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03.婚約者は悪手に出る ―― side ビクトル

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 アナスタシアに婚約破棄を言い渡したビクトルは、その後、不貞相手のマリアと甘い時間をたっぷりと過ごしてから、夜遅くに帰宅した。

 そして、翌朝は、朝食の席にも姿を出さずに惰眠をむさぼっていたのだが、何度寝かわからなくなったところで部屋のドアがノックされ、執事が入室してきた。

「旦那様がお呼びでございます」

 なぜ従者ではなく執事が来たのかも理解できないまま、ビクトルはのろのろと支度をして、父の執務室までやってきたのだが、室内に母もいることに気づいて、少しだけ目が覚めた。

 とはいえ、まだ寝ぼけ眼であったビクトルは、室内の重い空気にまでは気づくことができず、息子の様子を見た両親が眉を顰めたのにも気づけなかった。

「おはようございます、父上。母上もこちらにいらっしゃるとは珍しいですね」
「……………。アナスタシアに婚約破棄を言い渡したというのは本当か?」

 挨拶をしても何も返してもらえないことにビクトルは眉を寄せてしまったのだが、いきなり本題に入った父の言葉で完全に目が覚めた。
 と同時に、両親の纏っている空気が重たいことにもやっと気づいた。

「えっ!いえ、あの、それは………」

 ビクトルは、当然ながら、昨夜のことはちゃんと覚えている。
 あんな風に言われて悔しくなかったわけではないが、アナスタシアに言われたことは、確かにその通りなのだ。

 それに、夜会でマリアとしていたことがバレれば、責められるのは自分だということくらいはわかっているため、どうやってこの話を自分に有利なように持っていけるかを検討してから両親に話すつもりだった。

 しかも、両親はアナスタシアのことを大変気に入っている。
 だから、慎重に言葉を選んで話をしなければならないと思っていたのに。

 それなのに、婚約破棄を宣言した翌日の、しかも朝早くから伝えてしまうだなんて、あの女はなんて事務的なんだろうとビクトルは思う。

 そもそも、ビクトルは、両親と違ってアナスタシアのことを毛嫌いしていた。
 両親には愛想をよくして取り入っているくせに、自分に対しては、いつも無表情で、笑顔ひとつ見せない婚約者が疎ましかったのだ。
 ―――実際のところは、アナスタシアにそうさせているのがビクトル本人の態度だということに、ビクトルは気づいていない。

 たかが伯爵令嬢のくせに、侯爵令息であるビクトルの顔を立てないことにもムカつくし、優秀だと周りから持て囃されているのも気に入らない。魔道具を作るのが少しばかり得意だからと言って、何だというのか。

 本当に、あの女は可愛げがない。
 マリアとは大違いだ。

 そう思ったビクトルは、昨夜のマリアを思い出していた。
 アナスタシアと対面したときの強気な態度には少し驚いてしまったが、

『ビクトル様を取られたくなくて必死だったんです。わたし、可愛くなかったですよね……』

 なんて、伏し目がちに弱々しく言ってきたマリアが可愛くないわけがない。
 そんなことはないよ、と抱きしめてあげたら、ホッとしたように安心した顔で笑ってくれたマリアは世界一可愛かったとビクトルは思う。

 そうして、ビクトルは、今自分が置かれている状況をすっかりと忘れて頭の中をマリアで一杯にしていたのだが、もちろん、そんなことが許されるわけもなく。

「答えないか!どうなんだ!婚約破棄を言い渡したのか?!」

 せっかくマリアの可愛い顔を思い浮かべていたというのに、父の怒声で現実に引き戻されてしまった。

 怒りを隠そうともしていない両親に怯みそうにはなるが、マリアと結ばれるためには、ここはうまく切り抜けないといけない。

 朝早くからこうやって問い質されているということは、ムーンレイ伯爵家から書面か何かが届いているのだろうから、婚約破棄なんて言っていない、と誤魔化すのは難しいし、ましてや、冗談だったというわけにもいかないだろう。

 ビクトルは、なんとかいい言い訳がないかと起きたばかりの頭をフル回転させながら口を開いたのだが。

「はい。でも、それは、」

 続けようとした言い訳は、口にすることができなかった。

「………っ!」
「お前はなんてことをしてくれたんだ!!」

 ビクトルが、はい、と婚約破棄宣言を認めた発言をした段階で、父の怒りが最高潮に達し、母に至っては絶句した後に泣き出してしまったのだ。

 この状況に、ビクトルは目を丸くして驚く。
 両親はアナスタシアをかなり可愛がっていたから、婚約がなくなれば、がっかりされたり、文句を言われるとは思っていたが、ここまで怒られるとは思っていなかった。

 たかが伯爵家との婚約がなくなるくらいで、なぜ、こんなに怒られなくてはならないのか。ビクトルにはさっぱりとわからない。

「あの家からの援助がなければ、我が家は立ちいかないのだぞ?!飯を食うことにも着る物にも困ることになるというのに、お前は……っ!!」
「は………?」

 確かに、幼い頃から、我が家には金がないから贅沢はできない、とは聞かされていたが、ビクトルは、それは無駄使いをさせないための方便だと思っていた。

 実際、学園の他の友人たちのように、派手で豪華なものは身に着けることはできないまでも、それなりの身なりを整えているし、食事も、パンとスープだけ、ということはないのだから。

「馬鹿者!!お前を身ぎれいにさせていたのは、お前が学園で肩身の狭い思いをしないように無理して誂えていただけだ。お前は気づかれていないと思っているようだが、よく見れば、質が悪いものだということは丸わかりだぞ。食事だって、料理人たちががんばって、安い食材で見栄えのいい料理を作ってくれているだけだ。他家に行けば、我が家の食事がどんなに質素なのかがすぐわかる」

 そう言われて、そういえば、とビクトルは思い出す。

 新しい服を買ってもらって自慢したときの友人たちの何とも言えない表情を。
 ビクトルは悔しがっているのだと思っていたが、大した服でもないのに自慢している自分に何も言えなかっただけだったのかもしれない。

 食事にしても、学食の下級貴族や平民用のフロアの食事に文句を言う友人が不思議だったのだが、普段はもっと豪華な食事をしているとなれば、きっと、それも当然の感想なのだ。

「なっ!どうして教えてくれなかったのですか!」
「何度も何度も話している!自分に都合の悪いことを聞き流すのはやめるように言い続けてきたが、聞き入れなかったはお前だろう!」

 両親や執事が言うことは話も長ければ説教臭いため、まともに聞いていなかったのだが、その時に言われたことなのだろうか。

 ビクトルは、まさか我が家がそこまで困窮しているとは思ってもいなかった。
 正直なところ、ムーンレイ伯爵家からの援助も、伯爵家が我が家に近づくために媚を売ってきたのだと思っていたため、アナスタシアとの婚約がなくなったくらいでは我が家にはそこまで影響がないと思っていたのに。

 援助の話も婚約話も、我が家から持ち込んだ話だと聞いて、ビクトルは、ここに来てやっと自分がしでかしたことの大きさに気づいた。

「本当になんてことをしてくれたんだ。金のことだけではないのだ。アナスタシアが作ってくれた魔道具のおかげで、領地の畑も綿織物の生産も目途が付いてきたところだったのだぞ。その恩を仇で返すとは……っ!」

 更には、大したことはないと思っていたアナスタシアの魔道具にも助けられていたと知って、ビクトルは言葉を失う。

「そうよ。しかも、アナスタシアは、婚約関係にあるからと言って無償で魔道具を貸してくれていたのに……。貴方と言う人は……っ」

 泣きながら自分を責めてくる母の言葉に追い打ちを掛けられ、このままでは家から追い出されるかもしれないと自分の危機を感じたビクトルは、何とか自分の非が軽くなるような言い訳はないかと、再度頭をフル回転させた。

「父上、母上、聞いてください。実は、昨夜の婚約破棄は、売り言葉に買い言葉と言いますか……」
「なんだと?どういうことだ?」
「私は、夜会で具合が悪くなったご令嬢がいたので介抱していただけなのです。それをアナスタシアが誤解して責めてきたものですから、思わず言ってしまっただけで、本気ではなかったのです」
「………そうなのか?」
「はい。ですから、そのことを説明すれば、ムーンレイ伯爵もわかってくださるのではないかと」

 今のところ、両親から不貞については責められていないため、そこまでの話は聞いていないだろうと思ったビクトルは、咄嗟にそんな嘘をつくことで今回の話を誤魔化そうとした。

 昨夜、アナスタシアにも同じことを言ったが、アナスタシアにはマリアとのことを見られてしまったから言い逃れできなかっただけで、その現場を見ていない両親や伯爵なら言いくるめられると思ったのだ。

 アナスタシアは夜会でのことをすべて話すだろうが、ビクトルが先手を取ってアナスタシアの勘違いに仕立て上げればいい。
 そうして、アナスタシアは短絡的で状況判断ができない娘だという印象を付けて、更には、自分へのそっけなく尊大な態度を暴露して侯爵夫人には相応しくないことを伝えれば、婚約破棄に持ち込めるだろうし、万事うまくいく。
 最終的にアナスタシアに非があるように仕向けて、今後も援助金を払わせればいいのだ。

 ビクトルはそう思っていたのだが。

 ―――――その日の夕方。

 誤解は早く解いたほうがいいという判断から、早々に両家での話し合いの場が持たれることになり、ビクトルと両親は、アナスタシアと彼女の父であるムーンレイ伯爵と顔を合わせていた。

「わざわざ来てもらってすまないね」
「いえ。こちらこそ、迅速に対応いただいて恐縮でございます」

 笑顔でそう答えた伯爵の目が笑っていなかったことや、ビクトルには見慣れたものであっても、両親にはなじみのないアナスタシアの無表情に、両親が若干表情を硬くしたことに、ビクトルは気づかなかった。

 ビクトルの頭は、どうやってアナスタシアを傲慢な勘違い女に仕立てようかと、そんな思考でいっぱいだったのだ。

「連絡を貰った婚約破棄の件なのだがね、どうやら誤解があったようだ」

 父のその言葉に、アナスタシアと伯爵は怪訝な顔をした。
 その顔をもっと歪ませてやろうと、ビクトルは更に頭の中で計画を練る。

「どういうことでしょうか?」
「息子が夜会で他の女性といたのは、介抱していただけで不貞ではないのだ。それをアナスタシアが勘違いしてしまったんだよ」
「………ご子息がそうおっしゃったのですか?」
「ああ。そうだな?ビクトル」
「はい。その通りです。アナスタシアは、私と女性がふたりでいるを見て、気が動転してしまったんだと思います」

 そういった途端に、アナスタシアと伯爵が身に纏う温度が下がったことに、ビクトルはまたしても気づけない。

「……私が聞いた話とは随分と違うようですね。とはいえ、言葉では何とでも言えますから、実際の起きたことをご覧いただこうと思うのですが、魔道具を展開してもよろしいでしょうか?」

 そう言われて、ビクトルは、やっと、アナスタシアを追い落とす計画を立てるのを中断して伯爵の方を見た。

 実際に起きたことを見るとはどういうことだろうか。
 両親も不思議に思って伯爵に尋ねていたが、見ていただいたほうが早いと言って、伯爵は魔道具を起動させたのだが。

 目の前に映し出されたものに、ビクトルは目を見張ることになる。

「なっ!何でそんなものが……っ!」
「これ、は…………」
「なんということなの………」

 まさか、昨日の夜会での中庭の様子をこの目で見ることになろうとは。
 自分がしたこと、言ったことが、寸分も違わずに再現されている。
 目の前では、マリアと愛を囁き合って口づけたことまでもが映し出されていた。

「この魔道具は、最近、我が商会で発売したものでしてね。起きた出来事を記録することができる魔道具なのです。現在、王宮にも試験的に導入いただいているのですが、まさか、このようなものまで記録してしまうことになるとは思ってもいませんでしたよ」

 この映像を見て、ビクトルの頭にあった計画はすべて吹き飛んだ。
 こんなものがあっては、アナスタシアの勘違いに仕立て上げることなんてできはしない。

「ビクトル!これはどういうことだ!」
「貴方はなんてことをっ!」

 両親に怒鳴られ、計画が失敗したことを理解したビクトルは、何とか言い逃れができないかと必死で考える。

「父上、母上、お待ちください。これが本物だという証拠はありません」

 咄嗟に思い付いたことを言ってはみたが、ムーンレイ伯爵が表情を消したのを見て、ビクトルは更に状況を悪化させたことに気づく。
 が、もう遅い。

「まあ!王宮の警備隊を疑うんですの?必要でしたら、警備隊に正規のものであり、偽造もしていないという証明書をいただいてまいりますが?」

 アナスタシアにそこまで言われては偽物だと言い続けることもできなくなった。
 両親も、平身低頭して伯爵とアナスタシアに謝っている。

 他に、他に何か言い逃れできることはないかと探すが、映像と言う証拠を前に、もう太刀打ちができない。

「なんで!なんで、こんなものがあるんだ!大体、お前が!お前が縋ってこないからこんなことになったんだろう!」

 逃げ道がなくなったビクトルは、自棄になってアナスタシアを怒鳴りつけることしかできなかった。
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