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第一部 婚約破棄されました
1、これが現実かっっ:上
しおりを挟むお互い仕事が忙しく中々会えなかったが、久しぶりに会える婚約者の元へと仕事もそこそこに急いで向かった。小さな田舎故、一つしかない診療所で隣同士でおぎゃーと産まれてから小中高大全部一緒という腐れ縁レベルの幼馴染は、もう既に家族同然だ。残業で疲れてむくんだ足も、今日だけはやけに軽くて柄にもなく足取りも弾む。その連絡を貰ってから薬指の指輪と携帯を眺めて、ついにやけた顔で仕事して後輩に呆れられたレベルだ。
だから、深夜のファミレスに入った時、幼馴染で婚約者の雄輔の隣に見知らぬ女性が座っていて当然困惑した。とりわけ、その女性が挑む様に緊張感を持った張りつめた視線で見てきたのなら猶更だ。
困惑しつつも席に座って、場を和ませるように愛想笑いする。いつもの気の抜けたやりとりをしよう、そんな嫌な雰囲気と予感を振り払いたくて投げ掛けた合図は、硬く冷たい響きを持った表情と言葉で切って捨てられた。
待っていたのは、今まで見たことがない程見知らぬ男の顔をした雄輔だった。
「すまない、叶恵には急なことで悪いと思っている。けれどお前と結婚したいと強く思えなかったんだ。慰謝料は勿論払う。…婚約を破棄させてくれ」
親には此方から言っておくと、そう伝えられながら目の前に滑る様に差し出された誓約書。
「は…、なに、これ。何の冗談?」
引き攣りつつも四捨五入すれば三十路となる女的には頑張ったお茶目な笑顔を見せれば、雄輔は石像の如く硬い表情で私を見つめた。は…、と愛想笑いをしながら視界に先程から入る彼女へ視線を向ければ、成る程、小柄で細く、雄輔好みのゆるふわの髪が甘く翻る可愛らしい人が座っている。私よりも断然若く、女の子らしい化粧もきちんとした女性だ。
そして、ぱちりとした目には甘い色も優越感も無く、ただ私という障害に対しての微かな罪悪感とそれを上回る闘争心が宿っていた。
どっきりじゃ、ない…?
やけに喉が渇く。今に何処かから看板を持った友人達が出てくるのではないかと、後ろのドリンクバーを見るフリをしてあちこちに視線を投げた。だって、小説じゃそういうパターンもあったでしょ?縋る希望にじりじりと無言で居れば、ファミレスの店員さんが持ってきた水の氷がまだかよとばかりにカロンと音を立てる。
「どちら様ですか」
回らぬ真っ白な頭のままに声を掛けた。自分で口にしておいて、なんて間抜けな質問なのだろうと落ち込む。だがこんな時に咄嗟に回る頭など持っていない面白みの無い平凡女なのだ。
すると二人が視線を交わし合う。そこに確かに存在する絆に、信頼に、雄輔の薬指に存在しない指輪に、馬鹿な私はようやく悟って打ちのめされた。縋ることすら無駄足で、結末は既に決まってしまっているのだ。
「俺の会社の人だ。お前に仕事での悩みを打ち明けられず辛かった時に支えてくれた。俺から声を掛けたんだ」
「違います! 私は雄輔さんが婚約していることを知っていました。それでもこの気持ちを止められなかったんです」
「美樹! それは言わない約束だろうっ」
「っ、でも!」
目の前で繰り広げられる劇を他人事の様に眺める。視線を落とした先の誓約書には、ざっと読めば「慰謝料は望む分雄輔が渡すから近付くな宣言」が書いてある。引き攣ったのは顔か、喉か、それとも今激しく動いている心臓か。彼等は私がお金で満足せず危害を加えることを危ぶんでいたのだと理解した。そして、婚約を知っていて手を出した場合、その相手にもお金を請求出来る。口止めしていたのは、美樹さんにお金を請求することのないようにとした彼なりの彼女の護り方なんだろうか。それとも、私の恨みが雄輔だけでなく美樹さんに行かないように?正直、雄輔が口止めしなくてもこの場に二人寄り添い合って存在する状況なら、そりゃ二人ともに負の感情を抱くわよ、あたりまえ、でしょ…
それに、心配せずともボイスレコーダーなんぞ一ミリたりとも持って来る予定はなかった。むしろ、そろそろ時期かなぁ…なんて、呑気にその反対の言葉を待ってたなんて、心臓が千切れそうな程痛んでる今更、口が裂けてももう言えない。
テーブルの下で手の平が白くなるほどに両手を握りしめる。薬指が、やけに痒い。職場で今年こそはと無理言って空けてもらった24日の真っ白さは、もう私が望んだ予定で埋まることは無い。
愛想笑いも尽きて、ただただ空笑いをしながら、仕事先から持って来た鞄を広げた。既に判の押されているそれをファイルにしまおうと手に持つと、両手が言う事を聞かずファイルを開けるのにもたついてしまう。少し紙が縒れる。
紙がこすれ合いカサついた音を立てる様子を二人は無言で目で追っていた。その表情を観察する余裕なんてない。結局注文しなかったなぁとまだ氷の残る水を見ながら席を立つ。向かいの席で二人を見下ろす私は、どんな顔で彼等の目に映っているのだろうか。
カニ歩きで通路に立てば、今更ながらに鄙びた深夜のファミレスで良かったと思い当たった。
それでもちらりと此方を伺う店員の様子に、もう此処は使えないなぁと吐息。
なんだ、案外まだ余裕あるじゃないか自分
励ます様に考え、もう一度二人を眺めた。またカロンと今度は二人のどちらかの水が音を立てる。
私は手を伸ばして自分の水を掴んだ。
「っつ!」
雄輔が美樹さんを庇おうと腰を上げたのを横目で確認しながら、私は持ち上げた冷えた水を一気に飲み干した。
ダンッ、と置けばよくやったとカラカラ氷の拍手だけが鳴り響く。
「ごちそうさまでしたっ」
キンキン響く頭を抱えて、颯爽と扉から出てやった。
階段を下りる時によろけて転けかけたのはご愛嬌だろう。
駅までの道を一人で歩く。行きしは久しぶりに会えると浮かれ気分だったが、今は冬が近づく寒さを自覚してしまう。仕事からそのまま来たため、こちとら足の防御力がほぼゼロなのだ。寒さのせいに違いないと、ずびっと鼻を啜った。
「あー、そりゃ口約束とか流れ的な感じで私たちの間に劇的なものなんてなかったし。もうおばさんだし。最近じゃデートとか可愛らしいことなんて全然してなかったし」
すんっと鼻を鳴らす。…咽せた。袖で強く目元を擦れば、会社を出る時に気休めででもと付けたマスカラが袖に付く。ウォータープルーフも物理攻撃には弱いのだ。
「お互い違う仕事があって電話とかメールぐらいしか出来なかったし、そんなんだから雄輔が悩んでるのだって知らなかったし、今日だって会うの久しぶりで…」
ぐちぐち零しながら歩く。そうして、関係が崩れたのは当たり前だったのかもしれないと思い当たった。関係を継続するには双方の努力が必要なのに、私はずるずると甘えていて、本気で努力したとは到底言えない。
でも、趣味でよく面白がって読んでいた小説と同じことが、我が身に起きると誰が思うのか。
何故、愛情を持つ相手がいるのに他の人を好きになるのか。
勿論、離れていても崩れない関係もある。お互い愛し合っていて、ん、と言われたらリモコンを渡せる程度には家族同然に分かり敢えていて…、だから、私達は距離なんて関係ない崩れない関係の中に入るのだとつい先程まで思っていたのだ。胡坐を掻いて信じ切っていたのだ。滑稽なことに私だけが。
何川か忘れたが、それなりに大きな川に架かる橋の歩道でぼんやりと立ち止まる。疎らに通る車のヘッドライトに照らされては、直ぐに夜が支配する。深夜でも明るい街が照らす川面を眺めて、ふと思い立って薬指の指輪に手を掛けた。普段から着けっぱなしだったから中々外れない。
何だか腹が立って、自分が惨めになって、本格的に泣けてきた。
「もうっ、もうっ、なんで外れないのよっ。太ったとか此処で教えられても嬉しくないわよっ! それとも何、こんなんだから負けたって言いたいの!?」
傍から見たらもう見ていられない人に違いない。それでも、ようやく外れたそれをぎゅっと握り締めて振りかぶれば、意気地なしの私はそこで動きを止めてしまう。物語の様に雄輔が追って来てくれるかもしれない、誰か親しい人が実は好きだったのだと後ろから抱きしめてくれるかもしれない。
…それが有り得ないことだとは、自分が一番良く分かっていた。
その一番親しい筈の幼馴染に振られたのだ。流れでこのまま結婚するんだろうなぁと、家族も自分も、同僚もそういう目で見ていた。情熱的な燃え上がる愛は無くとも、穏やかな愛と絆は生まれていた。けれどその実、羨ましがられていた自分はただ偶然丁度いい相手が居る運の良さに胡座をかいていただけだったのだ。結婚が遅くなっているのはお互いの仕事が一段落してからなのかと馬鹿みたいに信じていた私。そんな愚かな自分に、都合よく王子様が現れる筈がないだろう?
「っつ、…っばっかやろお! 稼ぎまくってやるわよ! あんたなんか居なくたって、こっちはいい男捕まえて幸せになってやるから! 誰がストーカーしてやるか! こんな紙切れなんざなくたって大丈夫に決まってんでしょおっ」
欄干に雫が落ちる。傷付いていたのだ。澄まして強がって出て行ったって、何だかんだと幼馴染で、27年間腐れ縁の様に一緒に居たのだ。雄輔に私がそんな女だと思われていたのだと思うと、悔しくて悲しくて仕方なかった。そして、自分の不手際の部分がありつつも、やはり裏切られたという思いがひりつく程に痛かった。
「っ、エスパーじゃないんだからっ、悩んでるなら口で言いなさいよ!! 今時ロボット名が胡椒のアイツの方がよく喋るわよ! 勝手に遠慮されて、浮気されて、それにも気付かない鈍感女なんだから言われなきゃ分かるかい!」
そっちも察しろよ!27年はどうした!
…それとも、あんたにとってはそんな簡単に捨てられる程度のもんだったの?
「…っ、この紙切れはあんた達の安心の為に判子押して熨斗つけて返してやるだけだから! 私は幸せになるんだから!! そっちも幸せにでもなるといいわ!!」
溢れ出す衝動のままぐずっと混ざり過ぎて何か分からぬ液体を袖で拭いて、一気に腕を振り下ろす。
「…っつ」
でもやっぱり未練が残って途中で腕を止めた。
けど、スローモーションの様に指輪は手の平からあっさりと零れ落ちる。
「あっ」
慌てて欄干から身を乗り出すが、投げるでもなくただ真下へと落ちていく指輪。
少しして、微かにぽちゃんという水音がした。
私はずるずると欄干に縋って足元から崩れ落ちる。欄干に額を付ければ、まだ残っていた蜘蛛の巣が邪魔だと風に揺らいでいる。
呆気ない、これで終わり。最後まで締まらない自分が心底嫌になり、自棄糞でタクシーに電話する。タクシーが来るまでの十分程、未練がましく川面を見ていた私は、タクシーの運ちゃんが声を掛けてくれたのを境に背を向けた。今度こそ努力して彼等より幸せになるのだ、私は。
明日からどうかは分からない。けれど、今日だけはせめてと、最後まで川面を振り返ることはなかった。
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