見せかけて釣るんだよ」

「おもちゃ? よくそんなので魚騙せるね」

「なかなか騙されてくれないけどね」

 波打ち際を、大きくて足長の犬を連れたマダムが横切って行く。

 ついこの間再会するまで、奈瑠の中の勇樹はまだ幼い少年だった。その少年が大人の男になって、今は奈瑠を助けてくれている。なんだか不思議な気分だった。

「ねえ写真撮ろうよ」

 奈瑠は言った。

「さっき撮ってやるって言ったらやだって言ったくせに」

「いいじゃない。スマホ出して」

 勇樹のそばに移動する。

「なんだよくっつくなよ」

「ほら、撮って」

 無理やり顔を寄せると、勇樹はのけぞりながらも腕を伸ばして写真を撮った。

「見せて見せて」

 二人して今撮った画像を覗き込む。

「やだぁ。勇樹の頭の上の方ちょっと切れてるじゃない。プロのカメラマンとは思えない仕上がり」

「突然寄りかかられて倒れながら撮ったんだからしょうがないだろ」

「それになんでこんなに無愛想なの」

「俺写真とか苦手だって言ったろ」

 勇樹と姉弟として一緒に暮らしていた頃の写真はほとんどない。父や母が写真を撮ってくれることはなかったし、子供たち自らで撮るということもなかった。ただ何かの行事のときに、友達のお父さんが撮ってくれた写真が何枚かあったはずだ。あれはどこにしまいこんだのだろう。

「ほら。姉ちゃんのアホ面」

 勇樹は今撮ったのとは違う画像を奈瑠の前に差し出した。

「えっ何、いつ撮ったのこれ」

それは路地を散策していたとき、知らないうちに勇樹が撮っていたものだった。何を見ていたのか自分でもわからないけれど、上を見上げた奈瑠の横顔を撮ってある。背景や光の加減もあいまって、とてもいい感じに撮れている。

「どうよ。プロの手にかかると姉ちゃんでもこうなる」

「何言ってんの。モデルがいいからに決まってるでしょ」

 本当にいい写真だと思った。

「ねえ、これと今撮ったツーショットのやつ、わたしのスマホに送って」

 この時間がずっと続けばいいのにと、ふと思った。


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