186 / 186
エピローグ
しおりを挟む
——春。
思わず微睡んでしまいそうになる暖かな陽気の中を、真新しい制服に身を包んだ新入生が期待と不安を顔に滲ませながら、正門と昇降口を繋ぐアプローチを通っていく。
俺はその様子を校庭にある桜の樹の下でジッと眺めていた。頭上に咲く満開の桜の白い花弁が、彼らの入学を祝うかのように柔らかな春の風に乗って飛んでいく。
思えば2年前、俺も今の彼らと同じような表情でこの場所を訪れた。
あの頃は、右を見ても左を見ても知らない顔がほとんどで、俺の場合、期待よりも不安の方がずっと大きかったことをよく覚えている。
あれからもう2年が経った。
俺はいつの間にか3年生へと進級していて、高校生活最後の1年はすでに始まっている。
……全く、時が経つ早さにはつくづく驚かされる。
そんなことを考えながら、目の前に舞い落ちて来た桜の花弁に手を伸ばしていると、明け方の空気のようによく澄んだ声で呼びかけられた。
「こんなところにいたのね。そろそろ入学式始まるわよ」
掴み損ねた桜の花弁から声のする方に目を向けると、そこには雪のような白い肌とは対照的に、いくつもの夜を集めて染めた長い黒髪の少女が佇んでいた。
そんな、御伽噺にでも出てくるかのような現実感のない風貌に見惚れていた俺は、少し遅れて言葉を返す。
「分かってる。ちょうど今、戻ろうと思ってたところだ」
「本当かしら? 私には、飢えたハイエナみたいな目で新入生をジロジロと眺めるのに夢中になっていたように見えたけれど」
「変に脚色すんな。誰もそんな目で見てねぇよ。それに、入学式の時間くらいちゃんと把握してる」
明らかに悪意のある歪んだ捉え方をきちんと訂正してやると彼女は、
「なら、いいけど」
そう呟いてから桜の樹の影へと入り、俺の隣にやってきて、太い幹に背を預けながら再び口を開いた。
「……去年の今頃は、こうして2人で桜を見るだなんて、考えもしなかったわね」
「正直、今でも違和感を感じるときはある」
「奇遇ね。私もよ」
そう言って、クスクスと小さな笑い声をあげる彼女の方を向くと、俺と彼女の瞳がパチリと合った。
それから少しして、お互い慌てるように視線を逸らす。
昇降口からは、新入生同士で交わされる色とりどりの会話と、そんな新入生に向けて案内を呼びかける生徒会役員の大きな声が聞こえてくる。
この賑やかさも春らしくてなかなか良い。
そんなことを思いながら耳を傾けていると、隣から「ねぇ」と声が飛んできた。俺は無言でそちらを向く。
「……まだ、私に勝ちたいっていうあの気持ちは残ってる?」
躊躇うように言葉を発する彼女の双眸は、足元に落ちている桜の花弁に向いていた。
俺は少し考えてから、それに答える。
「完全に無くなったと言えば、嘘になるだろうな」
確かに1年前に比べれば、天才に対する嫌悪感も、勝利に対する執着もだいぶ薄れた。
……けれど……それでもまだ、心の隅の方にはそれらの小さなカケラが残っている。
きっとこのカケラは、あと何年経ったとしても、完全に取り除くことは出来ないんだろう。
そんなことを考えながら、俺は言葉を続ける。
「まぁ……だけど今は、そんなことどうでもいいと思ってるけどな。俺には、もっと俺に合った生き方があるってことを知ったから」
「晴人くんに合った生き方……?」
「あぁ」
『天才』に対する嫌悪感も、『勝利』に対する執着も、俺を構成する大切な要素であることに変わりはない。
ただ、それに加えてもう一つ大きな感情が俺の中に生まれた。
それから静かに顔を隣に向けると、再び彼女と目が合った。
俺はそんな彼女の透き通った瞳を見つめながら、言うべき言葉を口にする。
……今度は逸らさずに、しっかりと。
「蒼子」
「うん」
「……俺は————」
その瞬間、風が強く吹いた。
枝は大きく揺れ動き、空から舞い落ちる桜の花弁が俺たちをそっと包み込む。
そんな、一瞬だけ世界から切り離された空間の中で、俺の瞳には満足そうに微笑む蒼子の姿だけが映っていた。
その後、俺たちを包んでいた桜の花弁は重力に従いながらゆっくりと地面へ落ち、次第に周りの景色や音も戻ってきた。
そうして気がつけば、昇降口にはもう新入生の姿は無く、外に出ているのは俺たち2人のみとなっていた。
「……さて。それじゃあ、夕さんも待っていることだし、早く行きましょうか」
まるで、何事もなかったかのように笑みを浮かべて蒼子が言う。
……全く。なかなか思い通りの反応を見せてくれないところが、いかにもこいつらしい。
そんなことを思いながら、俺は短く息を吐いて答える。
「そうだな。あんまり葉原を1人にしておくのも心配だ」
「なんだか、本当にお父さんみたいね。晴人くんは」
「冗談はよせ。それより、入学式後の部活動紹介、大丈夫か? 緊張して、ぶっ倒れないようにな」
「誰に向かって言ってるのよ。今更人前に出て、緊張なんてするわけがないでしょう?」
それから蒼子は、自信に満ち溢れた表情をこちらに向けて笑ってみせた。
「だって私は、あなたのような『凡人』とは違って『天才』なんだから——」
そう言って、したり顔の自称『天才』は昇降口へ向かって歩き出す。
俺はそんな彼女を見て、思わず笑い声を溢した。
……あぁやっぱり、こいつを心の底から好きだと思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そうして俺は口元に笑みを携えながら、彼女の背中を追いかける。
決して交わることはないと思っていた『天才』と『凡人』。
そんな2人の距離を縮める4月の風からは、桜のように甘く、空のように澄んだ青い春の始まりの香りが、仄かに漂っていた——。
思わず微睡んでしまいそうになる暖かな陽気の中を、真新しい制服に身を包んだ新入生が期待と不安を顔に滲ませながら、正門と昇降口を繋ぐアプローチを通っていく。
俺はその様子を校庭にある桜の樹の下でジッと眺めていた。頭上に咲く満開の桜の白い花弁が、彼らの入学を祝うかのように柔らかな春の風に乗って飛んでいく。
思えば2年前、俺も今の彼らと同じような表情でこの場所を訪れた。
あの頃は、右を見ても左を見ても知らない顔がほとんどで、俺の場合、期待よりも不安の方がずっと大きかったことをよく覚えている。
あれからもう2年が経った。
俺はいつの間にか3年生へと進級していて、高校生活最後の1年はすでに始まっている。
……全く、時が経つ早さにはつくづく驚かされる。
そんなことを考えながら、目の前に舞い落ちて来た桜の花弁に手を伸ばしていると、明け方の空気のようによく澄んだ声で呼びかけられた。
「こんなところにいたのね。そろそろ入学式始まるわよ」
掴み損ねた桜の花弁から声のする方に目を向けると、そこには雪のような白い肌とは対照的に、いくつもの夜を集めて染めた長い黒髪の少女が佇んでいた。
そんな、御伽噺にでも出てくるかのような現実感のない風貌に見惚れていた俺は、少し遅れて言葉を返す。
「分かってる。ちょうど今、戻ろうと思ってたところだ」
「本当かしら? 私には、飢えたハイエナみたいな目で新入生をジロジロと眺めるのに夢中になっていたように見えたけれど」
「変に脚色すんな。誰もそんな目で見てねぇよ。それに、入学式の時間くらいちゃんと把握してる」
明らかに悪意のある歪んだ捉え方をきちんと訂正してやると彼女は、
「なら、いいけど」
そう呟いてから桜の樹の影へと入り、俺の隣にやってきて、太い幹に背を預けながら再び口を開いた。
「……去年の今頃は、こうして2人で桜を見るだなんて、考えもしなかったわね」
「正直、今でも違和感を感じるときはある」
「奇遇ね。私もよ」
そう言って、クスクスと小さな笑い声をあげる彼女の方を向くと、俺と彼女の瞳がパチリと合った。
それから少しして、お互い慌てるように視線を逸らす。
昇降口からは、新入生同士で交わされる色とりどりの会話と、そんな新入生に向けて案内を呼びかける生徒会役員の大きな声が聞こえてくる。
この賑やかさも春らしくてなかなか良い。
そんなことを思いながら耳を傾けていると、隣から「ねぇ」と声が飛んできた。俺は無言でそちらを向く。
「……まだ、私に勝ちたいっていうあの気持ちは残ってる?」
躊躇うように言葉を発する彼女の双眸は、足元に落ちている桜の花弁に向いていた。
俺は少し考えてから、それに答える。
「完全に無くなったと言えば、嘘になるだろうな」
確かに1年前に比べれば、天才に対する嫌悪感も、勝利に対する執着もだいぶ薄れた。
……けれど……それでもまだ、心の隅の方にはそれらの小さなカケラが残っている。
きっとこのカケラは、あと何年経ったとしても、完全に取り除くことは出来ないんだろう。
そんなことを考えながら、俺は言葉を続ける。
「まぁ……だけど今は、そんなことどうでもいいと思ってるけどな。俺には、もっと俺に合った生き方があるってことを知ったから」
「晴人くんに合った生き方……?」
「あぁ」
『天才』に対する嫌悪感も、『勝利』に対する執着も、俺を構成する大切な要素であることに変わりはない。
ただ、それに加えてもう一つ大きな感情が俺の中に生まれた。
それから静かに顔を隣に向けると、再び彼女と目が合った。
俺はそんな彼女の透き通った瞳を見つめながら、言うべき言葉を口にする。
……今度は逸らさずに、しっかりと。
「蒼子」
「うん」
「……俺は————」
その瞬間、風が強く吹いた。
枝は大きく揺れ動き、空から舞い落ちる桜の花弁が俺たちをそっと包み込む。
そんな、一瞬だけ世界から切り離された空間の中で、俺の瞳には満足そうに微笑む蒼子の姿だけが映っていた。
その後、俺たちを包んでいた桜の花弁は重力に従いながらゆっくりと地面へ落ち、次第に周りの景色や音も戻ってきた。
そうして気がつけば、昇降口にはもう新入生の姿は無く、外に出ているのは俺たち2人のみとなっていた。
「……さて。それじゃあ、夕さんも待っていることだし、早く行きましょうか」
まるで、何事もなかったかのように笑みを浮かべて蒼子が言う。
……全く。なかなか思い通りの反応を見せてくれないところが、いかにもこいつらしい。
そんなことを思いながら、俺は短く息を吐いて答える。
「そうだな。あんまり葉原を1人にしておくのも心配だ」
「なんだか、本当にお父さんみたいね。晴人くんは」
「冗談はよせ。それより、入学式後の部活動紹介、大丈夫か? 緊張して、ぶっ倒れないようにな」
「誰に向かって言ってるのよ。今更人前に出て、緊張なんてするわけがないでしょう?」
それから蒼子は、自信に満ち溢れた表情をこちらに向けて笑ってみせた。
「だって私は、あなたのような『凡人』とは違って『天才』なんだから——」
そう言って、したり顔の自称『天才』は昇降口へ向かって歩き出す。
俺はそんな彼女を見て、思わず笑い声を溢した。
……あぁやっぱり、こいつを心の底から好きだと思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そうして俺は口元に笑みを携えながら、彼女の背中を追いかける。
決して交わることはないと思っていた『天才』と『凡人』。
そんな2人の距離を縮める4月の風からは、桜のように甘く、空のように澄んだ青い春の始まりの香りが、仄かに漂っていた——。
0
お気に入りに追加
19
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(4件)
あなたにおすすめの小説
記憶屋
卯月青澄
ライト文芸
僕は風間。
人の記憶(思い出)を消す事の出来る記憶屋。
正しく言うと記憶、思い出を一時的に取り出し、『記憶箱』と呼ばれる小さな木箱に閉まっておく事が出来るというもの。
でも、それはいつかは本人が開けなければならない箱。
僕は依頼のあった人物に会いに行き、記憶を一時的に封印するのが仕事。
そして今日もこれから依頼人に会いに行く。
~巻き込まれ少女は妖怪と暮らす~【天命のまにまに。】
東雲ゆゆいち
ライト文芸
選ばれた七名の一人であるヒロインは、異空間にある偽物の神社で妖怪退治をする事になった。
パートナーとなった狛狐と共に、封印を守る為に戦闘を繰り広げ、敵を仲間にしてゆく。
非日常系日常ラブコメディー。
※両想いまでの道のり長めですがハッピーエンドで終わりますのでご安心ください。
※割りとダークなシリアス要素有り!
※ちょっぴり性的な描写がありますのでご注意ください。

7つの顔をもつレインボーエンジェル
101の水輪
青春
人は色んな顔をもっている。オフィシャルな顔、プライベートな顔で時と場に応じ使い分けている。そのもつ顔が多いほど、多様な生活を送れてるといえよう。そんな中でも知られたくない、触れられたくない顔をもつのも、やはり人である。久瑠美には中学生としてなどいくつもの顔があり、それぞれを楽しんでいる姿は幸せそうだ。101の水輪、第26話。なおこの作品の他に何を読むかは、101の水輪トリセツ(第77話と78話の間に掲載)でお探しください。

宵の宮
奈月沙耶
ライト文芸
秋祭りを目前に控えた山村に、加倉司・さやかの兄妹が見物に訪れた。祭祀組織の風習が色濃く残るその村で人々と交流する中、不可思議な出来事が紐解かれていく。いよいよ迎えた宵宮の夜、現れるのは神かあやかしか、それとも……。
※参考文献『宮座と村』大系日本歴史と芸能第7巻 『古事記』岩波文庫
夢の国警備員~殺気が駄々洩れだけどやっぱりメルヘンがお似合い~
鏡野ゆう
ライト文芸
日本のどこかにあるテーマパークの警備スタッフを中心とした日常。
イメージ的には、あそことあそことあそことあそこを足して、4で割らない感じの何でもありなテーマパークです(笑)
※第7回ライト文芸大賞で奨励賞をいただきました。ありがとうございます♪※
カクヨムでも公開中です。

すずめの雛と兄貴の旅立ち
緑川 つきあかり
ライト文芸
小さな頃は兄の背中ばかりを追いかけていた。
けれど、背が伸びるにつれて、兄の背中は蜃気楼のように遥か彼方へと遠のいていき、やがては言葉を交わすことさえもなくなっていた。
そして、兄が大学受験を控えた高校最後の春。
いつもとは違う家路を辿っていた最中、並木道の傍らに咲く一本の桜の樹枝で、強かに囀る一匹のすずめの雛を目にした。
その出会いが俺の、俺たちの人生をほんの少し変えるきっかけとなったことを、俺は一生忘れないだろう。

離縁してくださいと言ったら、大騒ぎになったのですが?
ネコ
恋愛
子爵令嬢レイラは北の領主グレアムと政略結婚をするも、彼が愛しているのは幼い頃から世話してきた従姉妹らしい。夫婦生活らしい交流すらなく、仕事と家事を押し付けられるばかり。ある日、従姉妹とグレアムの微妙な関係を目撃し、全てを諦める。

婚約者の恋人
クマ三郎@書籍発売中
恋愛
王家の血を引くアルヴィア公爵家の娘シルフィーラ。
何不自由ない生活。家族からの溢れる愛に包まれながら、彼女は社交界の華として美しく成長した。
そんな彼女の元に縁談が持ち上がった。相手は北の辺境伯フェリクス・ベルクール。今までシルフィーラを手放したがらなかった家族もこの縁談に賛成をした。
いつかは誰かの元へ嫁がなければならない身。それならば家族の祝福してくれる方の元へ嫁ごう。シルフィーラはやがて訪れるであろう幸せに満ちた日々を想像しながらベルクール辺境伯領へと向かったのだった。
しかしそこで彼女を待っていたのは自分に無関心なフェリクスと、病弱な身体故に静養と称し彼の元に身を寄せる従兄妹のローゼリアだった……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退会済ユーザのコメントです
感想ありがとうございます!
読者の方々にいい作品を提供できるよう、今後もますますの努力をしていきます。
今後も応援よろしくお願いします(*^^*)
お返事ありがとうございます。一気読みしたので寝不足です。更新楽しみにしてます^ ^
一気読みありがとうございます!
皆さんに「面白い」と言っていただける作品作り、頑張っていきます!!
白月ちゃん可愛い過ぎです。映画館まで読みましたけどテンポも良く面白い
感想ありがとうございます!
ヒロインの白月蒼子は、完全に自分の好みの女の子として作り上げました。気に入って頂けたようでとても嬉しく思っております。外見の美しさはもちろん、時折見せる悪戯っぽい笑顔や内に秘めたさまざまな想いなど、彼女を魅力的に見せる要因はいくつもあります。
物語内容の方でも、天才と凡人の対比をよりリアルに描けるよう努力しました。
20話〜34話までは一気に物語が大きく動き出すので、ストーリー構成や内容にも注目して読み進めてみてください(*^^*)