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第25章 『あの日』と、これから
あの日の選択
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年を重ねても不思議なほど老け込まない、盈月の端整な笑顔が、刃物のような剣呑さを宿した。
泉果は震え上がって細い悲鳴を漏らしたが、それを気にかけてくれる素振りすら見せない。
この人は本当に、もう自分に対して一片の愛着も無いのだと、泉果はそこでようやく理解した。
――いや、正確には、とうの昔にわかっていたのに目を逸らし続けてきた事実を、認めないわけにはいかなくなった。
盈月は婚約前に、王城に招かれた泉果と琴彌を並べて座らせ、はっきりと宣言していた。
『俺は婚姻を義務としか考えていない。愛だの恋だの求められても無駄だから、それが我慢ならないのなら、今のうちに辞退したほうがいい。あんたらなら、引く手あまただろう』
その言葉を聞いた泉果は、あ然とし、そして腹を立てた。
いくら王族といえど、高位貴族の後ろ盾が無ければ何ひとつ立ち行かないくせに、何という言い草か。しかも彼の父王のおぼえめでたき、国一の名門である弓庭後家の娘に向かって。
政略結婚であることくらい、言われなくとも承知していた。
ただ……虎の一族の中でも盈月は、際立って容姿に優れて逞しく、地位的にも申し分ないから、彼の妻になることを喜ばしく思っていたのだ。
なのに予防線を張るように、婚約前から拒否されて、泉果の誇りは著しく傷ついた。
――あのとき素直に、「あなたのような失礼な男に、嫁いでたまるものですか」と、言ってやればよかった。のちに何度、そう思ったことか。
しかし九聶伯爵家の琴彌が、何のためらいも見せずに、
「わたくしは、かまいません。どのみち政略結婚の駒として扱われるならば、わたくしは、あなた様の子を授かりたい」
そう言って、まっすぐ顔を上げて微笑む姿が、氷花のように美しかった。
勝たねばならぬ相手に対し、そんなふうに思ってしまったことが悔しくて、いずれ王の正妃になれるであろう地位を自分から捨てるのも惜しくなり、「わたくしもです!」と答えてしまった。
あのとき、別の選択をしていたら。
「生涯あなたを誠実に愛し続けます」と言ってくれる相手を選んでいたら。
そうしたら、もっと幸せな結婚生活を送れていただろうに。
「……ひどい」
意図せず、言葉が口からこぼれた。
そうして、自分でも止められなくなった。
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい! わたくしはあなたの正妃よ、どうしてそんなに冷酷になれるの!? 一度も夫として愛してくれなかったくせに、せめて王として正妃を守ろうとすら、思ってくれないの!?
あなたにもっと思いやりがあれば、わたくしだって、こんな女にならずに済んだ! 琴彌が死んだのはあなたのせいよ、妻を守れなかった情けなさを、わたくしで晴らさないで!」
息切れするほど叫ぶうち、涙があふれて、頬を伝った。
こんな男の妻になど、ならなければよかった。
彼の言う通り、ほかにいくらでも良い嫁ぎ先はあったのに。
弓庭後家がこの男を支えたために、増長させ、恩を仇で返されたのだ。そう思うと口惜しくてならない。
床に頽れて泣く泉果の前に、盈月が膝をついた。
この期に及んで、ようやく情けの気持ちが湧いたのだろうか。
鼻をすすりながら夫を見つめた途端、心臓が凍りつくかと思った。
盈月は笑っている。
子供のように無邪気に、本当に愉快でならないという顔で。
「もう、泉果ちゃん。僕が『これから訊くことに、正直に答えてね』とお願いしたこと、もう忘れてしまったの? 僕はまだ、きみになーんにも訊いてないよ。それなのに、なぜひとりで喋ってるの? 大きい独り言? 泉果ちゃんて面白ーい」
「陛、下……」
何ひとつ言葉が届いていない。
言葉は黙殺され、嘆きには侮蔑を返される。
気づけば躰がガタガタ震えていて、盈月はやはり笑いながら、「そんな下着姿でウロウロするからだよ」と、衝立に掛けられていたガウンを羽織らせてくれた。
それでも震える泉果を見て、「あのね」と、幾分優しい口調で言った。
「僕が未熟で、良い夫でも父でもなかったことは、心から反省しているよ。だから泉果ちゃんがちっとも王妃の役割を果たさず実家で遊び暮らしていても、三人目の妃は娶らなかった。僕なりのけじめだからだ。
でも、そろそろ泉果ちゃんにも、けじめをつけてもらわないとね。もうみんな、新たな段階に進むべきときだ」
「けじめ……って」
「じゃあ、話しやすくなるように、僕が入手済みの情報を先に教えよう」
そう言うと盈月は、泉果を椅子に座らせて、自分は窓際に立った。そうして腕組しながら、淡々と語った。
まず、医師のドーソンを通じて、彼の師にあたるレンデル医師がのこした診察記録等を押収したこと。
レンデルは、ある時期から急に羽振りが良くなったと噂になっていた。それは琴彌が双子を産んだ前後くらいだったこと。
彼は泉果の鼻の炎症を抑える薬を作っていたが、その処方は今、ドーソンが所有していること。
その薬には、泉果のためだけに調香された香水が、練り込まれていること。
レンデルという名に、泉果は心臓が口から飛び出すかと思った。
彼はすでに亡くなっているが、正妃と第二妃の主治医だった男だ。
泉果の動揺に気づいていないはずはないが、盈月は話を続けた。
レンデルが、不眠と吐き気を誘発する薬を内密に作っていたこと。
その頃から琴彌が、不眠や吐き気に悩まされるようになっていたこと。
その治療のためにレンデルが処方した丸薬には、飲みやすくするため、花の香りの蜜が練り込まれていたこと。
その香りの原料には、なぜか、泉果しか持っていないはずの香水も含まれていたこと。
「まさか! そんなはずは」
自分の薬の調合のため、泉果は自分だけの特別な香水を、レンデルに渡していた。
だがその香水を、琴彌の丸薬に使用したなんて、聞いていない。
なぜそんなことを。しかも記録まで残して。
冷や汗を流す泉果のそばに、「弟子のドーソンの考察によるとね」と話しながら、盈月が歩み寄ってきた。
「レンデルは、弓庭後家から口封じされることを、恐れていたのではないかと。正妃の香水を丸薬に用いて、記録も残すことで、いざというとき、きみたちがレンデルだけに責任を押しつけて逃れることが、できないようにしたのではないか――。
さすが、きみたちに消されかけた張本人は、実感がこもってるよねぇ」
泉果は震え上がって細い悲鳴を漏らしたが、それを気にかけてくれる素振りすら見せない。
この人は本当に、もう自分に対して一片の愛着も無いのだと、泉果はそこでようやく理解した。
――いや、正確には、とうの昔にわかっていたのに目を逸らし続けてきた事実を、認めないわけにはいかなくなった。
盈月は婚約前に、王城に招かれた泉果と琴彌を並べて座らせ、はっきりと宣言していた。
『俺は婚姻を義務としか考えていない。愛だの恋だの求められても無駄だから、それが我慢ならないのなら、今のうちに辞退したほうがいい。あんたらなら、引く手あまただろう』
その言葉を聞いた泉果は、あ然とし、そして腹を立てた。
いくら王族といえど、高位貴族の後ろ盾が無ければ何ひとつ立ち行かないくせに、何という言い草か。しかも彼の父王のおぼえめでたき、国一の名門である弓庭後家の娘に向かって。
政略結婚であることくらい、言われなくとも承知していた。
ただ……虎の一族の中でも盈月は、際立って容姿に優れて逞しく、地位的にも申し分ないから、彼の妻になることを喜ばしく思っていたのだ。
なのに予防線を張るように、婚約前から拒否されて、泉果の誇りは著しく傷ついた。
――あのとき素直に、「あなたのような失礼な男に、嫁いでたまるものですか」と、言ってやればよかった。のちに何度、そう思ったことか。
しかし九聶伯爵家の琴彌が、何のためらいも見せずに、
「わたくしは、かまいません。どのみち政略結婚の駒として扱われるならば、わたくしは、あなた様の子を授かりたい」
そう言って、まっすぐ顔を上げて微笑む姿が、氷花のように美しかった。
勝たねばならぬ相手に対し、そんなふうに思ってしまったことが悔しくて、いずれ王の正妃になれるであろう地位を自分から捨てるのも惜しくなり、「わたくしもです!」と答えてしまった。
あのとき、別の選択をしていたら。
「生涯あなたを誠実に愛し続けます」と言ってくれる相手を選んでいたら。
そうしたら、もっと幸せな結婚生活を送れていただろうに。
「……ひどい」
意図せず、言葉が口からこぼれた。
そうして、自分でも止められなくなった。
「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい! わたくしはあなたの正妃よ、どうしてそんなに冷酷になれるの!? 一度も夫として愛してくれなかったくせに、せめて王として正妃を守ろうとすら、思ってくれないの!?
あなたにもっと思いやりがあれば、わたくしだって、こんな女にならずに済んだ! 琴彌が死んだのはあなたのせいよ、妻を守れなかった情けなさを、わたくしで晴らさないで!」
息切れするほど叫ぶうち、涙があふれて、頬を伝った。
こんな男の妻になど、ならなければよかった。
彼の言う通り、ほかにいくらでも良い嫁ぎ先はあったのに。
弓庭後家がこの男を支えたために、増長させ、恩を仇で返されたのだ。そう思うと口惜しくてならない。
床に頽れて泣く泉果の前に、盈月が膝をついた。
この期に及んで、ようやく情けの気持ちが湧いたのだろうか。
鼻をすすりながら夫を見つめた途端、心臓が凍りつくかと思った。
盈月は笑っている。
子供のように無邪気に、本当に愉快でならないという顔で。
「もう、泉果ちゃん。僕が『これから訊くことに、正直に答えてね』とお願いしたこと、もう忘れてしまったの? 僕はまだ、きみになーんにも訊いてないよ。それなのに、なぜひとりで喋ってるの? 大きい独り言? 泉果ちゃんて面白ーい」
「陛、下……」
何ひとつ言葉が届いていない。
言葉は黙殺され、嘆きには侮蔑を返される。
気づけば躰がガタガタ震えていて、盈月はやはり笑いながら、「そんな下着姿でウロウロするからだよ」と、衝立に掛けられていたガウンを羽織らせてくれた。
それでも震える泉果を見て、「あのね」と、幾分優しい口調で言った。
「僕が未熟で、良い夫でも父でもなかったことは、心から反省しているよ。だから泉果ちゃんがちっとも王妃の役割を果たさず実家で遊び暮らしていても、三人目の妃は娶らなかった。僕なりのけじめだからだ。
でも、そろそろ泉果ちゃんにも、けじめをつけてもらわないとね。もうみんな、新たな段階に進むべきときだ」
「けじめ……って」
「じゃあ、話しやすくなるように、僕が入手済みの情報を先に教えよう」
そう言うと盈月は、泉果を椅子に座らせて、自分は窓際に立った。そうして腕組しながら、淡々と語った。
まず、医師のドーソンを通じて、彼の師にあたるレンデル医師がのこした診察記録等を押収したこと。
レンデルは、ある時期から急に羽振りが良くなったと噂になっていた。それは琴彌が双子を産んだ前後くらいだったこと。
彼は泉果の鼻の炎症を抑える薬を作っていたが、その処方は今、ドーソンが所有していること。
その薬には、泉果のためだけに調香された香水が、練り込まれていること。
レンデルという名に、泉果は心臓が口から飛び出すかと思った。
彼はすでに亡くなっているが、正妃と第二妃の主治医だった男だ。
泉果の動揺に気づいていないはずはないが、盈月は話を続けた。
レンデルが、不眠と吐き気を誘発する薬を内密に作っていたこと。
その頃から琴彌が、不眠や吐き気に悩まされるようになっていたこと。
その治療のためにレンデルが処方した丸薬には、飲みやすくするため、花の香りの蜜が練り込まれていたこと。
その香りの原料には、なぜか、泉果しか持っていないはずの香水も含まれていたこと。
「まさか! そんなはずは」
自分の薬の調合のため、泉果は自分だけの特別な香水を、レンデルに渡していた。
だがその香水を、琴彌の丸薬に使用したなんて、聞いていない。
なぜそんなことを。しかも記録まで残して。
冷や汗を流す泉果のそばに、「弟子のドーソンの考察によるとね」と話しながら、盈月が歩み寄ってきた。
「レンデルは、弓庭後家から口封じされることを、恐れていたのではないかと。正妃の香水を丸薬に用いて、記録も残すことで、いざというとき、きみたちがレンデルだけに責任を押しつけて逃れることが、できないようにしたのではないか――。
さすが、きみたちに消されかけた張本人は、実感がこもってるよねぇ」
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