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第30章 その頃、元皇族たちは……
元皇帝の次男と藍剛家の三男と、ある追憶
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エルバータの元第二皇子ランドルは、暖炉に掛けられた鍋から杓で湯をすくいながら、大きなため息を吐いた。
それに気づいた忠宗が、白い眉の下の目を丸くして、「おやおや」と読みかけの書類を置く。
「その重々しいため息。今日だけで百度目くらいじゃないか?」
「え。あ。そう、でした……か?」
「自分で気づいとらんかったのかい」
「はい。まったく」
気まずそうに視線を泳がせるランドルに苦笑した忠宗が、「どれ。少し休憩して、爺さんの話し相手になってくれんか」と、手早く茶を点てる。
抹茶に湯を注いで撹拌する醍牙式の茶を初めて飲まされたとき、ランドルは、あまりの苦さに、嫌がらせの一環だと思った。
だが舌が慣れた今では、奥行きのある緑の香の中にほのかな甘みすら感じて、小さな茶菓子と共にいただくとさらに味わいが増すことも知った。実に奥が深い飲み物だ。
忠宗は、アーネストを醍牙に連れてきた藍剛光宗将軍の、下の弟らしい。講和会議ののち、その忠宗を監視人として、ランドルは彼の屋敷に召し抱えられた。
ランドルの兄のテオドアは、藍剛の上の弟の昌宗の屋敷にいるので、元皇族の兄弟が、醍牙の将軍家の兄弟に、それぞれ仕えている構図だ。
この屋敷に連れてこられた当初、ランドルは己が身の変転にただただ呆然としていた。皇帝の第二皇子であった自分が召し使いに堕とされた現実に対処できず、感情が麻痺していた。
怒りも嘆きも感じなかった。
ほかの使用人たちから向けられる嫌悪や嘲りも、わざわざ見物に来る貴族たちの揶揄や愚弄も、右から左へ素通りしていた。
だから使用人のお仕着せを与えられ、掃除やら靴磨きやらをさせられても、「はあ」とぼんやり返事をしては、からくり人形のように動くだけ。
そんな彼を最初のうちは面白がっていた周囲の者たちも、そのうち気味悪くなったようで……
忠宗の屋敷の執事は、『新入りの召し使いをみだりに虐待してはならない』という主人の命令に忠実だったから、ほかの使用人たちの度が過ぎるときは厳しく叱っていた。が、かといって、ランドルに対し親身に接するということもなかった。
そんな彼でも、呆然自失状態が続くランドルのことを放置してはおけなかったらしい。
執事の報告を聞いた忠宗は、その頃多くの時間を過ごしていた兵士宿舎から戻ってきて、ランドルに茶を振るまう時間を取ってくれるようになった。
苦い茶に心身共にびっくりさせられたことと、忠宗との会話が、心が解れるきっかけになったのだろうと、ランドルは思う。
忠宗は長兄と十も年が離れているということも、昔は兄たちと同じく武将と呼ばれる立場だったが、戦で脚を負傷して以来一線を退き、今は新兵の指導に当たっているということも、そうした時間の中で教わった。
その中で、特にランドルの気持ちを大きく揺さぶった会話があった。
「左の腕と脚が、ちょっと不自由でな。そうなってみると後悔するものだよ。自由に動く自分の躰に感謝が足りんかった、もっと大事にしてやりゃあよかったと」
暖炉の前の揺り椅子で脚をさすりながらそう言った忠宗に、ランドルは尋ねた。
「戦に出たことを後悔しているのですか」
「いや。虎獣人として人一倍でかく強く生まれたのだから、戦えない者を守るため躰を張ることに、今でも躊躇はないよ。だが健常であった頃には戻れないと思い知ったら、自分がいかに恵まれていたかと身に染みてわかるし、それでもこうして元気に過ごせていることが実にありがたいし。――お前さんも、多くを失った身だ。昔と今では、考え方も変わったんじゃないのかい?」
忠宗というのは、不思議な男だ。
自分で言う通り図体は大きいが、穏やかでゆったりとして、威圧感でなく包容力を感じさせる。語り口調も優しい教師のようで、彼の話はランドルを反発させることなく、じっくりと過去を振り返る時間を与えてくれた。
昔はあれほど獣人を恐れていたのに。
それだけでも充分な変化だが、確かに自分はもっと多岐に渡って変わった気がすると、ランドルは思う。
衣食住、美女に金、あらゆる快楽。
どれをとっても最上のものを与えられるのが当たり前だった。
第二皇子として周囲から求められる役割をこなしてさえいれば、それらに不自由することはない生活。
だから……
後添いに歓宜を迎える話が出たときも、虎獣人の女と聞いて縮みあがったけれど、かたちだけ受け入れれば良いことだと説得されて……義務さえ果たせば特権は継続されるのだと、自分に言い聞かせた。
虎獣人の妻を愛そう、大切にしよう。
そんな考えは微塵もなかった。
どうせ野暮ったくて洗練のせの字も持たぬ醜女が来るのだと、決めつけていた。
だから初めて歓宜を見たとき……
想像していたよりずっと綺麗で、驚いた。
自分と変わらないほど背が高く、立派な筋肉がついた躰だということは衣服の上からでも見て取れたし、エルバータの社交界の、腰の細さを張り合うような女性たちとはまったく違っていたけれど。
「いやだいやだ。ご覧になった? あの挑戦的な顔を! 野蛮な性根が、きつい顔つきに滲み出ているのよ。おまけにあの体格。あれではエルバータの繊細なドレスなど着こなせません。着せる端から破いてしまいそうですもの」
母は取り巻きの婦人たちにそんなことを言って、あからさまに歓宜を笑い者にしていた。皇后がそうした態度をとれば、歓宜がこの先どう扱われるかを、充分にわかった上で。
ランドルは、歓宜の勝ち気に輝く緑の瞳も、肉感的な唇も、美しいと思った。
獣人の王女を蔑視する者たちの中で、臆さず顔を上げて睨み返す強さも、まっすぐに伸びた背筋も、まるで荒野に咲く一凛の赤い花のようだと思った。
――でもその花を、守ってやろうとは思わなかった。
美女はいくらでもいる。母に逆らい、不興を買って、今の快適な生活を奪われるような真似をしてまで、歓宜にこだわる必要性は感じなかった。
だが……忠宗の言う通り、すべてを失った今ならわかる。
両国の平和の架け橋として。
その崇高な目的ゆえに嫁いでくれた、ひとりの女性として。
歓宜をもっと大事にするべきだった。
実に得難い女性だったのだ。
なのにあの頃のランドルは、与えられるものを享受するばかりで、なにひとつ自分の頭で考えていなかった。
「――で?」
忠宗の声にハッとして、追想が途切れる。
視線を戻すと、無骨な茶碗を置いた忠宗が、よく日に焼けた顔で興味深げに微笑んでいた。
「ため息の理由は、この爺さんに話せることかい?」
それに気づいた忠宗が、白い眉の下の目を丸くして、「おやおや」と読みかけの書類を置く。
「その重々しいため息。今日だけで百度目くらいじゃないか?」
「え。あ。そう、でした……か?」
「自分で気づいとらんかったのかい」
「はい。まったく」
気まずそうに視線を泳がせるランドルに苦笑した忠宗が、「どれ。少し休憩して、爺さんの話し相手になってくれんか」と、手早く茶を点てる。
抹茶に湯を注いで撹拌する醍牙式の茶を初めて飲まされたとき、ランドルは、あまりの苦さに、嫌がらせの一環だと思った。
だが舌が慣れた今では、奥行きのある緑の香の中にほのかな甘みすら感じて、小さな茶菓子と共にいただくとさらに味わいが増すことも知った。実に奥が深い飲み物だ。
忠宗は、アーネストを醍牙に連れてきた藍剛光宗将軍の、下の弟らしい。講和会議ののち、その忠宗を監視人として、ランドルは彼の屋敷に召し抱えられた。
ランドルの兄のテオドアは、藍剛の上の弟の昌宗の屋敷にいるので、元皇族の兄弟が、醍牙の将軍家の兄弟に、それぞれ仕えている構図だ。
この屋敷に連れてこられた当初、ランドルは己が身の変転にただただ呆然としていた。皇帝の第二皇子であった自分が召し使いに堕とされた現実に対処できず、感情が麻痺していた。
怒りも嘆きも感じなかった。
ほかの使用人たちから向けられる嫌悪や嘲りも、わざわざ見物に来る貴族たちの揶揄や愚弄も、右から左へ素通りしていた。
だから使用人のお仕着せを与えられ、掃除やら靴磨きやらをさせられても、「はあ」とぼんやり返事をしては、からくり人形のように動くだけ。
そんな彼を最初のうちは面白がっていた周囲の者たちも、そのうち気味悪くなったようで……
忠宗の屋敷の執事は、『新入りの召し使いをみだりに虐待してはならない』という主人の命令に忠実だったから、ほかの使用人たちの度が過ぎるときは厳しく叱っていた。が、かといって、ランドルに対し親身に接するということもなかった。
そんな彼でも、呆然自失状態が続くランドルのことを放置してはおけなかったらしい。
執事の報告を聞いた忠宗は、その頃多くの時間を過ごしていた兵士宿舎から戻ってきて、ランドルに茶を振るまう時間を取ってくれるようになった。
苦い茶に心身共にびっくりさせられたことと、忠宗との会話が、心が解れるきっかけになったのだろうと、ランドルは思う。
忠宗は長兄と十も年が離れているということも、昔は兄たちと同じく武将と呼ばれる立場だったが、戦で脚を負傷して以来一線を退き、今は新兵の指導に当たっているということも、そうした時間の中で教わった。
その中で、特にランドルの気持ちを大きく揺さぶった会話があった。
「左の腕と脚が、ちょっと不自由でな。そうなってみると後悔するものだよ。自由に動く自分の躰に感謝が足りんかった、もっと大事にしてやりゃあよかったと」
暖炉の前の揺り椅子で脚をさすりながらそう言った忠宗に、ランドルは尋ねた。
「戦に出たことを後悔しているのですか」
「いや。虎獣人として人一倍でかく強く生まれたのだから、戦えない者を守るため躰を張ることに、今でも躊躇はないよ。だが健常であった頃には戻れないと思い知ったら、自分がいかに恵まれていたかと身に染みてわかるし、それでもこうして元気に過ごせていることが実にありがたいし。――お前さんも、多くを失った身だ。昔と今では、考え方も変わったんじゃないのかい?」
忠宗というのは、不思議な男だ。
自分で言う通り図体は大きいが、穏やかでゆったりとして、威圧感でなく包容力を感じさせる。語り口調も優しい教師のようで、彼の話はランドルを反発させることなく、じっくりと過去を振り返る時間を与えてくれた。
昔はあれほど獣人を恐れていたのに。
それだけでも充分な変化だが、確かに自分はもっと多岐に渡って変わった気がすると、ランドルは思う。
衣食住、美女に金、あらゆる快楽。
どれをとっても最上のものを与えられるのが当たり前だった。
第二皇子として周囲から求められる役割をこなしてさえいれば、それらに不自由することはない生活。
だから……
後添いに歓宜を迎える話が出たときも、虎獣人の女と聞いて縮みあがったけれど、かたちだけ受け入れれば良いことだと説得されて……義務さえ果たせば特権は継続されるのだと、自分に言い聞かせた。
虎獣人の妻を愛そう、大切にしよう。
そんな考えは微塵もなかった。
どうせ野暮ったくて洗練のせの字も持たぬ醜女が来るのだと、決めつけていた。
だから初めて歓宜を見たとき……
想像していたよりずっと綺麗で、驚いた。
自分と変わらないほど背が高く、立派な筋肉がついた躰だということは衣服の上からでも見て取れたし、エルバータの社交界の、腰の細さを張り合うような女性たちとはまったく違っていたけれど。
「いやだいやだ。ご覧になった? あの挑戦的な顔を! 野蛮な性根が、きつい顔つきに滲み出ているのよ。おまけにあの体格。あれではエルバータの繊細なドレスなど着こなせません。着せる端から破いてしまいそうですもの」
母は取り巻きの婦人たちにそんなことを言って、あからさまに歓宜を笑い者にしていた。皇后がそうした態度をとれば、歓宜がこの先どう扱われるかを、充分にわかった上で。
ランドルは、歓宜の勝ち気に輝く緑の瞳も、肉感的な唇も、美しいと思った。
獣人の王女を蔑視する者たちの中で、臆さず顔を上げて睨み返す強さも、まっすぐに伸びた背筋も、まるで荒野に咲く一凛の赤い花のようだと思った。
――でもその花を、守ってやろうとは思わなかった。
美女はいくらでもいる。母に逆らい、不興を買って、今の快適な生活を奪われるような真似をしてまで、歓宜にこだわる必要性は感じなかった。
だが……忠宗の言う通り、すべてを失った今ならわかる。
両国の平和の架け橋として。
その崇高な目的ゆえに嫁いでくれた、ひとりの女性として。
歓宜をもっと大事にするべきだった。
実に得難い女性だったのだ。
なのにあの頃のランドルは、与えられるものを享受するばかりで、なにひとつ自分の頭で考えていなかった。
「――で?」
忠宗の声にハッとして、追想が途切れる。
視線を戻すと、無骨な茶碗を置いた忠宗が、よく日に焼けた顔で興味深げに微笑んでいた。
「ため息の理由は、この爺さんに話せることかい?」
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