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第13話
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鎌倉滞在四日目となる今日も、天気は変わらず快晴で、空には鮮やかなパステルブルーが広がっていた。カレンダーではまだ三月に入ったばかりだけど、景色だけを見れば、春や夏のものと遜色ないことがよくわかる。
僕はホテル一階のフロント傍にある窓から、そんな外の景色を眺めつつ、今朝のニュースでアナウンサーが言っていたことをふと思い出した。
『早いところでは、既に桜も咲き始めています。今後、春の陽気が日本列島を北上していくとともに、各地で満開の桜を拝むことが出来るようになるでしょう』
桜か……。
きっと、僕が奈加と過ごしたこの日々のことを忘れようとしている頃には、鎌倉にも満開の桜が咲き誇っていることだろう。僕は、貸し出されていたルームキーを受付のホテルマンに返却しながら、そう遠くない未来の風景を思い浮かべる。
「はい、確かに。……それではお客様、当ホテル三日間のご利用、誠にありがとうございました。今後も、良い旅を」
たった三日。それも、もう二度と会うことはないかもしれない相手に対して、彼は心からの笑顔と言葉を持って送り出す。
「こちらこそ、ありがとうございました。またいつか、鎌倉を訪れた時には、もう一度このホテルを利用したいと思います」
——また、いつか。
その〝いつか〟が何時やって来るのか、そもそも本当に訪れるのか、今の僕にはわからない。だけど、その〝いつか〟がちゃんとやってきた時には、また、海が見えるこのホテルに宿泊しよう。
そんな僕の言葉を受けたホテルマンは、変わらぬ笑顔で答える。
「はい。いつでも、お待ちしております」
それから僕たちはホテルを後にし、長谷駅へと向かった。駅には既に、緑のボディにクリーム色のラインが引かれた江ノ電が停車していて、僕たちはICカードをかざして改札を抜けると、急いでそれに乗り込んだ。行き先は鎌倉とは真逆の藤沢駅。僕たちはこれから藤沢ではなく、その少し前にある駅で降りることになる。
チェックアウトを済ませてホテルを後にしてから数分。潮風と穏やかな波の音を感じながら、彼女と初めて出逢った坂ノ下海岸前を歩いていた時のこと。僕の隣に立って時速3kmで足を進める奈加が、僕に向かって尋ねた。
「ねぇ、七海。今日はこれから、どこに向かうの?」
パーカーのフードをまるで犬のしっぽみたいに揺らす奈加。そんな彼女の大きな瞳を見つめながら、僕は微かに笑みを携えて言葉を返す。
「海」
「えー! またぁ?」
「別に、無理についてこなくてもいいよ。元々、僕は一人で鎌倉を観光する予定だったんだし」
そもそも僕は、一度も奈加に行動を強制するようなことは言っていない。あくまで彼女が勝手に僕についてきているだけ。だから、僕がどこに行こうと僕の自由だ。
だけど、もしかしたら、今の僕の言葉は少し彼女を疎ましく思っているように聞こえてしまったかもしれない。実際はそんなこと微塵も思っていないし、むしろ奈加は僕なんかにつきあっていて大丈夫なんだろうかと思っているくらいだ。本当は別に見たいものや行きたいところがあるんじゃないだろうか。
この数日で、彼女が遠慮をするタイプの人間でないことは分かっていたけれど、それでも少し気になってしまった。だけど、当の本人はそんな僕の心配を笑うかのように否定した。
「またまた、そんなこと言っちゃって。本当はあたしと一緒にいたいくせに」
「ははは、何を馬鹿なことを。『あたしが七海と一緒にいたい』の間違いでしょ」
「あははっ! まぁ、あながち間違いでもないけどさ。……ってか、そんなことより、七海って本当に海好きなんだね。海なんて、ホテルの窓から飽きるくらい見てたのにさ」
奈加はそう言って、ホテルでの僕を真似するかのように険しい顔を浮かべた。
高校生の僕だったら、今頃なんだか馬鹿にされているみたいで不愉快に思っていたところだったけど、どういうわけか今の僕にはそんな感情が一切なく、あるのは安心感に似た名前の知らない温かな感情だけだった。名前がわからなければ、それを言葉にして伝えることはできない。だから僕は、声にその感情を乗せて彼女に伝える。
「この街の海は、何度見たって飽きないよ」
今、僕がどんな表情をしているのか自分ではわからない。けれど、そんな僕の言葉を聞いた奈加は「ふふっ」っと少し嬉しそうに微笑むと、僕と同じ方向に目を向けて言った。
「そっか」
それから僕たちは藤沢行きの江ノ電に揺られて、長谷駅から三駅進んだところにある七里ヶ浜駅で下車した。駅の名前にもなっている通り、目的の場所は七里ヶ浜海水浴場だ。僕が中学の修学旅行で鎌倉を訪れた時も、確かこの辺りから海を見たような記憶がある。あの時は目の前に広がる大海原を脳裏に焼き付ける事だけで精一杯だったから、正確な位置やルートは忘れてしまっていたけれど、最寄り駅の名前に僕と同じ『七』がついていたことだけは、なんとなく覚えていた。
正直、この街の海はどこから見ても感動的で、その美しさや景色の価値は変わらない。だから、別にあの時と同じ景色にこだわる必要はない。
だけどこの旅行は、ただ景色を楽しむために行っているわけでも、思い出に浸るために行っているわけでもない。
これは、僕が完全な大人になる前の……言わば、子供だった自分へ別れを告げるための決別の旅行なんだ。その舞台として、この七里ヶ浜は絶対にかかせない。過去と現在を比べる意味でも、僕はあの景色をもう一度この目で見る必要がある。
そんなことを考えながら、僕たちは七里ヶ浜駅を出る。それから少し左に進んで小川の上の短い橋を渡りT字路を右に曲がると、僕たちの正面に、陽光を浴びて煌めく青い海がその姿を現した。
「…………」
一瞬、呼吸が止まった。
そして気がつけば、僕は視界に映るその青に向かって勢いよく駆け出していた。
「あっ、七海!」
そんな奈加の声を振り切るように僕は駆ける。けれど、海岸に続く階段の目の前で、運悪く横断歩道の赤信号に捕まってしまう。僕は駄々をこねる子供みたいに小さく地団太を踏みながら、やたら長い信号が切り替わるのを待つ。
実際は一分くらいだったと思う。でも、僕にはそれがものすごく長い時間に感じて、僕の周りだけ時間の進みが極端に遅くなっているんじゃないかと、少し不安に思った。それでも、信号はちゃんと青に変わり、僕と僕の後ろに立っていた奈加はようやく海岸へと続く階段に足を掛けた。
「……ここだ」
「七海?」
「僕が中学の修学旅行で鎌倉を訪れた時、この辺りから海を眺めたんだ。……うん、間違いない。僕が見たのはここからの景色だ」
それは奈加に対して話しているのか、それとも自分自身に話しかけているのか、正直自分でもよくわからなかった。だって、僕の五感は、目の前に広がる白い砂浜とどこまでも青い海、それから、偽物の夏の日差しによって完全に支配されてしまっていたんだから。
網膜に焼き付けられた海の彩が、嗅球に染み付いた潮の香りが、鼓膜に残る穏やかな潮騒が、あの頃の僕と今の僕とを繋ぎ合わせる。
それから、僕はほっと小さく息を吐く。
……まだ、変わってない。
あの頃から少し背も伸びて、価値観や考え方にも多少の変化や成長があった。世界には、子供が知らない大人の世界と、大人が忘れてしまった子供の世界が、確かに存在することを知った。
大人と子供では、見えている世界がまるで違うということを、僕は知ってしまったのだ。
だけど、今、僕の目に映っているものは、あの日見た景色と何一つ変わっていない。あの頃感じた感動が、ちゃんと今の僕にも理解できている。
それはつまり、僕が大人ではなく、未だに子供のままであるということの証明で、早く大人になりたいと願う僕からしたら少し残念に思うはずの事実なんだけど、そんな僕の気持ちとは裏腹に、小さく開いた口からは安堵の溜め息が漏れ出ていた。
「七海は——」
ふと声のする方に目を向けると、砂浜に続く階段に腰かけた奈加が、引いては押して繰り返す白い波をじっと見つめていた。僕は言葉の続きに耳を傾ける。
「この景色を見るために、……一人でここまで来たの?」
僕は少し考えてから、その問いに答える。
「別に、ここからの景色を眺めるためだけに、わざわざ鎌倉までやってきたわけじゃないよ。……ただ——」
「ただ?」
「本当の意味で大人になるために、やっぱり確かめておかないといけないと思ったんだ。……今の僕に、あの頃と同じ感動が、果たしてやって来るのかどうかを——」
僕が、奈加の気持ちや考えを十分に理解できないのと同じで、きっと奈加にも、僕の気持ちや考えは理解できないと思う。その上、僕たちの理想は面白いほどに正反対だ。
自由を求めて大人に憧れる少年と、変化を恐れて子供のままで命を終えたいと願う少女。
そんなの、分かり合えなくて当然だと思う。
だけど、そんな僕の話を聞いてもなお、奈加はその整った顔に柔らかな微笑みを携えて、僕に向かって問いかける。
「それで? 七海はこの景色を改めて見て、どう思ったの?」
僕はそんな彼女を真似るように小さく笑みを浮かべてそれに答える。
「綺麗すぎて、少し泣きそう」
「ふふっ。……そっか」
それから僕たちは階段を下り、誰もいない砂浜の上を並んで少し歩いた。波の音や海水の色がより鮮明に伝わってくる。冬用のブーツで踏む砂の感触は、なんだか少し違和感があったけれど、そんな違和感すらも今の僕には心地よく思えた。
遠目では青く見えた海も、こうして間近で見てみると、少しエメラルドグリーンに近いことが分かる。まるで、絶えず形を変える宝石みたいだ。
そんなことを思っていると、左側に立つ奈加が僕に問いかけてきた。
「ねぇねぇ、七海」
「どうしたの」
「ちょっとだけさ、海に入ってみない?」
「……海に?」
確かに、僕たちの瞳に映っているものだけを信じるなら、それは鮮烈で爽快な夏の風景にとてもよく似ていると思う。だけど、時折吹く風が、今がまだ冬の尾を引く三月であるということを囁くように訴えかけている。そもそも、いくら綺麗だからって、こんな時期に海に入ろうとするやつなんて、よっぽどの馬鹿か、感傷に浸る死にたがりくらいしかいないだろう。
僕は呆れるように言葉を返す。
「風邪引くよ」
「大丈夫大丈夫。足をちょっとつけるだけだから」
「……まぁ、それくらいなら」
「七海も靴、脱ぎなよ」
「えっ、僕はいいよ。冷たそうだし」
「そういうのいいからさ。ほら! 早く早く」
「…………」
背負っていたリュックサックを砂浜の上に置き、人目も気にせずストッキングを脱ぎ始める奈加。そんな彼女から半ば強引に誘われた僕は、逡巡のすえ、肩にかけていたスクールバッグを奈加のリュックサックの横に置き、靴と靴下を脱いだ。
「ひゃぁーー! 冷たいっ‼ なんか足ヒリヒリするーーー!」
「当たり前でしょ。今、何月だと思ってるんだよ」
「はははっ。でも、気持ちいいよ! 心臓がキュッってなる感じ、すごく好き。七海も早くおいでよ」
今時、小学生でもそんなにはしゃがないと思う。それに、いくら足だけって言っても、今は遊泳禁止期間だ。こんなところを誰かに見られたら、きっと怒られるに違いない。
「はぁ……」
僕は海水に溶けるように小さく息を吐き、彼女の待つ波打ち際に足を向ける。そして、白く乾いた砂と黒く湿った砂の境界線を渡り、押し寄せる波につま先を潜らせた。
「…………っ!」
あまりの冷たさに、思わず身体が縮みこむ。奈加の「心臓がキュッとする」の意味がとてもよく理解できた。つま先を通して、三月の海の冷たさが一瞬で全身に伝わっていく。
「どう? 気持ちいいでしょ?」
「これを気持ちいいと感じるのは、多分、奈加だけだよ」
少なくても僕はこの感覚を「気持ちいい」とは表現できない。むしろ、自分の寿命が少し縮まったようにすら感じる。
でも、そんな寿命がすり減っていくような感覚が、不思議と僕はそんなに嫌いじゃなかった。
身体を流れる血液が全て、この海水みたいに冷たいものに変わっていく。海水に浸している足からは徐々に感覚が消え、子供の小さな手で心臓を掴まれているような感覚だけが残る。
誰だって、死ぬことは怖い。
人は誰でもいつか必ず死ぬけれど、死ぬために生きてる人なんて、多分いない。
みんな、死にたくないからこうして面倒臭い世界を頑張って生きている。
だけど、「今なら別に死んでもいいかな」と、僕は一瞬だけ本気で思ってしまった。
それもきっと、明日死んでしまうかもしれない彼女がまるで子供みたいにはしゃぐ姿を、こうして誰よりの近くで見ているからなんだろう。
僕は自分でも気が付かないうちに、天使みたいに笑う彼女と過ごす時間を、大切だと思い始めていたんだ。
「——ねぇ、七海」
大人になる前に死ぬと言った彼女が、光を含んだ水滴のように弾ける笑顔で、僕の名を呼ぶ。
……なんだか少しだけ、海水が温かくなったように感じた。
僕はホテル一階のフロント傍にある窓から、そんな外の景色を眺めつつ、今朝のニュースでアナウンサーが言っていたことをふと思い出した。
『早いところでは、既に桜も咲き始めています。今後、春の陽気が日本列島を北上していくとともに、各地で満開の桜を拝むことが出来るようになるでしょう』
桜か……。
きっと、僕が奈加と過ごしたこの日々のことを忘れようとしている頃には、鎌倉にも満開の桜が咲き誇っていることだろう。僕は、貸し出されていたルームキーを受付のホテルマンに返却しながら、そう遠くない未来の風景を思い浮かべる。
「はい、確かに。……それではお客様、当ホテル三日間のご利用、誠にありがとうございました。今後も、良い旅を」
たった三日。それも、もう二度と会うことはないかもしれない相手に対して、彼は心からの笑顔と言葉を持って送り出す。
「こちらこそ、ありがとうございました。またいつか、鎌倉を訪れた時には、もう一度このホテルを利用したいと思います」
——また、いつか。
その〝いつか〟が何時やって来るのか、そもそも本当に訪れるのか、今の僕にはわからない。だけど、その〝いつか〟がちゃんとやってきた時には、また、海が見えるこのホテルに宿泊しよう。
そんな僕の言葉を受けたホテルマンは、変わらぬ笑顔で答える。
「はい。いつでも、お待ちしております」
それから僕たちはホテルを後にし、長谷駅へと向かった。駅には既に、緑のボディにクリーム色のラインが引かれた江ノ電が停車していて、僕たちはICカードをかざして改札を抜けると、急いでそれに乗り込んだ。行き先は鎌倉とは真逆の藤沢駅。僕たちはこれから藤沢ではなく、その少し前にある駅で降りることになる。
チェックアウトを済ませてホテルを後にしてから数分。潮風と穏やかな波の音を感じながら、彼女と初めて出逢った坂ノ下海岸前を歩いていた時のこと。僕の隣に立って時速3kmで足を進める奈加が、僕に向かって尋ねた。
「ねぇ、七海。今日はこれから、どこに向かうの?」
パーカーのフードをまるで犬のしっぽみたいに揺らす奈加。そんな彼女の大きな瞳を見つめながら、僕は微かに笑みを携えて言葉を返す。
「海」
「えー! またぁ?」
「別に、無理についてこなくてもいいよ。元々、僕は一人で鎌倉を観光する予定だったんだし」
そもそも僕は、一度も奈加に行動を強制するようなことは言っていない。あくまで彼女が勝手に僕についてきているだけ。だから、僕がどこに行こうと僕の自由だ。
だけど、もしかしたら、今の僕の言葉は少し彼女を疎ましく思っているように聞こえてしまったかもしれない。実際はそんなこと微塵も思っていないし、むしろ奈加は僕なんかにつきあっていて大丈夫なんだろうかと思っているくらいだ。本当は別に見たいものや行きたいところがあるんじゃないだろうか。
この数日で、彼女が遠慮をするタイプの人間でないことは分かっていたけれど、それでも少し気になってしまった。だけど、当の本人はそんな僕の心配を笑うかのように否定した。
「またまた、そんなこと言っちゃって。本当はあたしと一緒にいたいくせに」
「ははは、何を馬鹿なことを。『あたしが七海と一緒にいたい』の間違いでしょ」
「あははっ! まぁ、あながち間違いでもないけどさ。……ってか、そんなことより、七海って本当に海好きなんだね。海なんて、ホテルの窓から飽きるくらい見てたのにさ」
奈加はそう言って、ホテルでの僕を真似するかのように険しい顔を浮かべた。
高校生の僕だったら、今頃なんだか馬鹿にされているみたいで不愉快に思っていたところだったけど、どういうわけか今の僕にはそんな感情が一切なく、あるのは安心感に似た名前の知らない温かな感情だけだった。名前がわからなければ、それを言葉にして伝えることはできない。だから僕は、声にその感情を乗せて彼女に伝える。
「この街の海は、何度見たって飽きないよ」
今、僕がどんな表情をしているのか自分ではわからない。けれど、そんな僕の言葉を聞いた奈加は「ふふっ」っと少し嬉しそうに微笑むと、僕と同じ方向に目を向けて言った。
「そっか」
それから僕たちは藤沢行きの江ノ電に揺られて、長谷駅から三駅進んだところにある七里ヶ浜駅で下車した。駅の名前にもなっている通り、目的の場所は七里ヶ浜海水浴場だ。僕が中学の修学旅行で鎌倉を訪れた時も、確かこの辺りから海を見たような記憶がある。あの時は目の前に広がる大海原を脳裏に焼き付ける事だけで精一杯だったから、正確な位置やルートは忘れてしまっていたけれど、最寄り駅の名前に僕と同じ『七』がついていたことだけは、なんとなく覚えていた。
正直、この街の海はどこから見ても感動的で、その美しさや景色の価値は変わらない。だから、別にあの時と同じ景色にこだわる必要はない。
だけどこの旅行は、ただ景色を楽しむために行っているわけでも、思い出に浸るために行っているわけでもない。
これは、僕が完全な大人になる前の……言わば、子供だった自分へ別れを告げるための決別の旅行なんだ。その舞台として、この七里ヶ浜は絶対にかかせない。過去と現在を比べる意味でも、僕はあの景色をもう一度この目で見る必要がある。
そんなことを考えながら、僕たちは七里ヶ浜駅を出る。それから少し左に進んで小川の上の短い橋を渡りT字路を右に曲がると、僕たちの正面に、陽光を浴びて煌めく青い海がその姿を現した。
「…………」
一瞬、呼吸が止まった。
そして気がつけば、僕は視界に映るその青に向かって勢いよく駆け出していた。
「あっ、七海!」
そんな奈加の声を振り切るように僕は駆ける。けれど、海岸に続く階段の目の前で、運悪く横断歩道の赤信号に捕まってしまう。僕は駄々をこねる子供みたいに小さく地団太を踏みながら、やたら長い信号が切り替わるのを待つ。
実際は一分くらいだったと思う。でも、僕にはそれがものすごく長い時間に感じて、僕の周りだけ時間の進みが極端に遅くなっているんじゃないかと、少し不安に思った。それでも、信号はちゃんと青に変わり、僕と僕の後ろに立っていた奈加はようやく海岸へと続く階段に足を掛けた。
「……ここだ」
「七海?」
「僕が中学の修学旅行で鎌倉を訪れた時、この辺りから海を眺めたんだ。……うん、間違いない。僕が見たのはここからの景色だ」
それは奈加に対して話しているのか、それとも自分自身に話しかけているのか、正直自分でもよくわからなかった。だって、僕の五感は、目の前に広がる白い砂浜とどこまでも青い海、それから、偽物の夏の日差しによって完全に支配されてしまっていたんだから。
網膜に焼き付けられた海の彩が、嗅球に染み付いた潮の香りが、鼓膜に残る穏やかな潮騒が、あの頃の僕と今の僕とを繋ぎ合わせる。
それから、僕はほっと小さく息を吐く。
……まだ、変わってない。
あの頃から少し背も伸びて、価値観や考え方にも多少の変化や成長があった。世界には、子供が知らない大人の世界と、大人が忘れてしまった子供の世界が、確かに存在することを知った。
大人と子供では、見えている世界がまるで違うということを、僕は知ってしまったのだ。
だけど、今、僕の目に映っているものは、あの日見た景色と何一つ変わっていない。あの頃感じた感動が、ちゃんと今の僕にも理解できている。
それはつまり、僕が大人ではなく、未だに子供のままであるということの証明で、早く大人になりたいと願う僕からしたら少し残念に思うはずの事実なんだけど、そんな僕の気持ちとは裏腹に、小さく開いた口からは安堵の溜め息が漏れ出ていた。
「七海は——」
ふと声のする方に目を向けると、砂浜に続く階段に腰かけた奈加が、引いては押して繰り返す白い波をじっと見つめていた。僕は言葉の続きに耳を傾ける。
「この景色を見るために、……一人でここまで来たの?」
僕は少し考えてから、その問いに答える。
「別に、ここからの景色を眺めるためだけに、わざわざ鎌倉までやってきたわけじゃないよ。……ただ——」
「ただ?」
「本当の意味で大人になるために、やっぱり確かめておかないといけないと思ったんだ。……今の僕に、あの頃と同じ感動が、果たしてやって来るのかどうかを——」
僕が、奈加の気持ちや考えを十分に理解できないのと同じで、きっと奈加にも、僕の気持ちや考えは理解できないと思う。その上、僕たちの理想は面白いほどに正反対だ。
自由を求めて大人に憧れる少年と、変化を恐れて子供のままで命を終えたいと願う少女。
そんなの、分かり合えなくて当然だと思う。
だけど、そんな僕の話を聞いてもなお、奈加はその整った顔に柔らかな微笑みを携えて、僕に向かって問いかける。
「それで? 七海はこの景色を改めて見て、どう思ったの?」
僕はそんな彼女を真似るように小さく笑みを浮かべてそれに答える。
「綺麗すぎて、少し泣きそう」
「ふふっ。……そっか」
それから僕たちは階段を下り、誰もいない砂浜の上を並んで少し歩いた。波の音や海水の色がより鮮明に伝わってくる。冬用のブーツで踏む砂の感触は、なんだか少し違和感があったけれど、そんな違和感すらも今の僕には心地よく思えた。
遠目では青く見えた海も、こうして間近で見てみると、少しエメラルドグリーンに近いことが分かる。まるで、絶えず形を変える宝石みたいだ。
そんなことを思っていると、左側に立つ奈加が僕に問いかけてきた。
「ねぇねぇ、七海」
「どうしたの」
「ちょっとだけさ、海に入ってみない?」
「……海に?」
確かに、僕たちの瞳に映っているものだけを信じるなら、それは鮮烈で爽快な夏の風景にとてもよく似ていると思う。だけど、時折吹く風が、今がまだ冬の尾を引く三月であるということを囁くように訴えかけている。そもそも、いくら綺麗だからって、こんな時期に海に入ろうとするやつなんて、よっぽどの馬鹿か、感傷に浸る死にたがりくらいしかいないだろう。
僕は呆れるように言葉を返す。
「風邪引くよ」
「大丈夫大丈夫。足をちょっとつけるだけだから」
「……まぁ、それくらいなら」
「七海も靴、脱ぎなよ」
「えっ、僕はいいよ。冷たそうだし」
「そういうのいいからさ。ほら! 早く早く」
「…………」
背負っていたリュックサックを砂浜の上に置き、人目も気にせずストッキングを脱ぎ始める奈加。そんな彼女から半ば強引に誘われた僕は、逡巡のすえ、肩にかけていたスクールバッグを奈加のリュックサックの横に置き、靴と靴下を脱いだ。
「ひゃぁーー! 冷たいっ‼ なんか足ヒリヒリするーーー!」
「当たり前でしょ。今、何月だと思ってるんだよ」
「はははっ。でも、気持ちいいよ! 心臓がキュッってなる感じ、すごく好き。七海も早くおいでよ」
今時、小学生でもそんなにはしゃがないと思う。それに、いくら足だけって言っても、今は遊泳禁止期間だ。こんなところを誰かに見られたら、きっと怒られるに違いない。
「はぁ……」
僕は海水に溶けるように小さく息を吐き、彼女の待つ波打ち際に足を向ける。そして、白く乾いた砂と黒く湿った砂の境界線を渡り、押し寄せる波につま先を潜らせた。
「…………っ!」
あまりの冷たさに、思わず身体が縮みこむ。奈加の「心臓がキュッとする」の意味がとてもよく理解できた。つま先を通して、三月の海の冷たさが一瞬で全身に伝わっていく。
「どう? 気持ちいいでしょ?」
「これを気持ちいいと感じるのは、多分、奈加だけだよ」
少なくても僕はこの感覚を「気持ちいい」とは表現できない。むしろ、自分の寿命が少し縮まったようにすら感じる。
でも、そんな寿命がすり減っていくような感覚が、不思議と僕はそんなに嫌いじゃなかった。
身体を流れる血液が全て、この海水みたいに冷たいものに変わっていく。海水に浸している足からは徐々に感覚が消え、子供の小さな手で心臓を掴まれているような感覚だけが残る。
誰だって、死ぬことは怖い。
人は誰でもいつか必ず死ぬけれど、死ぬために生きてる人なんて、多分いない。
みんな、死にたくないからこうして面倒臭い世界を頑張って生きている。
だけど、「今なら別に死んでもいいかな」と、僕は一瞬だけ本気で思ってしまった。
それもきっと、明日死んでしまうかもしれない彼女がまるで子供みたいにはしゃぐ姿を、こうして誰よりの近くで見ているからなんだろう。
僕は自分でも気が付かないうちに、天使みたいに笑う彼女と過ごす時間を、大切だと思い始めていたんだ。
「——ねぇ、七海」
大人になる前に死ぬと言った彼女が、光を含んだ水滴のように弾ける笑顔で、僕の名を呼ぶ。
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