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3 蚊帳の外
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「……ちゃん、姉ちゃん、大丈夫? 姉ちゃん」
浅い眠りの混濁した意識の中で、何度も奈瑠を呼ぶ勇樹の声を聞いた。ぼんやりと目を開けると、こちらを覗き込む勇樹の顔があった。気が付けば、固い床の上に横たわっている。顔のすぐ横にあるのは冷蔵庫の扉だ。
……そう、こんな角度から眺めるのは初めてだが、ここは勇樹の家の台所だ。そうだった。あれから台所へ行き、冷蔵庫の中にあるビールを無理やり何本もあおり、勇樹がお土産でもらったという泡盛にまで手を出したのだった……。
「大丈夫? 起きれる?」
抱き起こそうと勇樹の手が首の下に差し込まれた途端、奈瑠は突然スイッチが入ったように飛び起きた。そして流しのふちに両手をつき、迷う間もなく嘔吐した。
「大丈夫かよ」
勇樹は傍に立って水道の蛇口をひねると、奈瑠の背中をさすった。
吐いても吐いても、吐き気は治まらなかった。吐くものがなくなっても、まだ体は何かを吐きたがった。胃がひっくり返って口から出てくるんじゃないかと思った。苦しくて、涙目になった目玉も飛び出しそうだった。奈瑠がそうやって流しに顔をふせている間、勇樹はずっと背中をさすってくれていた。
ようやく少し落ち着くと、奈瑠は力なくその場に座りこんだ。水道の音はまだ続いている。
「大丈夫? 少しは治まった? 部屋に行ける?」
返事をする気力もなく、また床にへなへなと体を倒す。だらりと投げ出した腕が、散乱していたビールの空き缶をはじいてカラランと音がした。
「姉ちゃん、部屋に行こう。ちゃんとベッドで横になろう。ね」
勇樹は抱き起こしてくれようとするけれど、体は重いし、できればこのまま冷たい床の上に転がっていたい気分だった。
「姉ちゃん、ほら、頑張って」
力強く半ば強引に抱き起こされて、どうにか立ち上がった。けれど足を踏み出そうとした途端にまた激しい吐き気に襲われて、勇樹の腕を振りほどくと流しに頭を突っ込んだ。何度もえずいて、苦い緑色の胃液を吐いた。
それからの記憶はぼんやりしている。しばらくの間はまた流しから離れられずにいたが、その後ふわっと抱え上げられた感覚があって、目が覚めたのは自分のベッドだった。
外は薄暗い。それが夕方だからなのか、それとももうすぐ夜が明けようとしているのかわからなかった。すると、勇樹が玄関を出て行く音がした。ということはきっと早朝なのだろう。
それにしても相変わらず気分が悪い。昨日ほどの激しい吐き気はないものの、ムカムカするし、頭痛もひどい。喉も渇いていたけれど、どうしても起き上がって水を飲みに行く気力がなかった。
いったいどれだけ飲んだのか覚えていない。最悪だ。何もかも最悪だ。最悪の最悪だ。こんなに気分が悪いんだから、いっそ死んでしまえたらいいのにと思った。寝返りを打つと、何かがゴトッと畳に落ちる音がしたが、どうでもよかった。
あれからまた眠ったらしく、次に目が覚めたのはすでに早朝とは言えない時間だった。気分は多少マシにはなっていたが、頭はまだズキンズキンと痛んだ。
喉がカラカラだった。放っておくと完全に体が干からびてしまいそうだったので、頭をできるだけ揺らさないようにそうっと体を起こした。それでも、ちょっと動くと頭の奥の方で痛みの振り子が大きく振れる感じがした。
眉間にしわを寄せて頭痛をこらえながら、ベッドからゆっくりと足を下ろす。すると足先が何かに触れた。見ると、五百ミリのミネラルウォーターのペットボトルだった。
勇樹が枕元に置いておいてくれたのだろう。さっき寝返りを打った時に落ちたのはこれだったようだ。
のっそりと体を曲げて拾い上げる。
口の中が気持ち悪くて先にゆすぎたかったけれど、渇きを我慢できずに蓋を開けて飲んだ。水が喉を通っていく感覚が、清々しくて気持ちよかった。
ひとしきり喉を潤すと、ゆっくりと立ち上がって部屋を出た。
そろりそろりと歩いて、まずはトイレを済ませ、台所へ向かった。
流しはきれいに掃除してあった。あんなところで吐くなんて最低だ。床にぶちまけた方がまだマシだっただろうか。考えるだけでさらに頭痛がひどくなる。奈瑠は大きなため息を吐いた。
何か行動を起こすにはまだ頭が痛すぎるので、また部屋に戻ってベッドに横になった。頭痛薬を飲もうかとも思ったけれど、空っぽの、しかも完全にムカムカが取れたわけではない胃に流し込むのはためらわれた。もう少し休めば、少しはマシになるだろう。
ベッドの中で、何度もため息を吐いた。
やっと立ち直りかけていたのに、またこんな状況に陥るなんて思ってもみなかった。
保之にもあの女にも腹が立った。そして自分自身にも嫌気がさした。いい歳をして、なんでこんなみっともないことしかできないんだろう。なんでもっと凛とした、大人の女性になれないんだろう。
あんなに吐いたのに、心の中の毒素は残ったままだった。
結局頭痛が治まっても、夕方までベッドの中で過ごした。考えれば考えるほど気持ちが沈んで、体が重たくなっていくのだ。目を閉じても眠れるわけでもなく、日中の長い長い時間を鬱々と過ごした。
浅い眠りの混濁した意識の中で、何度も奈瑠を呼ぶ勇樹の声を聞いた。ぼんやりと目を開けると、こちらを覗き込む勇樹の顔があった。気が付けば、固い床の上に横たわっている。顔のすぐ横にあるのは冷蔵庫の扉だ。
……そう、こんな角度から眺めるのは初めてだが、ここは勇樹の家の台所だ。そうだった。あれから台所へ行き、冷蔵庫の中にあるビールを無理やり何本もあおり、勇樹がお土産でもらったという泡盛にまで手を出したのだった……。
「大丈夫? 起きれる?」
抱き起こそうと勇樹の手が首の下に差し込まれた途端、奈瑠は突然スイッチが入ったように飛び起きた。そして流しのふちに両手をつき、迷う間もなく嘔吐した。
「大丈夫かよ」
勇樹は傍に立って水道の蛇口をひねると、奈瑠の背中をさすった。
吐いても吐いても、吐き気は治まらなかった。吐くものがなくなっても、まだ体は何かを吐きたがった。胃がひっくり返って口から出てくるんじゃないかと思った。苦しくて、涙目になった目玉も飛び出しそうだった。奈瑠がそうやって流しに顔をふせている間、勇樹はずっと背中をさすってくれていた。
ようやく少し落ち着くと、奈瑠は力なくその場に座りこんだ。水道の音はまだ続いている。
「大丈夫? 少しは治まった? 部屋に行ける?」
返事をする気力もなく、また床にへなへなと体を倒す。だらりと投げ出した腕が、散乱していたビールの空き缶をはじいてカラランと音がした。
「姉ちゃん、部屋に行こう。ちゃんとベッドで横になろう。ね」
勇樹は抱き起こしてくれようとするけれど、体は重いし、できればこのまま冷たい床の上に転がっていたい気分だった。
「姉ちゃん、ほら、頑張って」
力強く半ば強引に抱き起こされて、どうにか立ち上がった。けれど足を踏み出そうとした途端にまた激しい吐き気に襲われて、勇樹の腕を振りほどくと流しに頭を突っ込んだ。何度もえずいて、苦い緑色の胃液を吐いた。
それからの記憶はぼんやりしている。しばらくの間はまた流しから離れられずにいたが、その後ふわっと抱え上げられた感覚があって、目が覚めたのは自分のベッドだった。
外は薄暗い。それが夕方だからなのか、それとももうすぐ夜が明けようとしているのかわからなかった。すると、勇樹が玄関を出て行く音がした。ということはきっと早朝なのだろう。
それにしても相変わらず気分が悪い。昨日ほどの激しい吐き気はないものの、ムカムカするし、頭痛もひどい。喉も渇いていたけれど、どうしても起き上がって水を飲みに行く気力がなかった。
いったいどれだけ飲んだのか覚えていない。最悪だ。何もかも最悪だ。最悪の最悪だ。こんなに気分が悪いんだから、いっそ死んでしまえたらいいのにと思った。寝返りを打つと、何かがゴトッと畳に落ちる音がしたが、どうでもよかった。
あれからまた眠ったらしく、次に目が覚めたのはすでに早朝とは言えない時間だった。気分は多少マシにはなっていたが、頭はまだズキンズキンと痛んだ。
喉がカラカラだった。放っておくと完全に体が干からびてしまいそうだったので、頭をできるだけ揺らさないようにそうっと体を起こした。それでも、ちょっと動くと頭の奥の方で痛みの振り子が大きく振れる感じがした。
眉間にしわを寄せて頭痛をこらえながら、ベッドからゆっくりと足を下ろす。すると足先が何かに触れた。見ると、五百ミリのミネラルウォーターのペットボトルだった。
勇樹が枕元に置いておいてくれたのだろう。さっき寝返りを打った時に落ちたのはこれだったようだ。
のっそりと体を曲げて拾い上げる。
口の中が気持ち悪くて先にゆすぎたかったけれど、渇きを我慢できずに蓋を開けて飲んだ。水が喉を通っていく感覚が、清々しくて気持ちよかった。
ひとしきり喉を潤すと、ゆっくりと立ち上がって部屋を出た。
そろりそろりと歩いて、まずはトイレを済ませ、台所へ向かった。
流しはきれいに掃除してあった。あんなところで吐くなんて最低だ。床にぶちまけた方がまだマシだっただろうか。考えるだけでさらに頭痛がひどくなる。奈瑠は大きなため息を吐いた。
何か行動を起こすにはまだ頭が痛すぎるので、また部屋に戻ってベッドに横になった。頭痛薬を飲もうかとも思ったけれど、空っぽの、しかも完全にムカムカが取れたわけではない胃に流し込むのはためらわれた。もう少し休めば、少しはマシになるだろう。
ベッドの中で、何度もため息を吐いた。
やっと立ち直りかけていたのに、またこんな状況に陥るなんて思ってもみなかった。
保之にもあの女にも腹が立った。そして自分自身にも嫌気がさした。いい歳をして、なんでこんなみっともないことしかできないんだろう。なんでもっと凛とした、大人の女性になれないんだろう。
あんなに吐いたのに、心の中の毒素は残ったままだった。
結局頭痛が治まっても、夕方までベッドの中で過ごした。考えれば考えるほど気持ちが沈んで、体が重たくなっていくのだ。目を閉じても眠れるわけでもなく、日中の長い長い時間を鬱々と過ごした。
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