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イチ

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東京から京都に、逃げるように移住して、もうすぐ2年になる。

梅の花が散り、桜の花が咲き乱れる直前に、わたしは最低限の衣類と、銀行口座から今まで稼いで貯めた現金を全て卸し、それだけを持って、ふらっと新幹線に乗って、京都にやってきた。

京都駅からJRで揺られ、移住先を探した。
古い町並みの中でのんびり暮らしたい。

辿り着いたのが、京都市市内でも昔の町並みが残ってる銀閣寺のそば。

東京で華やかな煌びやかところで生活をしていたからか、寺院や昔ながらの日本建築が新鮮で、本来の自分の居場所のように思えた。

昔ながらの民家だとセキュリティーの問題があるため、オートロック付きのマンションに住まいを決めた。

マンションを決めてから、自分の気に入った物を探し、家の中を居心地が良い空間にしていく。

自分の理想的な住まいが完成するまでは、仕事もせず、のんびりと過ごした。

寝たい時に寝て、起きたい時に起きる。

完全に堕落した自分に焦りを感じ、移住して3カ月後に、ゲーム開発の会社のSEとして再就職した。


のんびり過ごした時間の反動で、自宅に最新の高スペックのパソコンを購入し、趣味でHPを立ち上げ、そこで動画やアプリを配信したりして、取り憑かれたようにパソコンのキーボード叩いた。

彼を忘れたくて、忘れたくて、
わたしはがむしゃらに仕事に打ち込んだ。

任天社での仕事は、ゲーム開発のプログラムを入力する仕事を任されていた。

仕様書を見て、ひたすらプログラミングしていく。

「櫻井さん、これお願いしていい?」

神の手と言われた高速でキーボードをピアノのように奏でるわたし。

与えられた仕事を、ただ、こなす。
そして、だいたい、19時30分に退社する。
納期に間に合わない仕事を代わりに片付ける事もあるけど、基本的に21時には家に帰れてる。
そして、帰宅後は趣味の世界に浸った。

そんな、たんたんとした毎日を過ごしていた。

「天才だよな。須藤志恩」

任天社のオフィスに入ると、ゲームプログラマーのメンバーが集まって、パソコンでwebトピックを見ながら唸っていた。

「須藤志恩、カラオケアプリを開発だって。手軽にiPhoneでカラオケができて、しかも採点機能もついてるってすごいな」

須藤志恩は今、アプリ開発やハイテクアンドロイドの開発で注目されている、IT界の貴公子で悪魔と言われてる。

彼が創り出す作品は、斬新的かつ合理的で便利で新しい物を、次々と手がけている。

「しかも、このルックス、ありえない。アンドロイドじゃないんか。かっこよすぎるわ」

ゲームオタクからゲームプログラマーになった同僚の田辺遼(30歳)がギャーギャー喚く。
須藤志恩と同い年なのに、見た目の違いに周りから同情の視線を浴びる。

須藤志恩は、180cm超えの長身で、端正な顔立ちをしていて、スーツを着ている姿は大人の色気が半端無い。
田辺遼も168cmと小さくてひょろっとしてるけど、少年っぽい愛くるしい顔立ちをしている。
でも、同い年なのに、この違い。
田辺が不憫に思う。

わたしが今手がけてるのは20年もヒットが続いている【ポッケモン】のゲームソフトで、既存のプログラムが出来上がってるから、仕様書通りにプログラミングしていけばいい。
ただ、iPhoneやタブレットのアプリと連動させるとかで、新しい機能も加わるとかで、仕様書の大半が出来上がってない。

仕様書が届かないと仕事がない下っ端ゲームプログラマーだから、暇な時もある。

今日は、開発ゲームプログラマーがアプリとの連動の企画で会議があるとかで、昼過ぎまでは新しい仕様書が届かない。
だからか、始業前だけど、のんびりしている。

自分の席に着き、二台のパソコンの電源を入れる。
一台は入力用で、もう1台は動作確認用。

仕様書が入ってるボックスからファイルを取り、席に着き、仕事を始める。
思った通り、あまり無く、昼までは追加がないからとのんびりしてるようだった。

退社が遅くなるのは勘弁して欲しいから、さっさと、仕様書を取り、仕事を片付けていく。

「アプリをまさかの《メトロノーム》が手がけるってびっくりするよな。今日、代表の須藤志恩がうちの会議に出席してるんだろ。本物と握手したい。したら、俺のプログラミングの腕が上がるかもしれん」


始業ベルが鳴り、1番古株の濱口が席に着いた時に何気なく呟いた言葉にドキリ。

ただ仕事をこなす事に夢中で、そういう情報は気にしてなかった。

会議室は21階のビック室だから、須藤志恩は、19階のここには来ないだろう。
行くとしても、開発ゲームプログラマーがいる20階のはず…。

心臓の高まりをおさめようと、手が止まってたプログラミングを再開させた。
なかなかリズムが取れず、いつもみたいにスピードがでない。
動作確認をしたら、いつもはないエラーが出て溜息がでる。


須藤志恩にばったり出会うわけにはいかない。
須藤志恩から逃げてきたわたし。

今のわたしはあの時のわたしとは違う。

見た目も、須藤志恩が好きだった淡い色したワンピースに、ゆるい天パの茶色い地毛を垂らした清楚なイメージは捨てた。

今は、肌が見えないブラウスにタイトスカート。基本的にスーツ着用で、視力は悪くないけどブルーライトカットと自分の顔を隠すために大きめのダサメガネをかけ、髪の毛は邪魔にならないよう1つにお団子に纏めてる。
28才だから、年相応の身だしなみ。

あの時のわたしは捨てた。



出くわす気はしないけど、もしものために机から使え捨てマスクを出してつける。

そして、一息入れて、プログラミングを再開する。
マスクをつけた効果か、やっと本来の自分を取り戻し、仕様書の入ったボックスのファイルを11時過ぎにすべて終わらせた。
18人のチームで請け負う仕事の大半を、いつもわたしが1人で終わらせていた。

12時の休憩時間を報せるチャイムが鳴る。

いつもは社外に出て、1人でゆっくりランチをしてるけれど、今日は辞めとこう。
変に、オフィス内を歩いてたら、須藤志恩に出くわす危険性がある。
職場フロアーから極力出ないよう、水分も最低限に取り、非常食用のバランス栄養食のクッキーを齧りながら、いつも隙間時間に読むためにバックに入れてる小説を取り出して読んで過ごした。


「あれ、珍しいな。櫻井が昼休憩にここにいるの」

バランス栄養食のクッキー2本を栄養ドリンクで流し込み、夢中で本を読んでいたら、開発プログラマーのリーダー、笹部さんの声が聞こえた。

本から顔を上げると、大量の仕様書ファイルを持ってる笹部リーダーと、まさかの須藤志恩がいた。


「ラッキーだな、櫻井。ちょっと来い。この業界で名高い メトロノームの須藤志恩代表取締役様だよ」

須藤志恩の肩に手を回し、陽気な笹部リーダー。
ダサメガネをかけ、マスクをしてるからバレるはずない。
恐る恐る立ち上がり、笹部リーダーに近づき、大量の仕様書ファイルを受け取る。

「この子、うちのホープ。プログラミングが正確で速い。複雑なのは全てこの子がやってる」

須藤志恩がじっとわたしを見る。
ばれるわけない。
昔のわたしと今のわたしは似ても似つかない。
それなのに、

「名前は?」

と須藤志恩が聞いてきた。

答えるわけにはいかない。
黙りこける事にした。

ITエンジニアの人はコミュニケーション能力が低い人が多い。
だから、プログラミングはできても、意思疎通が難しい人もいる。

わたしも、その部類。
普段も必要以上は周りとうちとけないようにし、話も気が向かないとしない。

だから、この場で黙り込んでいてもおかしくない。

「須藤さん、すみません。この子、こんな子なんですわ。ほら、この業界、多いでしょ、コミュ障、脅えてるから、許してやって下さい。名前は…櫻井、なんだっけ?年は28歳だったよな?」

笹部リーダーが間に入ってくれた。
笹部リーダーがわたしの下の名前を知らなくて良かった。

そこにほっとする。

須藤志恩がわたしを上から下までじろじろ見る。
頭脳明晰、容姿端麗な、日本で1番モテてる男が、こんな地味女を舐め回すようにみつめるなんて、変態になったのか?

それとも、バレたか…。

ヒヤヒヤして脂汗が滲み出てくる。

そうこうしていると、同僚達がランチタイムから帰ってきて、須藤志恩を囲み、握手や色々話を聞きだし、それをいいことに、大量の仕様書ファイルをファイルボックスへ入れてから自分の席についた。

笹部リーダーと須藤志恩はその後、料亭でのランチミーティングに移動へ向かった。

運が悪い。
須藤志恩に、もう2度と、会うつもりなかった。

任天社を辞める事が頭によぎった。
もう2度と彼の元には戻りたくない。


「櫻井、申し訳ないが、来週から3ヶ月ほど東京のメトロノームに出向してくれないか?ポッケモンの連動アプリ開発で、こっちからも人員を出す事が決まってな。須藤社長が櫻井を指名したんだ」

次の週の初め、いきなり、長井プロデューサーから言われ、肩を落とす。

「住まいとかはメトロノームが用意するから、単身で衣類のみ持って行けばいい。櫻井が不在はかなりの痛手だが、須藤社長からの指名だから断れん」

辞令だから従うしかない。
正社員で採用されたから仕方がない。
とはいえ、古巣に出向はしたくない。

「長井プロデューサー、大変恐縮ですが、退職させていただけませんか?東京には戻りたく無いです。」

就職する際に、履歴書にメトロノームで勤めてた経歴は書いてない。
nttデータに勤めてた経歴と、取得した資格を書いたのみ。

「こっちとしても他のプログラマーが育ってないから、櫻井がメトロノームに出向はかなりの痛手だ。辞められるのも困る。出向要員の変更はメトロノームと交渉する。だから、申し訳ないが、しばらくメトロノームに出向いてくれ」

長井プロデューサーの辛そうな表情に、これ以上は何も言えなかった。

メトロノームに出向したとしても、多忙な須藤志恩がわたしに接触するとは思えない。
メトロノームが創設時に1年勤めていた時も、わたしは社長室に閉じ込められて、ずっとパソコンのキーボードを叩いてただけで、社員の前に顔を出す事は無かった。

単純に笹部リーダーの話を聞いて、仕事ができるから出向依頼が来たのかもしれない。

諦めて、古巣に出向を決めた。






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