いつか死ぬキミと見た、あの海を。

ユウキ ヨルカ

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第9話

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 『コンパニオンプランツ』という言葉を、僕は昔、何かの図鑑で読んだことがある。
 確か農学や園芸学に関する専門用語で、相互に良い影響を与え合う植物の組み合わせを指した言葉だったような気がする。また、それとは逆に、互いに悪影響を及ぼし合う組み合わせもいくつか存在するらしく、植物の栽培には長い年月を経て培われてきた経験がとても重要になってくるらしい。
 別に、園芸に興味が沸いてきたというわけじゃない。植物についても、図鑑で知った付け焼き刃程度の知識しか持ち合わせていないし、ましてや植物に自分や他人を重ねて想いを馳せようなんて考えたこともない。
 では、どうして突然そんな言葉を連想してしまったのか。それはおそらく、つい先ほど見学した植物園が原因なんだろう。
 僕は、隣の席に座る彼女に目を向けてふと思う。
 僕たちは、相互に良い影響を与え合っているんだろうか。……それとも——。
 「あれ? 七海、全然口付けてないじゃん。具合悪いの?」
 「あぁ、いや、食べるよ。いただきます」
 見られていることに気が付いたのか、奈加は特大のワッフルを口に運びながら、全く食が進んでいない僕を見て心配そうに首を傾げた。
 僕は、目の前のカウンターテーブルに置かれた奈加が注文したものと同じ種類のワッフルをもそもそと咀嚼しながら、改めて店内を見回す。
 僕たちは今、江ノ島シーキャンドル付近にあるカフェで軽い昼食を摂っている最中だ。
 店内はこぢんまりとした洋風の内装で、見渡す限り客は僕たちの他に二十代くらいの若い女性客が数組いるだけ。静かで落ち着いた雰囲気が心地いい。
 正面の窓ガラスからは、先程通ってきた植物園の花々が三月の風に吹かれて心地よさそうにゆらゆらと踊っている様子が窺える。
 僕は口の中いっぱいに広がるワッフルの甘さとサクサクした生地の触感を堪能しながら、一緒に注文したクリームソーダで喉を潤し、午前中の出来事を振り返った。

 ***

「昨日はごめん」
 朝食と身支度を済ませ、観光に向かうためにもそろそろホテルを出る時間かな……なんて考えていたちょうどその時、奈加が僕の背中に向かってそう言葉を掛けた。
 僕は振り返って彼女の方を向く。
 「突然どうしたの?」
 彼女の謝罪に心当たりがなかったわけじゃない。むしろ、いつになったら謝って来るんだろうと思っていたくらいだ。それでも、「どうしたの」と聞かずにはいられなかった。
 だって、まさか本当に彼女が謝って来るだなんて思わないじゃないか。
 人の考えていることなんて自分には関係ない。誰が何を思っているかはあくまで当人の問題であって、自分の問題じゃない。奈加はそういう少女だと思っていた。
 だから、彼女がいつになく神妙な面持ちで僕に謝ってきた時、意外だなと思ったのと同時に少しホッとした。……どうやら、彼女にも人並みの罪悪感はあったらしい。
 「あれからずっと、七海に悪いことしちゃったなーって、一人で考え込んでたんだ。七海に迷惑を掛けないって条件で同室にしてもらってたのに……ってさ。だから、ごめん」
 いつもは僕を捕らえて離さないその大きな瞳が、今は不安と罪悪感で押しつぶされ、ずっと下ばかり向いている。そんな弱気になっている彼女が物珍しく感じて、小指の先ほどの加虐心が僕の心に芽生えたけれど、それも彼女を見ているうちに徐々に薄れていき、僕は固まった身体をほぐすように軽く息を吐き出すと、彼女に向かって言った。
 「もう気にしてないよ」
 もちろん、心からの言葉じゃない。昨晩の彼女の行動や言動を無かったことには出来ないし、あれが彼女なりの善意だと頭では理解していても、やっぱり素直に受け取ること難しい。それでも、彼女がこうして反省の意を表してくれたのに、いつまでも根に持っているのはあまりにも大人らしくないと思った。
 僕は出来るだけ柔らかな表情を浮かべて言葉を続ける。
 「それより早く行こう。時間がもったいない」
 それを聞いた奈加は、それまで俯かせていた顔をすっと持ち上げて、見る見るうちに笑顔を取り戻していくと、ベッドの上に置かれていたお気に入りの黒のキャップ帽とライトグリーンのリュックサックをその小さな身体に装着し、「うん」と小さく頷きを返した。

 それから僕たちは江ノ電に乗り込み、江ノ島方面へと向かった。
 昨日は時間の関係上、江ノ島まで足を延ばすことが出来なかったから今日こそはと思っていたけれど、どうやら奈加も江ノ島を見て周りたいようだったので、「どうせなら二人で」と一緒に江ノ島観光をすることになったのだ。
 その後、江ノ島駅に到着した僕たちは『すばな通り』『江ノ島弁天橋』を通って、無事江ノ島までやって来ると、土産物店が立ち並ぶ通りを抜け、その先にある瑞心門の正面で足を止めた。
 「ここってさ、竜宮城を真似て造られたらしいよ」
 「へぇ、よく知ってるね」
 「うん。ネットに書いてあった」
 そう言って奈加は「はい、これ」と僕にスマホを手渡した。確かにディスプレイに表示されているサイトには、そんなことが書かれている。
 「竜宮城か。……そういえば、他にも竜宮城をモチーフにした建物なかったっけ?」
 「あー、片瀬江ノ島駅? それもネットに書いてあったよ」
 「ふーん……」
 僕は奈加にスマホを返しながら、相槌を返す。
 「それにしても、鎌倉って何か竜宮城と深い関係あるのかな」
 「どうだろうね。あとで調べてみたら?」
 「うん。そうする」
 そんな他愛もない会話を交えながら、僕たちは瑞心門をくぐり、その先の江島神社で参拝を済ませた。
 平日の午前中にもかかわらず、江ノ島にはそれなりに人の姿が見られた。そこは、さすが江ノ島といったところだろう。昨日はそれほど見られなかった観光客が多くいる。その大半は国外からの観光客らしく、自撮り棒の先にスマホをセットして、いたるところで撮影を行っていた。
 これは早めにホテルを出てきて正解だったかもしれない。そんなことを思いながら、僕たちは次の目的地へ向かって歩みを進める。目指すは、江ノ電の車窓からもはっきりとその姿を視認することが出来た江ノ島のシンボル、江ノ島シーキャンドルだ。
 約三年前。僕がまだ中学生だった頃、修学旅行でこの鎌倉を訪れた時には、時間や行動範囲などといった縛りのせいで、こちら側には足を運べなかった。生徒の自主性を重んじるというのが僕の学校のスローガンだったはずなのに、あの頃の教師たちは僕たち生徒を『他人の子供』としか見ていなかった。だから、中学校生活のメインイベントでもある修学旅行でも、本当の意味での自由は与えられなかった。
だけど、今は違う。僕がそうしたいと望めば、自分の足でどこへだって行くことが出来る。今、この場で僕を縛るものは何一つない。
 僕は少し冷たい潮風に背中を押されるように、キューっと鳴き声を上げて頭上を飛び交うカモメの群れを目で追いながら、そびえ立つ展望灯台目掛けて足を進めた。

 江島神社から江ノ島シーキャンドルまでは徒歩で十分程度。屋外エスカレーターを使えばもっと早く移動することが出来たけれど、道中の景色も楽しみの一つ。それを無視するのはあまりにももったいない。僕たちは眼下に広がる江ノ島の街並みを存分に堪能しながら、目的の場所までやってきた。
 江ノ島シーキャンドルは、『サムエル・コッキング苑』という植物庭園の中に存在する施設の一つで、まずは料金を払って植物庭園に入園する必要があった。
 僕たちは入場口でそれぞれ五〇〇円を支払って入場券を受け取る。どうやら展望灯台の利用券も料金に含まれているようで、僕の入場券には植物園の写真が、奈加の入場券には夕日をバックに撮影されたシーキャンドルの写真が添付されてあった。
 「この時期でも植物園ってやってるんだね」
 入り口でスタッフに購入した入場券を見せ、僕より一足先に園内に入った奈加が辺りを見回しながらそう呟いた。
 「まぁ、僕たちが住んでるところよりは暖かいからね。それに、園内でも徹底した温度管理が行われてるんだと思うよ」
 「あっ! ねぇ七海、これ見てよ。めっちゃピンク!」
 「……あぁ、うん。ピンクだね」
 わざわざ呟きに反応してあげたっていうのに、奈加は僕の話なんてどうでもいいといった感じで、あちこちに植えられた色とりどりの花々を興奮気味にスマホで撮影し始めていた。
 ……この娘は本当に、自分の心に嘘をつけないんだな。
 そんなことを思いながら、僕は花の香りに誘われてひらひらと舞う蝶を追いかけるように、数歩遅れて彼女の後ろを歩く。
 辺りを見回せば、園内はたくさんの自然の色で満たされていた。
 バラ、椿、ガーベラ、アネモネ、マーガレット、ゼラニウム、チューリップ。
 人工的には決して表せない、生命いのちを宿したいろがここには溢れている。
 「……純粋、純潔、汚れなき心」
 ふと声のした方に目を向けると、奈加が通路にしゃがみ込み、スマホで何かを調べているのが見えた。
 「何してるの?」
 「あー……えっと、この花言葉調べてたの。スノーフレークっていうらしいよ」
 そう言って笑みを浮かべる彼女の視線の先には、白いスズランのような小さな花弁を付けた植物がいくつか植えられてあった。
 「あたし、この花好きかも」
 「それは……、白くて可愛いから?」
 「ううん。そうじゃなくて……いや、それもそうなんだけどさ。花言葉がね、あたしにぴったりだなぁ……と思って」
 そう言って奈加は、スマホに表示されたスノーフレークの花言葉をもう一度読み上げる。
 「……純粋。純潔。汚れなき心。——うん。やっぱり、あたしにぴったり」
 まるで真夏に花開く向日葵みたいに暖かく、夜空に輝く一番星みたいに明るい笑顔で彼女は自信たっぷりにそう言った。

 それから僕たちは植物園を抜け、目的の江ノ島シーキャンドルへと赴いた。最上階の展望台に向かうエレベーター付近には列ができていて、スタッフが一人一人利用券にスタンプを押して周っていた。僕たちも列の最後尾に並び、順番を待つ。
 「もしかしたら、あと数分であたし死んじゃうかもね」
 僕の一つ前に並ぶ奈加はそんな物騒なセリフを吐きながら、満面の笑みをこちらに向けてくる。
 「こんなところで死なれちゃ、他の観光客がものすごく迷惑すると思うよ」
 「ふーん、〝他の観光客〟ね。七海は、迷惑しないの?」
 奈加は、さも当たり前のように答えづらい質問を投げかけてくる。正直、どんな返答をしたところで彼女が満足するような答えにはならないと思う。
 僕はほんの少し考えてから、重々しいため息を吐いて彼女に尋ねた。
 「……それは、何て答えるのが正解なの?」
 「あははっ、なに言ってんの。こんなのに正解なんてないよ。クイズじゃないんだからさ」
 奈加は笑いすぎが原因で目じりに滲んだ涙を軽く指で払い除けながら、そう返す。
 「七海が思ったことを素直に言ってくれれば、それでいいんだよ」
 「僕が思ったこと?」
 「そ。七海が思ったこと」
 それから少しの間、僕たちの間には沈黙が流れた。
 彼女と会話を続ける中で僕の言うべき言葉はとっくに見つかっていたけれど、それを即答するのもどうかと思ったので、僕は少し考える振りをしてからゆっくりと口を開いた。
 「……迷惑か、迷惑じゃないか。どちらかと訊かれれば、そりゃ迷惑だよ。せっかくの思い出がキミの死体で上書きされるのは勘弁してほしい。……死ぬならせめて、僕のいないところで死んでくれ」
 最期の一言を除けば、僕が言ったことはすべて事実だった。
 今、この場で彼女に死なれてはとても困る。ただでさえ、旅の記憶の大半が彼女に塗りつぶされそうになっているっていうのに、ここで死なれては僕の思い出が本当にすべて奈加一色に染まってしまう。
 他人が自分の中に存在しているっていうのは、僕にとっては一種の拷問みたいなものだ。正直、耐えられる気がしない。
 けれど、奈加は僕がそんなことを考えているとも知らずに、にんまりとした粘性のある笑みを顔に張り付けながら僕をじっと見つめる。
 「ふぅ~ん、そっかぁ」
 「……何?」
 「ふふっ、なんでもなーい」
 まるで鼻歌でも唄うみたいにそう返す彼女は、キャップ帽のつばを下げて目元を隠すと、再び列の正面を向き直した。

 結果として、その場で彼女が死ぬことはなかった。
 シーキャンドルの最上階から眺める景色は『絶景』という言葉が安っぽく聞こえるくらいに美しく、とてつもない迫力と大きな感動が確かにあったけれど、それは彼女にとって〝死に時に相応しい景色〟ではなかったようで、彼女はただ純粋に展望台からの眺めを楽しみ、子供のようにはしゃいで回るだけだった。
 僕はそんな彼女を静かに見つめながら、自分の心に根付いていた不安をそぎ落とすように、そっと胸を撫で下ろした。

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