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第一章『旅立ちの朝』
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メスのゴグラが横からイーシャにつかみかかる。拳を尻尾で止められた個体だ。イーシャの動きを抑え、残りの二頭と共に囲って倒す作戦だろう。
当然、目論見通りにはさせない。メスの足元に蒼炎を起こして動きを止め、肩から突撃し強打する。そのまま体勢を崩したゴグラに後肢で蹴りを入れた。
視線を前に戻す。すると一度突き飛ばしたオスと、炎に焼かれてダメージを負ったメスの二頭が攻撃に入っている。
(このままでは躱しきれんか)
イーシャの巨躯はゴグラのそれを超える。的が大きい分、反応が遅れれば攻撃を躱すのは難しい。しかし、ならば的を小さくすればいいのだ。
イーシャは白い身体から生じた白い霧に包まれ、二頭のゴグラの攻撃が空を切る。人間の姿を取ったイーシャは身を屈め拳を躱していた。
霧の中に狼の姿がないことに困惑するゴグラたちの、その隙をイーシャは逃さない。
人間の姿で身を屈めたまま、左前のダメージを負ったメスに向かって駆ける。メスがその姿を捉えたときには、もう懐に入られていた。
「手荒くいくぞ」
距離を詰め、右脚で真上に向かって蹴り抜く。三メートル級の巨体が不意の一撃を受けわずかに宙に浮いた。そして、ゴグラの真下で再びイーシャの身体が霧に包まれる。中から現れた巨大な白狼は浮いたゴグラの身体をさらに空へと吹き飛ばした。
イーシャも追うように飛ぶ。浮いたメスの上を取ると、後肢の黒い模様が紫に光を帯びた。空中であれば隙のある一撃の最中も狙われる心配はない。
既にダメージを負っているメスを再び蒼炎が襲う。浮かされたまま抵抗できず、その全身は灼熱に包まれた。
そのままメスの身体が地に転がる。まだ息はあったが時間の問題だろう。少なくとも二度の直撃を受けた身体では戦線には復帰できない。
(まずは一匹)
イーシャは着地と同時に向かって来ているオスを正面に捉える。
もう一頭のメスは一頭がやられたことに動揺しているようだった。複数で挑んでもダメなのではないか、浮かんだ疑念が戦意を削いでいた。
オスにも疑念が浮かんでいるのは間違いない。が、こちらはそれが焦りとして出ていた。勢いはあるがキレがない。ならばまずはこちらから処理する。
オスが横殴りに攻撃する。この攻撃から尻尾での殴打に繋げる連撃は先のボス猿との戦闘で見た。故にイーシャはゴグラを飛び越えるようにして躱す。それが予想外だったのか、ゴグラの動きは目に見えて狼狽えた。
空中で身を翻しながら、イーシャの後肢の模様は既に光を帯び魔法の発動に移っている。精彩を欠いた動きに後れを取ることはしない、隙を見せたのなら一気に勝負を決めにいく。
着地と同時に口元に宿る蒼炎が膨れ上がる。振り返ったゴグラは危機を察したが、回避に移るにはもう遅い。放たれた炎がその身のほとんどを飲み込んだ。青に包まれたゴグラは膝をつき苦悶の声をあげた。
(とどめだ――)
黒の模様が光ると同時にオスの足元から蒼炎が二度吹き上がる。これでオスも戦闘続行は不可能だろう。
「さて、最後は……」
残る一頭へ振り返る。
奴は、イーシャに背を向けていた。空間の出口へとまっすぐ走っている。仲間の敗北で自身の死を悟ったのだろう。逃走だ。
「悪いが、見つけたからには一匹も逃してやるつもりは――っ!!」
イーシャは目を疑った。逃げるメスを追う視線の先に、この場にいるはずのない存在を捉えたのだ。メスの向かう出口、そこには金髪の人間の子供がいた。
(なぜここにいる、クローヴィア!)
声がした。
暗い洞窟の中、わずかな光を頼りにまっすぐ駆け降りる。大猿はいなかった。道中の個体はすべてイーシャが倒したのだろう。それを裏付けるように、道の先で狼の遠吠えがこだました。
(大猿の声じゃない、イーシャだ――)
元より全力だった足がさらに加速する。大猿の死体、イーシャが倒したものだ、やはりこの先にいる。
しばらく行くと下りが緩やかになり、道を曲がった先にその空間があった。開けた部屋は高い天井に氷柱のように岩が垂れ下がり、白い狼と、こちらへ向かって走って来る大猿の姿。
「えっ」
目の前で大猿が立ち止まる。身長差は二倍以上、見上げるほどの巨体がすぐそこにいた。
「っ…………」
クローヴィアが大猿と対峙するのは三度目だ。一度目は被食者と捕食者として、二度目はただ襲われるだけではなかったとはいえ、やはりその関係は変わっていない。
しかし今回は違った。
大猿の様子がおかしい。自分よりもずっと小さなクローヴィアに対し、一歩踏み出すことを躊躇っている。それは警戒というよりも恐れに近い。明らかに落ち着きがなかった。
今なら逃げられるか。クローヴィアは大猿を見据えたまま一歩後ずさった。それがトリガーとなったのか、大猿は意を決したように拳を振り上げた。
がしかし、決断するには遅い。
巨大な白い狼が大猿を横から突き飛ばす。不意の一撃に大猿は体勢を崩し転がった。
「クローヴィア! どうやって……いやそれよりも、なぜここに」
白い狼、イーシャが叫ぶように問う。昼間のときよりもその口調は荒い。
「ごめんイーシャ! でも、急いで伝えないといけないことがあるんだ!」
イーシャはその答えにやや驚きつつ、一息吐き、クローヴィアに背を向けた。
「わかった。だがひとまずそこで待っていてくれ。まずはこいつを片付ける」
起き上がったゴグラは反対から逃げようと背を向けている。それを追うイーシャは、既に魔法の発動に入っていた。
口元に宿った蒼炎が燃え盛り、逃げる標的へ向け放たれる。まっすぐにその背を捉え敵の身を焦がした。
それでもゴグラの足は止まらなかった。痛みに速度を落としながらも、必死で生に縋り歩を進める。しかしイーシャも逃す気はない。追いつき前肢で押さえ込むと、至近距離から蒼炎を浴びせた。
メスのゴグラは足掻くように太い指で地面を抉ったが、やがて力尽きた。
瀕死だった個体も既に息はない。上位グループの壊滅、ハガの森を襲ったゴグラの群れはこれで崩壊したといっていいだろう。
まだ洞窟には先があった。そちらに大猿がいる可能性大いにある。が、まずはクローヴィアの話を聞かねばなるまい。
イーシャは振り返り――動きを止めた。
空間内に新たな存在が姿を見せた。クローヴィアではない。しかし、人間だ。
クローヴィアの視線の先にあの黒髪の魔導士リンネと、森の中で見た金髪に真紅の鎧の男がいた。その背後、岩陰に白い外套の男たちもいたが、前に出て来る気配はない。
「リンネ、彼が例の子かい?」
「ええ、そうだけど……」
リンネは紫の宝玉が嵌まった杖を構える。
「それよりも後ろの奴に気を付けたがいいんじゃない?」
「もちろんそうだけど、まずは彼の安全を確保するところからだ。間違っても戦いに巻き込んではいけない」
リンネは男の言葉に眉をひそめた。反論しないのは無駄だとわかっているからだ。自分たちのリーダー、フィレンスはそういう男だ。
「それで、初めての相手だけど、どの程度と見るかい?」
「ゴグラを狩れるんだから黄色以上は確定として、黄色上位から橙程度で見積もっておくのが無難そうだけど。戦闘痕から見て赤レベルはないでしょ」
「そうだね、僕もほとんど同意見だ。ならひとまず様子を見るプランで行こう」
フィレンスが一歩前に出た。左手に鎧と同じ真紅の盾と、右手にランスを装備している。
「君!」
フィレンスがクローヴィアに呼びかける。
「いいかい。慌てずに、ゆっくりこちらに来るんだ。僕たちが君を森の外まで連れて行ってあげよう」
そう言ってフィレンスも静かにクローヴィア向け歩を進める。走らないのは背後の巨大な狼を刺激しないためだろう。狼は現状、様子を窺うように動かずにいる。
クローヴィアはフィレンスの言葉に反し、身体を彼の方に向けたまま後ずさった。
フィレンスの目つきがやや鋭くなる。それはクローヴィアの反応がというより、クローヴィアの動きに背後の獣が反応を見せたのを警戒してだ。
狼もまた、静かに接近し始めていた。
場の空気が一気に緊迫する。
「大丈夫、落ち着いて。後ろの獣からは僕たちが守るから、安心してこちらへおいで」
「……違う」
少年の言葉に、フィレンスは彼の数メートル手前で足を止めた。怖がられているのはこちらだ、彼はようやくそう気づいたのだ。心当たりは、ないではない。
「ええと、もしかしたら僕の仲間が君にひどいことを言ったんじゃないかな。そうなら代わりに謝らせてほしい。そして二度と同じようなことを言わせないと約束しよう」
「それは……違う、そうじゃなくて」
「――?」
フィレンスはクローヴィアの真意を掴みかねていた。そのうちに、背後の狼はかなり距離を詰めている。ランスを持つ手に自然と力がこもる。
その動作でランスが立てたわずかな音に反応し、クローヴィアは咄嗟に両手を広げた。その動きに背後の狼も驚いたように足を止める。
「攻撃しないで!」
懇願するように叫ぶ。場の視線がクローヴィアに集まった。
「っ……慌てないで、心配しないでほしい。僕たちは君に危害を加えたりはしない」
「違う! イーシャに、イーシャに攻撃しないで!」
「イーシャ……?」
フィレンスの視線が少年の背後の狼に移る。狼は少年の後ろ十メートルほどで足を止めたまま、動き出す気配はない。
「それはもしかして、後ろの獣のことかな。だとしたらなぜだい、その獣は……」
危険だ、と言いかけて言葉に迷った。これ以上少年を取り乱させてはいけない。
「イーシャは人を襲ったりしない、僕を助けてくれたんだ!」
それはクローヴィアの本心からの叫びだった。例え獣だろうとも、クローヴィアの知るイーシャは人間の敵ではない。
「助けた……か」
フィレンスは視線を一周させ、再び狼に戻した。場にはゴグラの死体が転がっている。フィレンスは狼が不気味なほどに動く気配を見せないことに警戒しつつ、少年に努めて優しく声をかけた。
「確かに君は、その狼に命を助けられたのかもしれない。でもそれは偶然なんだ」
クローヴィアの口元がわずかに歪む。
「その狼とゴグラという猿は縄張りを争っていたんだ。だから狼は猿を倒した。君はその争いによって、結果的に助けられたに過ぎない。その狼が危険なことに変わりはないんだ。だから、こっちに来て、無事に森の外まで連れて行こう」
「違う、そうじゃなくて……」
少年は頑として譲らず、狼の前から動こうとしない。狼はその様子を静かに窺っていた。
フィレンスはそれ以上説得する言葉を持たなかった。さりとて助けないという選択肢はない。狼を刺激するかもしれないが、多少荒い手に出るか。
「もういいでしょう、フィレンス」
迷っているうちに口を開いたのはリンネだ。
「そいつには助けられる気がない、それでいいでしょう。ただでさえ穢れた身なのだから、無理に助ける必要はないわ」
クローヴィアの顔が強張る。距離があるため見えないが、またあの目を向けられているのか。大きく息を呑んだ。
「リンネ、それは――」
「撤回してもらおうか」
その瞬間、空気が硬直した。
クローヴィアを除く誰もが耳を疑った後、全員の視線が声の主へと向く。予想外の者が口を開いたことに、いや、口を開けたことに目を見張っていた。
声の主は沈黙を貫いていた白狼、イーシャだ。
「そこのお前だよ、黒髪の人間」
金色の瞳がまっすぐにリンネを見据える。
リンネは表情に不快感を露わにしていた。獣に声を掛けられる、彼女からすれば屈辱でしかないだろう。
「……獣風情が、私に何を撤回しろと?」
「決まっている、我が友への侮辱だ」
「はあ?」
イーシャは歩を進め、クローヴィアの真後ろに立つ。
「貴様らが私をどう思おうが勝手だ。そんなことはどうでも良い。だが、こいつのことを言うのなら話は別だ。我が友は穢れてなどいない、疾く撤回してもらおう」
クローヴィアはイーシャを見上げた。金の瞳がちらりとこちらを向く。
「勝手に友と呼んだが……気に障ったか?」
イーシャはクローヴィアにのみ聞こえるよう囁いた。クローヴィアは首を横に振る。自分を受け入れてくれたイーシャを自分もまた受け入れる、それがクローヴィアの選択だ。
「そうか、ならよかった」
イーシャは安心したように微笑んだ。
「おおよその事情は把握した。本当は口を開くつもりはなかったのだがな…………まあ、私を庇ってくれた礼とでも思ってくれ」
「そんなの……お礼をしなきゃいけないのは、こっちだよ」
「ふふ。ならそうだな、例の件を前向きに考えておいてくれ……さて」
イーシャは視線を前に戻す。鎧の男は武器を持つ手に力を込めた。奥の女は既に杖を構えている。
「まともにやり合わずに逃げた方が良いのだろうが、共に行く、ということで良いな?」
「うん」
クローヴィアは迷わず答える。
「よし。ではどうにかここを抜けるとしようか」
当然、目論見通りにはさせない。メスの足元に蒼炎を起こして動きを止め、肩から突撃し強打する。そのまま体勢を崩したゴグラに後肢で蹴りを入れた。
視線を前に戻す。すると一度突き飛ばしたオスと、炎に焼かれてダメージを負ったメスの二頭が攻撃に入っている。
(このままでは躱しきれんか)
イーシャの巨躯はゴグラのそれを超える。的が大きい分、反応が遅れれば攻撃を躱すのは難しい。しかし、ならば的を小さくすればいいのだ。
イーシャは白い身体から生じた白い霧に包まれ、二頭のゴグラの攻撃が空を切る。人間の姿を取ったイーシャは身を屈め拳を躱していた。
霧の中に狼の姿がないことに困惑するゴグラたちの、その隙をイーシャは逃さない。
人間の姿で身を屈めたまま、左前のダメージを負ったメスに向かって駆ける。メスがその姿を捉えたときには、もう懐に入られていた。
「手荒くいくぞ」
距離を詰め、右脚で真上に向かって蹴り抜く。三メートル級の巨体が不意の一撃を受けわずかに宙に浮いた。そして、ゴグラの真下で再びイーシャの身体が霧に包まれる。中から現れた巨大な白狼は浮いたゴグラの身体をさらに空へと吹き飛ばした。
イーシャも追うように飛ぶ。浮いたメスの上を取ると、後肢の黒い模様が紫に光を帯びた。空中であれば隙のある一撃の最中も狙われる心配はない。
既にダメージを負っているメスを再び蒼炎が襲う。浮かされたまま抵抗できず、その全身は灼熱に包まれた。
そのままメスの身体が地に転がる。まだ息はあったが時間の問題だろう。少なくとも二度の直撃を受けた身体では戦線には復帰できない。
(まずは一匹)
イーシャは着地と同時に向かって来ているオスを正面に捉える。
もう一頭のメスは一頭がやられたことに動揺しているようだった。複数で挑んでもダメなのではないか、浮かんだ疑念が戦意を削いでいた。
オスにも疑念が浮かんでいるのは間違いない。が、こちらはそれが焦りとして出ていた。勢いはあるがキレがない。ならばまずはこちらから処理する。
オスが横殴りに攻撃する。この攻撃から尻尾での殴打に繋げる連撃は先のボス猿との戦闘で見た。故にイーシャはゴグラを飛び越えるようにして躱す。それが予想外だったのか、ゴグラの動きは目に見えて狼狽えた。
空中で身を翻しながら、イーシャの後肢の模様は既に光を帯び魔法の発動に移っている。精彩を欠いた動きに後れを取ることはしない、隙を見せたのなら一気に勝負を決めにいく。
着地と同時に口元に宿る蒼炎が膨れ上がる。振り返ったゴグラは危機を察したが、回避に移るにはもう遅い。放たれた炎がその身のほとんどを飲み込んだ。青に包まれたゴグラは膝をつき苦悶の声をあげた。
(とどめだ――)
黒の模様が光ると同時にオスの足元から蒼炎が二度吹き上がる。これでオスも戦闘続行は不可能だろう。
「さて、最後は……」
残る一頭へ振り返る。
奴は、イーシャに背を向けていた。空間の出口へとまっすぐ走っている。仲間の敗北で自身の死を悟ったのだろう。逃走だ。
「悪いが、見つけたからには一匹も逃してやるつもりは――っ!!」
イーシャは目を疑った。逃げるメスを追う視線の先に、この場にいるはずのない存在を捉えたのだ。メスの向かう出口、そこには金髪の人間の子供がいた。
(なぜここにいる、クローヴィア!)
声がした。
暗い洞窟の中、わずかな光を頼りにまっすぐ駆け降りる。大猿はいなかった。道中の個体はすべてイーシャが倒したのだろう。それを裏付けるように、道の先で狼の遠吠えがこだました。
(大猿の声じゃない、イーシャだ――)
元より全力だった足がさらに加速する。大猿の死体、イーシャが倒したものだ、やはりこの先にいる。
しばらく行くと下りが緩やかになり、道を曲がった先にその空間があった。開けた部屋は高い天井に氷柱のように岩が垂れ下がり、白い狼と、こちらへ向かって走って来る大猿の姿。
「えっ」
目の前で大猿が立ち止まる。身長差は二倍以上、見上げるほどの巨体がすぐそこにいた。
「っ…………」
クローヴィアが大猿と対峙するのは三度目だ。一度目は被食者と捕食者として、二度目はただ襲われるだけではなかったとはいえ、やはりその関係は変わっていない。
しかし今回は違った。
大猿の様子がおかしい。自分よりもずっと小さなクローヴィアに対し、一歩踏み出すことを躊躇っている。それは警戒というよりも恐れに近い。明らかに落ち着きがなかった。
今なら逃げられるか。クローヴィアは大猿を見据えたまま一歩後ずさった。それがトリガーとなったのか、大猿は意を決したように拳を振り上げた。
がしかし、決断するには遅い。
巨大な白い狼が大猿を横から突き飛ばす。不意の一撃に大猿は体勢を崩し転がった。
「クローヴィア! どうやって……いやそれよりも、なぜここに」
白い狼、イーシャが叫ぶように問う。昼間のときよりもその口調は荒い。
「ごめんイーシャ! でも、急いで伝えないといけないことがあるんだ!」
イーシャはその答えにやや驚きつつ、一息吐き、クローヴィアに背を向けた。
「わかった。だがひとまずそこで待っていてくれ。まずはこいつを片付ける」
起き上がったゴグラは反対から逃げようと背を向けている。それを追うイーシャは、既に魔法の発動に入っていた。
口元に宿った蒼炎が燃え盛り、逃げる標的へ向け放たれる。まっすぐにその背を捉え敵の身を焦がした。
それでもゴグラの足は止まらなかった。痛みに速度を落としながらも、必死で生に縋り歩を進める。しかしイーシャも逃す気はない。追いつき前肢で押さえ込むと、至近距離から蒼炎を浴びせた。
メスのゴグラは足掻くように太い指で地面を抉ったが、やがて力尽きた。
瀕死だった個体も既に息はない。上位グループの壊滅、ハガの森を襲ったゴグラの群れはこれで崩壊したといっていいだろう。
まだ洞窟には先があった。そちらに大猿がいる可能性大いにある。が、まずはクローヴィアの話を聞かねばなるまい。
イーシャは振り返り――動きを止めた。
空間内に新たな存在が姿を見せた。クローヴィアではない。しかし、人間だ。
クローヴィアの視線の先にあの黒髪の魔導士リンネと、森の中で見た金髪に真紅の鎧の男がいた。その背後、岩陰に白い外套の男たちもいたが、前に出て来る気配はない。
「リンネ、彼が例の子かい?」
「ええ、そうだけど……」
リンネは紫の宝玉が嵌まった杖を構える。
「それよりも後ろの奴に気を付けたがいいんじゃない?」
「もちろんそうだけど、まずは彼の安全を確保するところからだ。間違っても戦いに巻き込んではいけない」
リンネは男の言葉に眉をひそめた。反論しないのは無駄だとわかっているからだ。自分たちのリーダー、フィレンスはそういう男だ。
「それで、初めての相手だけど、どの程度と見るかい?」
「ゴグラを狩れるんだから黄色以上は確定として、黄色上位から橙程度で見積もっておくのが無難そうだけど。戦闘痕から見て赤レベルはないでしょ」
「そうだね、僕もほとんど同意見だ。ならひとまず様子を見るプランで行こう」
フィレンスが一歩前に出た。左手に鎧と同じ真紅の盾と、右手にランスを装備している。
「君!」
フィレンスがクローヴィアに呼びかける。
「いいかい。慌てずに、ゆっくりこちらに来るんだ。僕たちが君を森の外まで連れて行ってあげよう」
そう言ってフィレンスも静かにクローヴィア向け歩を進める。走らないのは背後の巨大な狼を刺激しないためだろう。狼は現状、様子を窺うように動かずにいる。
クローヴィアはフィレンスの言葉に反し、身体を彼の方に向けたまま後ずさった。
フィレンスの目つきがやや鋭くなる。それはクローヴィアの反応がというより、クローヴィアの動きに背後の獣が反応を見せたのを警戒してだ。
狼もまた、静かに接近し始めていた。
場の空気が一気に緊迫する。
「大丈夫、落ち着いて。後ろの獣からは僕たちが守るから、安心してこちらへおいで」
「……違う」
少年の言葉に、フィレンスは彼の数メートル手前で足を止めた。怖がられているのはこちらだ、彼はようやくそう気づいたのだ。心当たりは、ないではない。
「ええと、もしかしたら僕の仲間が君にひどいことを言ったんじゃないかな。そうなら代わりに謝らせてほしい。そして二度と同じようなことを言わせないと約束しよう」
「それは……違う、そうじゃなくて」
「――?」
フィレンスはクローヴィアの真意を掴みかねていた。そのうちに、背後の狼はかなり距離を詰めている。ランスを持つ手に自然と力がこもる。
その動作でランスが立てたわずかな音に反応し、クローヴィアは咄嗟に両手を広げた。その動きに背後の狼も驚いたように足を止める。
「攻撃しないで!」
懇願するように叫ぶ。場の視線がクローヴィアに集まった。
「っ……慌てないで、心配しないでほしい。僕たちは君に危害を加えたりはしない」
「違う! イーシャに、イーシャに攻撃しないで!」
「イーシャ……?」
フィレンスの視線が少年の背後の狼に移る。狼は少年の後ろ十メートルほどで足を止めたまま、動き出す気配はない。
「それはもしかして、後ろの獣のことかな。だとしたらなぜだい、その獣は……」
危険だ、と言いかけて言葉に迷った。これ以上少年を取り乱させてはいけない。
「イーシャは人を襲ったりしない、僕を助けてくれたんだ!」
それはクローヴィアの本心からの叫びだった。例え獣だろうとも、クローヴィアの知るイーシャは人間の敵ではない。
「助けた……か」
フィレンスは視線を一周させ、再び狼に戻した。場にはゴグラの死体が転がっている。フィレンスは狼が不気味なほどに動く気配を見せないことに警戒しつつ、少年に努めて優しく声をかけた。
「確かに君は、その狼に命を助けられたのかもしれない。でもそれは偶然なんだ」
クローヴィアの口元がわずかに歪む。
「その狼とゴグラという猿は縄張りを争っていたんだ。だから狼は猿を倒した。君はその争いによって、結果的に助けられたに過ぎない。その狼が危険なことに変わりはないんだ。だから、こっちに来て、無事に森の外まで連れて行こう」
「違う、そうじゃなくて……」
少年は頑として譲らず、狼の前から動こうとしない。狼はその様子を静かに窺っていた。
フィレンスはそれ以上説得する言葉を持たなかった。さりとて助けないという選択肢はない。狼を刺激するかもしれないが、多少荒い手に出るか。
「もういいでしょう、フィレンス」
迷っているうちに口を開いたのはリンネだ。
「そいつには助けられる気がない、それでいいでしょう。ただでさえ穢れた身なのだから、無理に助ける必要はないわ」
クローヴィアの顔が強張る。距離があるため見えないが、またあの目を向けられているのか。大きく息を呑んだ。
「リンネ、それは――」
「撤回してもらおうか」
その瞬間、空気が硬直した。
クローヴィアを除く誰もが耳を疑った後、全員の視線が声の主へと向く。予想外の者が口を開いたことに、いや、口を開けたことに目を見張っていた。
声の主は沈黙を貫いていた白狼、イーシャだ。
「そこのお前だよ、黒髪の人間」
金色の瞳がまっすぐにリンネを見据える。
リンネは表情に不快感を露わにしていた。獣に声を掛けられる、彼女からすれば屈辱でしかないだろう。
「……獣風情が、私に何を撤回しろと?」
「決まっている、我が友への侮辱だ」
「はあ?」
イーシャは歩を進め、クローヴィアの真後ろに立つ。
「貴様らが私をどう思おうが勝手だ。そんなことはどうでも良い。だが、こいつのことを言うのなら話は別だ。我が友は穢れてなどいない、疾く撤回してもらおう」
クローヴィアはイーシャを見上げた。金の瞳がちらりとこちらを向く。
「勝手に友と呼んだが……気に障ったか?」
イーシャはクローヴィアにのみ聞こえるよう囁いた。クローヴィアは首を横に振る。自分を受け入れてくれたイーシャを自分もまた受け入れる、それがクローヴィアの選択だ。
「そうか、ならよかった」
イーシャは安心したように微笑んだ。
「おおよその事情は把握した。本当は口を開くつもりはなかったのだがな…………まあ、私を庇ってくれた礼とでも思ってくれ」
「そんなの……お礼をしなきゃいけないのは、こっちだよ」
「ふふ。ならそうだな、例の件を前向きに考えておいてくれ……さて」
イーシャは視線を前に戻す。鎧の男は武器を持つ手に力を込めた。奥の女は既に杖を構えている。
「まともにやり合わずに逃げた方が良いのだろうが、共に行く、ということで良いな?」
「うん」
クローヴィアは迷わず答える。
「よし。ではどうにかここを抜けるとしようか」
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私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
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