上 下
84 / 96
第9章 新たな季節

魔法を妨げるもの

しおりを挟む

 久しぶりに訪れた魔素研究所は、建物を取り囲む雑木林の緑が別世界のように増えていて、小鳥が歌い、色とりどりの蝶が舞い、ハルゼミが鳴いていた。
 いつものようにクレールの部屋に通されると、開け放した窓から清澄な風が通り抜けていき、うっとりするほど心地いい。

「今日も、ちじゅかで、落ちちゅく、いいところでちゅね」
「そうだな、静かで落ち着くな。アイレンベルクがやかましいから、余計にそう感じる」

 長椅子に並んで座るレオンハルトが、「そうだ」とユーチアを見た。

「静かなのが好きなら、離宮を建てるか?」
「へ? 離宮……?」
「ああ。アイレンベルクの森のほうに、ユーチア用の離宮を」
「あわわ。え、遠慮ちまちゅ! 今の僕の部屋でも充分、ちじゅかでちゅからっ!」
「そうか? では、建てたくなったら言うといい」

 とんでもなく高額なお買い物は阻止できたようで、ユーチアは「ふぃー」と息を吐き出し、おでこに浮かんだ汗を拭いた。桁外れなお金持ちの金銭感覚は心臓に悪い。
 机を挟んで向かい合う椅子に腰かけ、そんな二人の様子を見ていたクレールが、「夫婦になって、ますます仲良しですね」と笑った。
 ユーチアは、夫婦という言葉にピクリと反応する。

 そう。今までと特に生活が変わったわけではないのでつい失念しがちだが、ユーチアとレオンハルトはもう、正式な夫婦なのだ。
 逆に言うと、正式な夫婦になったのに、何も変わっていない。
 その理由の大部分は、ユーチアが幼児であることだろう。

 実は……婚姻届を出したのを機に、レオンハルトが帰城後、城の使用人全員に、ユーチアはユーシア・クリプシナ本人で、成人済みであると、改めて知らせたのだが。
 反応の大半が「どういう冗談?」「ユーチア饅頭を全国区にするための戦略?」となどというもので、信じているのはごく一部のみだ。
 ちなみにユーチアの知らないところで、ユーチア饅頭なるものが街の名物になっているらしいのだが、それはともかく。

 幼児のままでは、城主の妻としての務めを担うにも限界がある。
 それに何より……夫婦の営みも。
 妻がいるのに、そっち方面ではずっと健全な夜を強いられているレオンハルトを思うと、ユーチアは申しわけない気持ちでいっぱいになるのだ。

「夫婦とは」

 ひっそり呟き小さな肩を落としたけれど、クレールはそれには気づかなかったようで、穏やかに窓外の景色へと目をやった。 

「この静かな環境を、私もとても気に入っているので、ユーチア様が褒めてくださって嬉しいです」

 が、そう言い終えたと同時、鶏のものらしき、けたたましい鳴き声が響き渡った。
 鳥たちが一斉に飛び立ち、羽根が舞い散り、外で待機しているフランツら騎士たちの大声が、静寂を吹き飛ばす。

「あーほらもう、動くからー。動いたら危ないって言ったじゃん」
「フランツ副団長っ。その火勢じゃ動いても動かなくても危ないです! 犯人が焦げる! 消して! 消してー!」
「助けてレオンハルト様ーっ!」

 束の間、室内に沈黙が降りた。
「はっ!」と我に返ったユーチアが、「何ごと!?」と椅子から下りて立ち上がったが。 
 クレールは「さて」とにっこり笑った。

「無事、魔素具である絵本を取り戻されたのですよね。重ねて、おめでとうございます」
「あ、ありがとおごじゃいま……って、あれ? あれっ?」
「ありがとう」

 レオンハルトが微笑んで礼を言うと、クレールは「本日は、その絵本の件でお越しくださったのですよね」とさらに笑みを深める。

「あ、あの、あのっ」

 ユーチアは二人を交互に見ながら、窓を指差した。

「たちゅけて、レオちゃまー! って、言ってまちぇんでちたか!?」
「大丈夫だ。またフランツが遊んでいるんだろう。仕方のない奴だ」
「あちょんで……ちょ、ちょうなのでちゅか? あ、ちょういえば、鶏が鳴いてまちたけども。鶏小屋、ありまちたっけ?」

 クレールに確かめると、彼は微笑したままうなずいた。

「野良の鶏かもしれません」
「野良! 野良の鶏がいるのでちゅか」
「ユーチア様。絵本を手に入れたのに、元の姿に戻れないそうですね?」
「え、あ、ちょうなのでちゅ!」

 急な話題の変化に戸惑ったが、そうだった。その話をするはずだったのだ。
 ブンブンうなずくとレオンハルトに持ち上げられて、再度椅子に座らされた。「あ、ありがとおごじゃいまちゅ」と頭を下げると、レオンハルトも「どういたしまして」と軽く頭を下げてくる。
 ……何か忘れた気がするが、まあいい。今はクレールへの相談が先だ。

「魔ちょ具があれば、元に戻れると思っていたのでちゅけども……この通り、ちんまり体型のままでちゅ。何か、ちゅかい方のコチュとか、あるのでちょうか」
「使い方のコツ……うーん。少なくとも最初の魔法の発現時は、命の危機がきっかけになったと思いますが、それ以降は……ユーチア様の魔法に呪文は不要で、変わりたいと願う気持ちがカギになっていたと思われます」
「僕、絵本を持って、『ユーチアに戻れー』と念じてみたりちたのでちゅけど」
「ダメでしたか?」
「はい……」
「『ユーチア』に戻れと念じたから、ユーチアになってるんじゃないのか?」

 レオンハルトの指摘に、ユーチアは「がーん」と呟き彼を見た。

「ちょ、ちょうかも……! どうちまちょう! ちょれが原因なら、僕、ユーチアとちか言えないから、もう元に戻れまちぇん!」
「いや、すまん冗談だ。そう気に病むな」
「そうですよユーチア様。呪文不要ならば言葉は関係ないはずです。ユーチア様の場合は『変わりたい』という気持ちが呪文代わりなのですから」
「で、でも」

 ユーチアは、ちょっと涙目になって二人を見た。

「本当に、変わりたいって、思っているのでちゅ。だって夫婦になっても、レオちゃまのお手ちゅだい、なんにもできていまちぇん。このままだと僕、クリプチナ家にいた頃とおんなじ、お荷もちゅの役立たじゅでちゅ……」
「ユーチア……俺も、誰も、きみをそんなふうに思うはずがないだろう?」
「うぅ。ちょうなのでちゅけど……」

 幼児のままだからといって冷たく接するような人ではないと、ユーチアもわかっている。レオンハルトは信じられないくらい寛大で、愛情も懐も深い人だ。
 でも何もできない自分を思うたび、クリプシナ家で投げつけられた言葉が、『あれが真実だ』とグリグリ心を抉ってくる。
 長年ボロボロだった自己評価を自己肯定に押し上げるのは、そう簡単なことではないと、ユーチアは痛感していた。

 レオンハルトにそっと頭を撫でられて、幼児の緩い涙腺が涙をこぼさぬよう頑張っていると、クレールが「……ふむ」と顎に手を当てた。

「もしかすると、問題はそこかもしれませんね」
「ちょこ?」
「そこ?」

 レオンハルトと同時に訊き返すと、クレールが「そこ」とユーチアを見つめた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

えっ、これってバッドエンドですか!?

黄昏くれの
恋愛
ここはプラッツェン王立学園。 卒業パーティというめでたい日に突然王子による婚約破棄が宣言される。 あれ、なんだかこれ見覚えがあるような。もしかしてオレ、乙女ゲームの攻略対象の一人になってる!? しかし悪役令嬢も後ろで庇われている少女もなんだが様子がおかしくて・・・? よくある転生、婚約破棄モノ、単発です。

さよなら、英雄になった旦那様~ただ祈るだけの役立たずの妻のはずでしたが…~

遠雷
恋愛
「フローラ、すまない……。エミリーは戦地でずっと俺を支えてくれたんだ。俺はそんな彼女を愛してしまった......」 戦地から戻り、聖騎士として英雄になった夫エリオットから、帰還早々に妻であるフローラに突き付けられた離縁状。エリオットの傍らには、可憐な容姿の女性が立っている。 周囲の者達も一様に、エリオットと共に数多の死地を抜け聖女と呼ばれるようになった女性エミリーを称え、安全な王都に暮らし日々祈るばかりだったフローラを庇う者はごく僅かだった。 「……わかりました、旦那様」 反論も無く粛々と離縁を受け入れ、フローラは王都から姿を消した。 その日を境に、エリオットの周囲では異変が起こり始める。

監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されたやり直し令嬢は立派な魔女を目指します!

古森きり
ファンタジー
幼くして隣国に嫁いだ侯爵令嬢、ディーヴィア・ルージェー。 24時間片時も一人きりにならない隣国の王家文化に疲れ果て、その挙句に「王家の財産を私情で使い果たした」と濡れ衣を賭けられ処刑されてしまった。 しかし処刑の直後、ディーヴィアにやり直す機会を与えるという魔女の声。 目を開けると隣国に嫁ぐ五年前――7歳の頃の姿に若返っていた。 あんな生活二度と嫌! 私は立派な魔女になります! カクヨム、小説家になろう、アルファポリス、ベリカフェに掲載しています。

見捨てられたのは私

梅雨の人
恋愛
急に振り出した雨の中、目の前のお二人は急ぎ足でこちらを振り返ることもなくどんどん私から離れていきます。 ただ三人で、いいえ、二人と一人で歩いていただけでございました。 ぽつぽつと振り出した雨は勢いを増してきましたのに、あなたの妻である私は一人取り残されてもそこからしばらく動くことができないのはどうしてなのでしょうか。いつものこと、いつものことなのに、いつまでたっても惨めで悲しくなるのです。 何度悲しい思いをしても、それでもあなたをお慕いしてまいりましたが、さすがにもうあきらめようかと思っております。

貴方の子どもじゃありません

初瀬 叶
恋愛
あぁ……どうしてこんなことになってしまったんだろう。 私は眠っている男性を起こさない様に、そっと寝台を降りた。 私が着ていたお仕着せは、乱暴に脱がされたせいでボタンは千切れ、エプロンも破れていた。 私は仕方なくそのお仕着せに袖を通すと、止められなくなったシャツの前を握りしめる様にした。 そして、部屋の扉にそっと手を掛ける。 ドアノブは回る。いつの間にか 鍵は開いていたみたいだ。 私は最後に後ろを振り返った。そこには裸で眠っている男性の胸が上下している事が確認出来る。深い眠りについている様だ。 外はまだ夜中。月明かりだけが差し込むこの部屋は薄暗い。男性の顔ははっきりとは確認出来なかった。 ※ 私の頭の中の異世界のお話です ※相変わらずのゆるゆるふわふわ設定です。ご了承下さい ※直接的な性描写等はありませんが、その行為を匂わせる言葉を使う場合があります。苦手な方はそっと閉じて下さると、自衛になるかと思います ※誤字脱字がちりばめられている可能性を否定出来ません。広い心で読んでいただけるとありがたいです

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

転生悪役令嬢の考察。

saito
恋愛
転生悪役令嬢とは何なのかを考える転生悪役令嬢。 ご感想頂けるととても励みになります。

【完結】数十分後に婚約破棄&冤罪を食らうっぽいので、野次馬と手を組んでみた

月白ヤトヒコ
ファンタジー
「レシウス伯爵令嬢ディアンヌ! 今ここで、貴様との婚約を破棄するっ!?」  高らかに宣言する声が、辺りに響き渡った。  この婚約破棄は数十分前に知ったこと。  きっと、『衆人環視の前で婚約破棄する俺、かっこいい!』とでも思っているんでしょうね。キモっ! 「婚約破棄、了承致しました。つきましては、理由をお伺いしても?」  だからわたくしは、すぐそこで知り合った野次馬と手を組むことにした。 「ふっ、知れたこと! 貴様は、わたしの愛するこの可憐な」 「よっ、まさかの自分からの不貞の告白!」 「憎いねこの色男!」  ドヤ顔して、なんぞ花畑なことを言い掛けた言葉が、飛んで来た核心的な野次に遮られる。 「婚約者を蔑ろにして育てた不誠実な真実の愛!」 「女泣かせたぁこのことだね!」 「そして、婚約者がいる男に擦り寄るか弱い女!」 「か弱いだぁ? 図太ぇ神経した厚顔女の間違いじゃぁねぇのかい!」  さあ、存分に野次ってもらうから覚悟して頂きますわ。 設定はふわっと。 『腐ったお姉様。伏してお願い奉りやがるから、是非とも助けろくださいっ!?』と、ちょっと繋りあり。『腐ったお姉様~』を読んでなくても大丈夫です。

処理中です...