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第30章 その頃、元皇族たちは……
罪と笑顔
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今日もランドルは、苦いため息をこぼし続けている。
気づけば頭が落ちそうなほど項垂れて、亀のように背中も丸まり、無限に続くのではというほどため息を吐きながら仕事をしていたものだから、怪訝な面持ちの使用人たちから「こっちまで不景気になりそうだからやめろ」と嫌がられ、強引に休憩を取らされてしまった。
けれど……きつい物言いをする彼らだが、ランドルがこの屋敷に来たばかりの頃と比べれば、ずいぶん態度が軟化して、ぽつぽつと様子を見に来てくれる。
「あんま食ってなかったろ。だからそんな不景気なツラになるんだ」と焼き菓子を持ってきてくれたり、「熱はないのかい?」と温まり効果のある薬湯を淹れてくれたり。
義弟の薬舗の品だというその薬湯は、いつのまにか冷え切っていたランドルの手足を、冬のひだまりのように優しく温めてくれた。
アーネストの薬は『妖精の薬』と謳われているらしい。
ぼんやりと聞いていた義弟への称賛も、こうして自分が弱っているとき口にしてみれば、実感を伴って納得できた。なにやら躰だけでなく、心にまで効くような。
なぜだか無性に泣きたくなって、あわててグッとこらえた。
そうしてランドルは思い返す。
講和会議で初めてアーネストを見たときに甦った、ローズマリーの顔を。
そう、あんな顔だった。髪の色は違うが瓜二つだ。
十にも満たぬ頃、初めて会った彼女と。
父に紹介された『第二妃』の美貌は、子供ごころに衝撃的だった。
彼女だけ、別世界の住人のように異質で、周囲とは別の空気につつまれているみたいに見えた。
エルバータの社交界には美女が大勢いたけれど、ローズマリーという人間は、周囲の者をすべて――皇妃である母すら圧倒して、有象無象のぼやけた存在にしてしまった。どんなに控えめに振る舞っていても、みなの視線を奪わずにいられなかった。
だからいっそう、母の怒りはすさまじかった。
母を嘆かせ傷つける、悪い女だと思っていた。
母が嫌う女だから、自分も嫌った。
……いや、違う。嫌っていたわけではない。母の機嫌を窺っていただけだ。
自分が嫌なことをされたことなどなく、むしろ初対面で優しく話しかけられたときは、胸がときめいたのに。
そんなふうに思った恥ずかしさが悔しさになり、兄と一緒になって酷い言葉を投げつけた。その後も彼女を見つけては石を投げつけたり、ドレスを汚したりした。
そうすると母が喜ぶから。
『あなたたちは本当に、母親思いの優しい子ね』と褒めてくれたから。
それでいて、本当にローズマリーが王宮から出て行くと、心にぽっかりと穴があいたようになった。
あんな人はほかにいない。
もう二度と、『別世界の住人』を目にすることはできない。
失って初めて気がついた。
彼女が消えた大宮殿は急激に色褪せて、社交界は光が消えたようになった。
貴族たちは母に遠慮しつつ陰ではローズマリーを恋しがり、吟遊詩人たちは創造力の源泉たる『妖精王の愛し子』を追いやった母を恨んで、『世界一怖いうちの嫁』という歌を大ヒットさせた。
空虚さも後悔もあと味の悪さもすべて、『母が望んだのだから仕方ない』という理屈で、なかったことにした。
――あの頃から自分は思考停止していたのだなと、ランドルは暗澹たる気持ちになる。
なにひとつ自分で判断せず、損をしないという基準で動き、重大な判断はいつも母の言いなりだった。
そのツケが、今になって重くのしかかる。
現在ランドルを悩ませている原因は、二つ。
ひとつは先日、使用人を装って秘密裏に接触してきた、兄テオドアの使いから渡された手紙。
その内容は、いよいよ隠し財産を手にする機会が巡ってきたゆえ、行動せよという指令だった。
待ちに待った連絡のはずなのに……なぜかランドルはためらった。
なにに迷っているのかもわからず、一歩を踏み出すこともできず、使いには理由をつくって『後日また来てほしい』と頼んだ。すると、のんびりしている余裕はない、次は必ずと、怖い顔で念を押された。
その後は混乱と焦燥を隠せず、忠宗に理由を問われてしまったけれど……
忠宗は公平で寛容な男だと感じている。
しかし、さすがに家族を裏切るようなことは言えなかった。
そしてもうひとつの原因は、昨日いきなり自分を訪ねてきた、歓宜だ。
もちろん、元夫への未練や同情から訪ねてきたのではない。
突然の訪問に驚くランドルに、ただひと言だけ――
「お前は一度でも、本気で、心から、己の罪について考えたことがあるか?」
――そう言い置いて、去って行った。
万の言葉で罵倒されるより、その短い言葉は、抜けない棘のように深く鋭くランドルの胸に突き刺さり、今もジクジクと苛み続けている。
罪とは。自分の罪とは。法で裁かれぬ罪の基準とは。
少なくとも……歓宜には、取り返しのつかないことをした。
その件を思うたび混乱に自己嫌悪が加わって、気持ちがぐちゃぐちゃになる。
そんなところへ執事がやって来て、今度はアーネストの来訪を告げた。
なぜいきなり。義弟は王都にいるはずではなかったのか。
仰天したのはランドルだけで、いつものように事務的に対応する執事を見れば、事前に連絡は来ていたのだと知れた。ランドルには知らされなかっただけで。
皇子時代には考えられなかった扱いだが……
不思議ともう、腹も立たない。屈辱とも感じない。
それよりも、このタイミングで、しかも歓宜に続いてアーネストの来訪となると……思考停止を自嘲するランドルといえども、ピンとくる。
これはもう、隠し財産に関する情報が漏れているのだ。
兄が協力者を得て秘密裏にジオドロス・パレスから財産を引き出そうとしている計画は、このまま突き進んでも、きっと失敗に終わる。であれば、早々に兄に応じる返事をしなくて正解だった。
情報が漏れているとしても、資産を動かせるのは自分たち親子だけ。
別名義で預けたと証明されない限りは、戦勝国の王であっても引き出すことはできない。ならばこのまま知らぬ存ぜぬを通していれば、財産は接収されず済む。
一刻も早い使用人の立場からの解放を望む母たちにとっては、今回の機会を逃すのは耐え難いことであろうが……
とにかく。
双子王子に気に入られているアーネストが、たとえ必死の形相で脅してこようとも、泣き落としで説得を試みようとも、無駄なこと。
ローズマリーに負い目は感じているが、それとこれとは別の話だ。
自分たちの財産なのだから、自分たちが使いたいように使う権利がある。
そう自分に言い聞かせて、いざ、アーネストと対面してみれば……
忠宗の書斎の長椅子に、ひとり座ってカップを口に運んでいた義弟は、ランドルを見るや「あ」と言ってへらりと笑い、立ち上がって綺麗なお辞儀をしたかと思うと、改めてニパッと笑った。
「こんにちは~ランドル義兄上。ご機嫌うるわしゅう」
必死の形相どころか、拍子抜けするほど呑気な笑顔だった。
気づけば頭が落ちそうなほど項垂れて、亀のように背中も丸まり、無限に続くのではというほどため息を吐きながら仕事をしていたものだから、怪訝な面持ちの使用人たちから「こっちまで不景気になりそうだからやめろ」と嫌がられ、強引に休憩を取らされてしまった。
けれど……きつい物言いをする彼らだが、ランドルがこの屋敷に来たばかりの頃と比べれば、ずいぶん態度が軟化して、ぽつぽつと様子を見に来てくれる。
「あんま食ってなかったろ。だからそんな不景気なツラになるんだ」と焼き菓子を持ってきてくれたり、「熱はないのかい?」と温まり効果のある薬湯を淹れてくれたり。
義弟の薬舗の品だというその薬湯は、いつのまにか冷え切っていたランドルの手足を、冬のひだまりのように優しく温めてくれた。
アーネストの薬は『妖精の薬』と謳われているらしい。
ぼんやりと聞いていた義弟への称賛も、こうして自分が弱っているとき口にしてみれば、実感を伴って納得できた。なにやら躰だけでなく、心にまで効くような。
なぜだか無性に泣きたくなって、あわててグッとこらえた。
そうしてランドルは思い返す。
講和会議で初めてアーネストを見たときに甦った、ローズマリーの顔を。
そう、あんな顔だった。髪の色は違うが瓜二つだ。
十にも満たぬ頃、初めて会った彼女と。
父に紹介された『第二妃』の美貌は、子供ごころに衝撃的だった。
彼女だけ、別世界の住人のように異質で、周囲とは別の空気につつまれているみたいに見えた。
エルバータの社交界には美女が大勢いたけれど、ローズマリーという人間は、周囲の者をすべて――皇妃である母すら圧倒して、有象無象のぼやけた存在にしてしまった。どんなに控えめに振る舞っていても、みなの視線を奪わずにいられなかった。
だからいっそう、母の怒りはすさまじかった。
母を嘆かせ傷つける、悪い女だと思っていた。
母が嫌う女だから、自分も嫌った。
……いや、違う。嫌っていたわけではない。母の機嫌を窺っていただけだ。
自分が嫌なことをされたことなどなく、むしろ初対面で優しく話しかけられたときは、胸がときめいたのに。
そんなふうに思った恥ずかしさが悔しさになり、兄と一緒になって酷い言葉を投げつけた。その後も彼女を見つけては石を投げつけたり、ドレスを汚したりした。
そうすると母が喜ぶから。
『あなたたちは本当に、母親思いの優しい子ね』と褒めてくれたから。
それでいて、本当にローズマリーが王宮から出て行くと、心にぽっかりと穴があいたようになった。
あんな人はほかにいない。
もう二度と、『別世界の住人』を目にすることはできない。
失って初めて気がついた。
彼女が消えた大宮殿は急激に色褪せて、社交界は光が消えたようになった。
貴族たちは母に遠慮しつつ陰ではローズマリーを恋しがり、吟遊詩人たちは創造力の源泉たる『妖精王の愛し子』を追いやった母を恨んで、『世界一怖いうちの嫁』という歌を大ヒットさせた。
空虚さも後悔もあと味の悪さもすべて、『母が望んだのだから仕方ない』という理屈で、なかったことにした。
――あの頃から自分は思考停止していたのだなと、ランドルは暗澹たる気持ちになる。
なにひとつ自分で判断せず、損をしないという基準で動き、重大な判断はいつも母の言いなりだった。
そのツケが、今になって重くのしかかる。
現在ランドルを悩ませている原因は、二つ。
ひとつは先日、使用人を装って秘密裏に接触してきた、兄テオドアの使いから渡された手紙。
その内容は、いよいよ隠し財産を手にする機会が巡ってきたゆえ、行動せよという指令だった。
待ちに待った連絡のはずなのに……なぜかランドルはためらった。
なにに迷っているのかもわからず、一歩を踏み出すこともできず、使いには理由をつくって『後日また来てほしい』と頼んだ。すると、のんびりしている余裕はない、次は必ずと、怖い顔で念を押された。
その後は混乱と焦燥を隠せず、忠宗に理由を問われてしまったけれど……
忠宗は公平で寛容な男だと感じている。
しかし、さすがに家族を裏切るようなことは言えなかった。
そしてもうひとつの原因は、昨日いきなり自分を訪ねてきた、歓宜だ。
もちろん、元夫への未練や同情から訪ねてきたのではない。
突然の訪問に驚くランドルに、ただひと言だけ――
「お前は一度でも、本気で、心から、己の罪について考えたことがあるか?」
――そう言い置いて、去って行った。
万の言葉で罵倒されるより、その短い言葉は、抜けない棘のように深く鋭くランドルの胸に突き刺さり、今もジクジクと苛み続けている。
罪とは。自分の罪とは。法で裁かれぬ罪の基準とは。
少なくとも……歓宜には、取り返しのつかないことをした。
その件を思うたび混乱に自己嫌悪が加わって、気持ちがぐちゃぐちゃになる。
そんなところへ執事がやって来て、今度はアーネストの来訪を告げた。
なぜいきなり。義弟は王都にいるはずではなかったのか。
仰天したのはランドルだけで、いつものように事務的に対応する執事を見れば、事前に連絡は来ていたのだと知れた。ランドルには知らされなかっただけで。
皇子時代には考えられなかった扱いだが……
不思議ともう、腹も立たない。屈辱とも感じない。
それよりも、このタイミングで、しかも歓宜に続いてアーネストの来訪となると……思考停止を自嘲するランドルといえども、ピンとくる。
これはもう、隠し財産に関する情報が漏れているのだ。
兄が協力者を得て秘密裏にジオドロス・パレスから財産を引き出そうとしている計画は、このまま突き進んでも、きっと失敗に終わる。であれば、早々に兄に応じる返事をしなくて正解だった。
情報が漏れているとしても、資産を動かせるのは自分たち親子だけ。
別名義で預けたと証明されない限りは、戦勝国の王であっても引き出すことはできない。ならばこのまま知らぬ存ぜぬを通していれば、財産は接収されず済む。
一刻も早い使用人の立場からの解放を望む母たちにとっては、今回の機会を逃すのは耐え難いことであろうが……
とにかく。
双子王子に気に入られているアーネストが、たとえ必死の形相で脅してこようとも、泣き落としで説得を試みようとも、無駄なこと。
ローズマリーに負い目は感じているが、それとこれとは別の話だ。
自分たちの財産なのだから、自分たちが使いたいように使う権利がある。
そう自分に言い聞かせて、いざ、アーネストと対面してみれば……
忠宗の書斎の長椅子に、ひとり座ってカップを口に運んでいた義弟は、ランドルを見るや「あ」と言ってへらりと笑い、立ち上がって綺麗なお辞儀をしたかと思うと、改めてニパッと笑った。
「こんにちは~ランドル義兄上。ご機嫌うるわしゅう」
必死の形相どころか、拍子抜けするほど呑気な笑顔だった。
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