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第13章 温泉と薬草園
まっすぐな怒りと、当たり前のこと
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彼女は言った。
――ええ。もちろん、『薬湯勝負』の顛末については知っているわ。街中がその噂でもちきりだったもの。
まあ! コーネルは御形さんに弟子入りしていたの!? 知らなかったわ……おじ様から以前、医師の学校に入ったというお話を伺っていたし。
あら、しばらくおうちに帰っていないですって? それはいけないわコーネル。おじ様はあなたを男手ひとつで育ててくださったのよ、何であろうときちんと報告すべきだと思うわ。
――そうだったの……御形さんも、おつらい立場だったのね。世間体もあるし、奥様を守るためでもあったのね。お気持ち、よくわかるわ。
ええ、わかるわ。誰だって御形さんのお立場になれば、同じことをするでしょう。
――コーネルったら……そんなに厳しいことを言っては駄目よ。御形さんには大きな御恩があるのでしょう? それに薬師を志すのなら、弱い立場の人の気持ちに寄り添える優しさが必要なのではなくて?
――そうよ。そもそも元凶はウォルドグレイブ伯爵の身勝手な行動だとわたくしは思うわ。
エルバータの元皇族が、王子殿下たちのご威光を笠に着て、醍牙で商売をするだなんて。本来ならば城の一室で謹慎して過ごすのが道理ではないかしら。お躰が丈夫でないというのが、殿下方の同情を買うための偽りでないのなら。
――コーネル……あなたは優しい人ね。でもわたくしはそうは思わないわ。御形さんは被害者よ。
だってウォルドグレイブ伯爵の薬舗が御形さんの薬舗に打撃を与えていなければ、御形さんも、そこまで追いつめられなかったはず。奥さんのことがあろうと、もっと賢明な判断ができたはずよ。そうは思わない?
――そうよ、その通りよ。ウォルドグレイブ伯爵が王都でこれみよがしに商売をして、薬湯を寄付してみたり、あからさまな売名行為をしたりしなければ、すべて今まで通り、上手く行っていたのよ。
皓月殿下だってきっと、ご自分が王都に戻れぬあいだに他国の者がのさばっていると感じて、焦ってしまったのだわ。皓月殿下も被害者なのよ。
――すべての人が御形さんを責めても、あなただけは彼を理解してあげなければ。恩返しをすると誓ったのでしょう?
地位も名声も失って、御形さんは今が一番つらく苦しいはず。誰もが背を向けたときに支えてあげるのが、真の思いやりではなくて?
――そうね……。
どうすれば御形さんを助けられるかしら……。
――そうだわ。青月殿下のご領地のひとつである碧雲町に、温泉が湧いたのですって。例によってウォルドグレイブ伯爵がそれを自分の商売と売名に利用して、療養施設や薬舗の支店をつくる計画があるそうなのよ。ご存知?
なんでも傷病兵の方たちを何名か招いて、意見を聞くとか。
――ええ、まあ……これでもまだ、あの方たちに関する情報は入ってくる立場なの。わたくし自身はともかく、お父様たちは諦めていないようよ。
いいえ、わたくしはもういいの。ほかの方に向いている恋ごころを、強引にこちらに向かせようなんて、無理な話でしょう? そんなことをしても愛されることはないわ。むなしいだけ。
――けれど、怪しいとは思わない?
ウォルドグレイブ伯爵は、やることなすこと上手く行き過ぎよ。だってこう言ってはなんだけれど、エルバータの元皇族とはいえ、帝都育ちではないのよ。辺鄙な領地の貧しい領主だったとか。
それなのに、天才的な薬草の処方や商売について、どこで学べると言うの? 王女殿下の商品開発を手伝ったというけれど、田舎育ちで、エルバータの最先端のセンスなど磨ける?
――怪しいわ。きっと不正があるはずよ。
コーネル。その療養施設とやらへ行ってみたら? ウォルドグレイブ伯爵の不正を調べるの。
伯爵の不正を暴ければ、これまで彼を褒め称えてきた民の心は一気に冷める。むしろ反動で、伯爵を責め、罵るでしょう。御形さんがそうされたようにね。
――伯爵の評判が落ちれば、御形氏が盛り返す機会が必ず訪れるわ。『やはり正しいのは御形部長だった』と、皆が彼を恋しがるときが来る。
その機会をつくってあげることこそ、最大の恩返しではなくて?
――どうやって、って……あなたは薬師見習いなのだから、その立場を使えばいいのよ。
――不正など無いかも?
いいえコーネル。あるわ。必ずあるのよ。
とにかく潜り込めばいい。懐の内に入れば、どうにでもなる。
……わかるわよね?
⁂ ⁂ ⁂
消え入りたい。
穴があったら入りたい。
子猫のまっすぐな怒りと、清澄な泉のようなウォルドグレイブ伯爵の視線が、コーネルの胸に深く突き刺さって、麻痺していた羞恥心を呼び起こした。
恥ずかしさのあまり涙がにじむ。
彼女の提案に乗って、碧雲町まで来た。
本当はコーネルも心の隅で、ウォルドグレイブ伯爵にものすごく腹を立てていたからだ。
師匠は悪くないと思いたくて。
師匠を庇う理由が欲しくて。
これまでの安穏とした弟子生活を取り戻したくて。
誰かを悪者に仕立てても、師の過ちが消えるわけでは無いのに。
「……ぼくは……自分が情けない、です……」
ようやくそれだけ、絞り出すように言った。
ウォルドグレイブ伯爵は、穏やかに言葉の続きを待ってくれている。
こんな綺麗な瞳の持ち主を、汚物まみれの自分を助けてくれた唯一の人を。
勝手な憶測だけで悪者にしていた自分が心底恥ずかしいと、コーネルは心から悔いた。
子猫の言ったことも、すべて正しい。
自分が師から聞いた言葉は、言いわけや他者への責任転嫁ばかりで、被害に遭った患者や、ウォルドグレイブ伯爵に対する良心の呵責から出た言葉ではなかった。
そして自分も、師と同じ理屈で動こうとしていたのだと、痛いほど気づかされた。
子供すら道理をわきまえて、傷ついた人たちのために怒っているというのに。
「薬草を悪用する人を許せない」というウォルドグレイブ伯爵の言葉を聞くまで、そんな当たり前のことすら見失っていた。
「……ぼくは……」
コーネルは鼻をすすって、今度はつつみ隠さずに、ここに来た本当の経緯を明かした。
――ええ。もちろん、『薬湯勝負』の顛末については知っているわ。街中がその噂でもちきりだったもの。
まあ! コーネルは御形さんに弟子入りしていたの!? 知らなかったわ……おじ様から以前、医師の学校に入ったというお話を伺っていたし。
あら、しばらくおうちに帰っていないですって? それはいけないわコーネル。おじ様はあなたを男手ひとつで育ててくださったのよ、何であろうときちんと報告すべきだと思うわ。
――そうだったの……御形さんも、おつらい立場だったのね。世間体もあるし、奥様を守るためでもあったのね。お気持ち、よくわかるわ。
ええ、わかるわ。誰だって御形さんのお立場になれば、同じことをするでしょう。
――コーネルったら……そんなに厳しいことを言っては駄目よ。御形さんには大きな御恩があるのでしょう? それに薬師を志すのなら、弱い立場の人の気持ちに寄り添える優しさが必要なのではなくて?
――そうよ。そもそも元凶はウォルドグレイブ伯爵の身勝手な行動だとわたくしは思うわ。
エルバータの元皇族が、王子殿下たちのご威光を笠に着て、醍牙で商売をするだなんて。本来ならば城の一室で謹慎して過ごすのが道理ではないかしら。お躰が丈夫でないというのが、殿下方の同情を買うための偽りでないのなら。
――コーネル……あなたは優しい人ね。でもわたくしはそうは思わないわ。御形さんは被害者よ。
だってウォルドグレイブ伯爵の薬舗が御形さんの薬舗に打撃を与えていなければ、御形さんも、そこまで追いつめられなかったはず。奥さんのことがあろうと、もっと賢明な判断ができたはずよ。そうは思わない?
――そうよ、その通りよ。ウォルドグレイブ伯爵が王都でこれみよがしに商売をして、薬湯を寄付してみたり、あからさまな売名行為をしたりしなければ、すべて今まで通り、上手く行っていたのよ。
皓月殿下だってきっと、ご自分が王都に戻れぬあいだに他国の者がのさばっていると感じて、焦ってしまったのだわ。皓月殿下も被害者なのよ。
――すべての人が御形さんを責めても、あなただけは彼を理解してあげなければ。恩返しをすると誓ったのでしょう?
地位も名声も失って、御形さんは今が一番つらく苦しいはず。誰もが背を向けたときに支えてあげるのが、真の思いやりではなくて?
――そうね……。
どうすれば御形さんを助けられるかしら……。
――そうだわ。青月殿下のご領地のひとつである碧雲町に、温泉が湧いたのですって。例によってウォルドグレイブ伯爵がそれを自分の商売と売名に利用して、療養施設や薬舗の支店をつくる計画があるそうなのよ。ご存知?
なんでも傷病兵の方たちを何名か招いて、意見を聞くとか。
――ええ、まあ……これでもまだ、あの方たちに関する情報は入ってくる立場なの。わたくし自身はともかく、お父様たちは諦めていないようよ。
いいえ、わたくしはもういいの。ほかの方に向いている恋ごころを、強引にこちらに向かせようなんて、無理な話でしょう? そんなことをしても愛されることはないわ。むなしいだけ。
――けれど、怪しいとは思わない?
ウォルドグレイブ伯爵は、やることなすこと上手く行き過ぎよ。だってこう言ってはなんだけれど、エルバータの元皇族とはいえ、帝都育ちではないのよ。辺鄙な領地の貧しい領主だったとか。
それなのに、天才的な薬草の処方や商売について、どこで学べると言うの? 王女殿下の商品開発を手伝ったというけれど、田舎育ちで、エルバータの最先端のセンスなど磨ける?
――怪しいわ。きっと不正があるはずよ。
コーネル。その療養施設とやらへ行ってみたら? ウォルドグレイブ伯爵の不正を調べるの。
伯爵の不正を暴ければ、これまで彼を褒め称えてきた民の心は一気に冷める。むしろ反動で、伯爵を責め、罵るでしょう。御形さんがそうされたようにね。
――伯爵の評判が落ちれば、御形氏が盛り返す機会が必ず訪れるわ。『やはり正しいのは御形部長だった』と、皆が彼を恋しがるときが来る。
その機会をつくってあげることこそ、最大の恩返しではなくて?
――どうやって、って……あなたは薬師見習いなのだから、その立場を使えばいいのよ。
――不正など無いかも?
いいえコーネル。あるわ。必ずあるのよ。
とにかく潜り込めばいい。懐の内に入れば、どうにでもなる。
……わかるわよね?
⁂ ⁂ ⁂
消え入りたい。
穴があったら入りたい。
子猫のまっすぐな怒りと、清澄な泉のようなウォルドグレイブ伯爵の視線が、コーネルの胸に深く突き刺さって、麻痺していた羞恥心を呼び起こした。
恥ずかしさのあまり涙がにじむ。
彼女の提案に乗って、碧雲町まで来た。
本当はコーネルも心の隅で、ウォルドグレイブ伯爵にものすごく腹を立てていたからだ。
師匠は悪くないと思いたくて。
師匠を庇う理由が欲しくて。
これまでの安穏とした弟子生活を取り戻したくて。
誰かを悪者に仕立てても、師の過ちが消えるわけでは無いのに。
「……ぼくは……自分が情けない、です……」
ようやくそれだけ、絞り出すように言った。
ウォルドグレイブ伯爵は、穏やかに言葉の続きを待ってくれている。
こんな綺麗な瞳の持ち主を、汚物まみれの自分を助けてくれた唯一の人を。
勝手な憶測だけで悪者にしていた自分が心底恥ずかしいと、コーネルは心から悔いた。
子猫の言ったことも、すべて正しい。
自分が師から聞いた言葉は、言いわけや他者への責任転嫁ばかりで、被害に遭った患者や、ウォルドグレイブ伯爵に対する良心の呵責から出た言葉ではなかった。
そして自分も、師と同じ理屈で動こうとしていたのだと、痛いほど気づかされた。
子供すら道理をわきまえて、傷ついた人たちのために怒っているというのに。
「薬草を悪用する人を許せない」というウォルドグレイブ伯爵の言葉を聞くまで、そんな当たり前のことすら見失っていた。
「……ぼくは……」
コーネルは鼻をすすって、今度はつつみ隠さずに、ここに来た本当の経緯を明かした。
応援ありがとうございます!
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