いつか死ぬキミと見た、あの海を。

ユウキ ヨルカ

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第14話

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 カシュッ。
 アルミ缶のプルタブを倒す小気味のいい音が辺りに響く。
 僕は自動販売機で購入したホットココアを少しだけ口に含んで、手の中の温もりを一身に受け取る。そうしていると、冷えた身体に少しずつ体温が戻っていくような気がした。
 何気なくポケットから取り出したスマホの画面には『15:36』の文字と、三件の留守電が表示されている。相手は多分、母さんだろう。
 僕は取り出したスマホをコートのポケットにしまって、もう一度ココアを口に含む。不自然なほど優しい甘さが、じわりじわりと身体の内側から外に向かって広がっていった。
 「あっ、そういえば——」
 ベンチに腰掛ける僕のすぐ隣で、ふと思い出したかのように奈加が声を上げた。僕は目だけを彼女の方に向けて、言葉の続きを待つ。
 「七海はいつ、鎌倉を出るの?」
 「新幹線が発車するのは17時」
 「……そっかぁ。じゃあ、そろそろ駅に向かわないと間に合わないんじゃない?」
 「うん、そうだね」
 僕たちは七里ヶ浜で軽く水遊びをした後、由比ヶ浜駅に移動し、立ち寄った定食屋で昼食を済ませ、今いる由比ヶ浜海水浴場までやってきた。ここから東京駅までは、大体一時間弱といったところ。今から向かえば、十分新幹線の発車時刻には間に合う。
 だけど、アルミ缶にはまだ熱が残っているし、ココアだって六割くらい入っている。駅へ向かうのは、これを飲み干してからでも大丈夫だろう。
 僕は手元に目を向けながら奈加に尋ねる。
 「そういう奈加は、これからどうするの?」
 「あたし? んー、そうだな。早ければ、今夜にでも次の街に移動したいかな。……あんまり長居も出来ないしね」
 「……そっか」
 そう言って僕は、沈黙を隠すようにココアの入ったアルミ缶を傾ける。残りは半分。……まだ、大丈夫だ。
 「次はどこに行く予定なの?」
 「次かぁ……。山梨か静岡に富士山見に行くのもいいよね。あー、でも、金沢とか名古屋で美味しいもの食べたりしたいし、京都の金閣寺とか嵐山も見に行きたいんだよねー!」
 「候補がたくさんあって、決めるの大変そうだね」
 「まぁ、あたしの命がかかってるわけだしさ」
 あはははは! と、彼女は冗談みたいに笑って答える。だけど、そのセリフが冗談ではないことを、僕はよく知っている。
 「…………」
 奈加がその話題を出すたびに、僕は一体何と返すのが正解なのかわからず、口を噤んでしまう。代わりに、まだ温かさを感じるココアを一口飲んだ。
 僕たちが腰かけるベンチからは、夕日に成りかけの太陽が、由比ヶ浜の海と空を薄く色づけているのが見える。あと数十分もすれば、オレンジ色の夕日に染まる海と空、長い影を伸ばす鎌倉の街並みを見ることが出来るだろう。
 僕は手に持ったアルミ缶を少し傾け、中に入ったココアの残量を確かめながら、静かに息を吐く。そして、あの日の夜、彼女に尋ねたことをもう一度繰り返して言った。

 「……キミは、本当に死ぬの?」
 「えっ? うん、死ぬよ。って、何度も言ったじゃん。いまさら改めて訊かないでよ」
 「……ごめん」

 奈加が誰も幸せにならないような嘘を吐く少女じゃないことを、僕はこの三日間でよく理解した。だから、彼女が「死ぬ」と言ったのなら、間違いなく死ぬんだろう。
 まるで、家から学校に向かう時の「行ってきます」と同じ感覚で、彼女は命を絶つ。
 たかが三日間、一緒に過ごしただけ。人生に置き換えてみれば、僕たちが一緒に過ごした時間なんていうのはほんの一瞬に過ぎない。彼女と過ごした日々よりも、立派な大人として過ごす残りの何十年の方が、僕にとってはかけがえのない時間になる。
 そもそも、僕らは恋人でも、友達でもない。旅の中で、偶然出逢ったひねくれ者の少年と無邪気に死を望む少女。それ以上でもそれ以下でもないんだ。
 それに、この旅が終われば、僕たちはもう二度と会うことはないと思う。だから、今後どこかの街で奈加が命を絶とうとも、僕には全く関係のないことだ。
 僕はそんなことを心の中で呟きながら、すっかり冷めてしまったホットココアを再び口に含んだ。もう少しで、缶もカラになる。
 「……ねぇ、七海——」
 波よりも静かで、夕陽よりも柔らかな声で、奈加が問う。
 「……七海は、あたしに死んでほしくないの?」

 瞬間、心臓が煩いほど激しく鼓動した。
 自分でも考えないように胸の奥の奥にしまっておいた言葉を、彼女の口から聞かされるとは思わなかった。

 ……もう、嘘は付けない。

 僕は残りのココアをすべて飲み干して勢いよくベンチから立ち上がると、すぐ隣に腰かける彼女の、少し驚いたように見開かれた大きな瞳を見つめて、ずっと隠していた想いことばを彼女にぶつけた。

 「あぁ、そうだよ! 死んでほしくない! キミには生きて、大人になってほしい! ……例え、キミが絶望に黒く染まるとしても!」
 それが奈加にとってどういう意味を持つ言葉なのか、十分に理解した上で僕は叫んだ。
 「死ぬなんて、僕が許さない。もし、キミが死んでしまったら、僕は大好きな海を見るたびに、キミのことを思い出してしまう自信がある。だから、絶対に死なせない。僕の中に、土足で上がり込んできた責任を、キミにはしっかりと取ってもらわないといけないんだ!」
 旅が終わったら全て忘れるなんて嘘だ。出来るはずがない。

 ……例えばそれは、真っ赤に染まる夕日を目にした時。穏やかな波の音を耳にした時。美味しそうなカニ料理を前にした時。少し甘いシャンプーの香りを嗅いだ時。スズランのような白く小さな花を見つけた時。水族館で名前も知らない魚を眺めている時——。
 そんな日常の至る所で、僕は彼女の無邪気な笑顔をふと思い出してしまう。同時に、彼女が今どこで何をしているのか、そもそもまだ生きているのか、僕はそれが気になって自分の生活どころではなくなってしまうような気がしてならない。
 これは、僕の人生において最初で最後になるかもしれない〝わがまま〟だ。
 僕は、彼女がそんなわがままを訊いてくれることを祈りながら、彼女からの言葉を待つ。
 ——潮風が、僕たちの間に流れる時間を巻き取っていく。

 「はぁ」
 大きく見開かれていた目を一度閉じ、今度は睨むように細い目をして奈加は口を開いた。
 「無理だよ」
 「どうして……」
 彼女の信念が、僕なんかの言葉で曲がるはずはない。それは薄々分かっていたことだ。だけど、それでも「どうして」と訊かざるを得なかった。
 彼女は僕の興奮を鎮めるように、落ち着いた口調で答える。
 「何度も言ったけど、あたしは大人にはなりたくないの。ずっと子供のままでいたい。だけど、ずっと子供でいることは出来ない。誰だって、いつかは大人にならなくちゃいけない。世の中に溢れてる〝汚れ〟の仲間入りをしないといけない。あたしは、それが嫌なの。……死ぬことよりも、ずっと——」
 獲物を逃さないようにじっと僕を見つめる奈加の瞳からは、揺るぎない覚悟が伝わってくる。例え誰であっても、彼女のその想いを否定することはできないだろう。僕は、全身の力が抜け落ちるように下を向いた。

 ……タイムリミットだ。もう東京駅に向かわないと、新幹線に乗り遅れてしまう。
 僕は、自分の思い通りの結末に至らなかったという悔しさから、強く唇を噛み締め、その場を後にしようと彼女に背を向けた。
 その時、奈加が僕の背中に向けて言葉を放った。
 さっきまでの落ち着いた声とは違う、感情をむき出しにしたような大きな声で、奈加は僕に言った。

 「……あたしは、いつか必ず死ぬ! 大人になっちゃう前に、世界で一番綺麗なものをこの眼に映して、みんなが嫉妬するくらい幸せに笑いながら死んでやる! ……だから、七海のお願いを聞くことは、あたしにはできない」

 僕はそう叫ぶ彼女の方をゆっくりと振り返って、奈加の顔に目を向ける。
 ……そこには、魅力的な大きな瞳に涙を浮かべる、たった16歳の少女がいた。
 彼女は、透明な涙を浮かべたその瞳で僕を見つめながら、声を震わせないようにして言葉を続けた。

 「……でも——」

 僕はただ耳を傾ける。
 例えそれがどんな言葉であったとしても、受け止めなくてはいけないと思った。
 奈加は被っていたキャップ帽のつばを下げて目元を隠し、揶揄うような口調で僕に言う。
 「……それでも、あたしに死んでほしくないって言うなら、……七海があたしを見張っててよ。あたしがうっかり死んじゃわないように、しっかりとさ……」

 それは、あまりにも奈加らしい提案だった。同時に、僕のわがままが可愛く思えるほどの、迷惑すぎるわがままでもあった。
 僕は呆れるように深く息を吐く。

 ……全く、こんなの拒否しようがないじゃないか。本当にずるい。卑怯だ。
 そんなこと言われてしまったら、もう、彼女についていくしかない。

 僕は自分の口元が緩んでいくのを感じながら、ポケットの中のスマホを取り出して、通話履歴に残っていた番号に電話を掛ける。

 「もしもし、母さん?」
 『……七海? あなた、いつになったら帰ってくるの! ほんと、いい加減にしな——』
 「ごめん。家には当分帰らない」
 『……はぁ⁉ 何言って——』
 「本当にごめん。……あと、心配してくれてありがとう。ちゃんと小まめに連絡はするから安心して。……そういうわけだから、じゃあ」
 母さんはまだスピーカーの向こうで何か言っていたみたいだけど、僕は聴こえないふりをしてそのまま通話を切った。
 「……よかったの?」
 奈加が少し不安そうに尋ねてくる。
 「あぁ」
 「でも、来月から社会人になるんでしょ?」
 「うん。……でも、なんかどうでもよくなっちゃって」
 僕は今まで、自分の憧れる立派な大人になるために、いろんなものを我慢して、手のかからない良い子を演じてきた。だから、このくらいの身勝手は許されてもいいはずだ。
 そう言って僕は、いつもの奈加が見せる明るい表情を真似て、にやりと笑う。鏡がないから、どれくらい上手く再現できているかわからないけれど、個人的にはかなりいい笑顔になっていると思う。
 だけど肝心の奈加は、僕の言葉が面白かったのか、全力の笑顔が面白かったのか、それともその両方がツボにはまってしまったのか、笑いすぎて目元に滲んだ涙を丁寧に払い除けながら、とても綺麗な笑顔で言った。
 「なにそれ。変なの」

 それから僕たちは、夕暮れの海岸沿いを並んで歩いた。
 「七海はどこに行きたい?」
 「奈加の行きたいところなら、どこでもついていくよ」
 「……んー、それじゃあ、山形に行ってみたい! 七海、案内してよ」
 「いいけど、それはまた今度」
 「えー、なんでー」
 「……なんか、今は帰りづらい」
 「あっはっはっはっ! ほんと、七海って面白いよねー。……じゃあ、とりあえずさ、ここ行ってみない? 富士山見えるらしいよ!」
 「いいね」
 「よし、じゃあ急いでバス探そ! 日付変わる前には到着したいし。あっちに着いたらまず、ほうとう食べたいよね! それからそれから——」

 二つの影が、ゆっくりと伸びていく。
 ふと空を見上げると、これから巣に帰ろうとする二羽のカモメが、僕たちの頭上を並んで通り越していった。甲高い鳴き声が、潮風に乗って僕たちのもとまで届く。

 「ねぇ、七海——」
 「……なに?」
 「……あたしのこと、離さないでね」
 「うん。絶対に」

 僕たちは、面白いほどに正反対だ。
 早く大人になりたいと願う少年と、子供のまま命を終えたいと願う少女。
 それらは、決して交わることのない平行線。水と油。
 だけど、それでも、僕らは共に居続ける。
 互いの理想を壊すため、そして、互いの想いを守るために——。

 ——三月四日。僕らは、歪な旅に出た。
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