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第8話
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レストランで豪華な夕食を堪能した後、僕たちは自室へと戻った。
まさか本当に奈加が夕食代を全額支払ってくれるとは思っていなくて少し驚いたけど、それも彼女の話を聞いた後では、何でもないことに思えた。
そうして部屋に帰って来るなり、奈加は「シャワーを浴びたい」と言って、被っていた黒のキャップ帽と背負っていたリュックサックをベッドの上に置くと、着替えと小さなポーチを取り出してバスルームへと向かった。
「あ、覗きたかったら別に入ってきてもいいからねー」
「あんまり馬鹿なこと言ってると追い出すよ」
「あはっ、顔こわーい」
あんな話をしておいてなお、彼女は彼女のままだ。僕にはそれが、ひどく恐ろしいものとして映っている。
僕はバスルームの扉がしっかりと閉まったことを確認して、ベッドに寝転んだ。
「……はぁ」
あの場ではなんとか平静を保てていたけれど、いざこうして一人になってみると、彼女の言葉と、それに似つかわしくないあの狂気すら感じる笑顔で頭がどうにかなりそうだった。
僕は深く息を吐いて天井を見上げる。だけど、いくら目を凝らしたところで、そこに僕の望む答えが現れることはない。
「…………はぁ」
さっきよりもさらに深く長い溜息を吐いて、僕は大窓の方に目を向ける。
時刻は午後九時。これから家に帰る人も多いんだろう。ホテル前の国道134号線ではいくつもの車が列を成し、ヘッドライトやテールランプの明かりが、ぼやけた光の泡として室内にまで届いていた。
確かにその光景は、人工的に生み出されたにしては綺麗で幻想的だと思った。だけど、やっぱり感動するまでには至らなかった。その原因が彼女の話によるものなのか、はたまたバスルームから絶えず聴こえてくるシャワーの音によるものなのかは僕にも分からない。
ただ、僕の精神が彼女にかき乱されていることは、間違いのない事実だった。
僕はベッドに寝転がったまま首だけを動かして、バスルームの方に目を向ける。
……この旅が終われば、きっと僕は大人になる。
周りに頼ってばかりだった子供の自分と決別し、社会を正常に動かす歯車の一つとして、責任と信頼と自由を抱えて生きていくことが出来る。誰かの支えなんていらない。僕は一人でも大丈夫だと、ようやく周りに証明することが出来る。そんな未来が待ち遠しくて堪らなかった。
でも、彼女と……奈加と出逢ってから、今まで揺らぐことのなかった大人への憧れと、子供のままでいることに対する嫌悪感が、少し疑わしく思えてきた。
自分は本当に大人になってもいいんだろうか。そもそも、自分は本当に大人になりたいのだろうか。考えれば考えるほど、自分が分からなくなっていく。
あぁ、本当に、どうしてこうなってしまったんだろう……。
これも全て、あの時彼女の横顔に見惚れてしまったのがいけなかったんだ。
あそこで何も考えず、ただ素通りしていれば、僕は今頃一人で静かに明日の予定を立てていられたはずなのに。
そんな遅すぎる後悔に浸っていると、バスローブに身を包んだ奈加が白い蒸気を纏ってバスルームから出てきた。
「ふぅ、さっぱりした。潮風のせいで髪とか結構ギシギシ言ってたからねー。ってか、わざとドアのカギ開けておいたのにマジで覗きに来ないとか、七海ほんとに男?」
そう言って奈加は挑発的な視線を僕に向ける。だけど僕には、そんな挑発に乗るような余力も度胸も無いので軽く受け流す。
「期待に応えられなくて悪いね。そんなことより、髪乾かしたら?」
「んー、七海が乾かしてよ」
「嫌だ」
「えー、いいの? 女の子の髪を触れる機会なんて滅多にないよ?」
「お気遣いありがとう。でも僕、実は人毛アレルギーなんだ」
「へぇ、変わったアレルギー持ってるんだね。それじゃあ、仕方ない。自分で乾かすよ」
「そうしてくれると助かる」
僕は彼女の濡れた髪から滴り落ちる水滴を目で追いながら、適当な嘘をついて無理やり話を終わらせる。 それから奈加はバスルームからドライヤーを取って来ると、わざわざ鏡台前の椅子に座って髪を乾かし始めた。
室内にドライヤーの送風音が轟く。
「——ねぇ」
一本一本が細く柔らかな黒髪を、優しく手で梳くように乾かす奈加が鏡に反射して映る僕に向かって声を掛けた。
「何?」
「七海って、彼女とかいるの?」
突然の質問に一瞬困惑したものの、彼女の言動に深い意味があるわけじゃないことを思い出し、冷静に言葉を返す。
「もし、いるように見えたなら、今すぐ病院に行って検査してもらった方がいいよ」
「あははっ! 検査は言い過ぎでしょ」
「面白いことを言ったつもりはないんだけど」
「ごめんごめん。別に深い意味があって訊いたわけじゃないんだ」
ほら、やっぱり。
もし何か気になることがあれば、回りくどいことはせずに直接尋ねる。それが彼女のやり方だ。
僕は、彼女に対する自分の観察眼が正しかったことに少しばかりの満足感を覚えながら、彼女の言葉の続きに耳を傾ける。
「……あたし、今まで歳の近い友達とこういう普通の会話したことなかったからさ、一回してみたくなったの。ただ、それだけ」
「今のって普通の会話だったの? 僕には異文化圏のコミュニケーションにしか思えなかったけど」
事実、僕はこれまでの学生生活で、誰かと恋愛について話をしたことがたった一度すらなかった。教室でそう言った話題がちらほら聴こえてくることはあったけど、僕がそれに参加したことは一度もない。だから、それが奈加の言う『普通の会話』に含まれるのかどうかは、正直僕にはよくわからなかった。
「えっ、七海って昨日まで高校生だったんだよね? 高校生なら普通、恋バナの一つや二つ普通にするもんじゃないの?」
奈加はまだ乾かし途中の髪を無視してドライヤーの電源をオフにすると、勢いよく振り返り、信じられないものを見るような目で僕を見つめた。
「いや、僕はしたことないけど」
「……うわ、マジか」
「でも、クラスにはそう言った話で盛り上がってる人はたくさんいたよ」
「それってつまり、七海はクラスの人たちからハブられてたってこと?」
「……まぁ、客観的に見たらそう見えるかもしれない。でも、僕自身、友達は必要ないと思って生活してたから、何も問題なかったけどね」
「……いや、問題あるでしょ」
奈加はそれまで浮かべていた驚愕の表情から、まるで可哀想なものを見るような憐みの表情に変えると小さく息を吐いて、僕のすぐ隣……ベッドの上に腰を下ろした。
「どうしたの? まだ、髪乾ききってないみたいだけど」
僕は俯いたまま沈黙する彼女の、綺麗に整った横顔に目を向けながら、そう問いかけた。
見たところ、毛先の方にはまだ水分が残っている。早いところ乾かさないと風邪を引いてしまう恐れがある。さすがの僕でも、せっかくの旅行中に病人の世話まではしていられない。
そんなことを思っていると、俯いたままの奈加が小さく口を開いた。
「……七海はさ、大人に、憧れてるんだよね」
「うん。そうだよ」
「……じゃあさ——」
そう言って奈加は隣に座る僕に目を向けると、今まで見たどれとも異なる可笑しな笑みを浮かべて、勢いよく僕をベッドに押し倒した。
「えっ」
半端に開いた口からそんな間の抜けた声が漏れる。
一体何が起こったのか整理する暇もなく、彼女は仰向けになった僕の身体に圧し掛かると、腕を枕元に伸ばして室内の照明を落とした。室内は窓の外から入り込む僅かな明かりだけを残して、薄い暗闇に染まっていく。
やがて、暗闇に目が慣れ始めた僕の視界は、全て彼女で覆い隠されていた。
「……これは、何の冗談?」
静寂に満ちていく部屋の中で、僕は彼女の虚ろな瞳を見つめて静かに問う。
垂れ下がった彼女の黒髪。……その先端が僕の頬を優しくくすぐり、微かに漂う甘い香りが直接脳へと届く。それがシャンプーによるものなのか、それとも女性特有のものなのかは僕には判別しきれない。
……ただ、仄かに朱く上気した頬と彼女の口から時折漏れ出る熱い吐息。そして、はだけたバスローブの胸元からちらりと窺える白い肌と緩やかな曲線が、この状況がいかに非現実的なものであるかを強く物語っていた。
僕は震える唇でもう一度彼女に問いかける。
「ねぇ、これは一体……」
「七海——」
小さく耳元で囁くような、それでいて決して揺らぐことなく真っすぐに伝わる強い声で、彼女は僕の名を呼んだ。
薄闇の中、彼女の唇が微かに震える。
「……あたしと、オトナなこと……してみない?」
それは五感を彼女に支配されている僕にとって、呪いの言葉のように聞こえた。
「それはつまり、どういうこと?」
沈黙を撥ね退けるようにあわてて聞き返す僕をみて、彼女は小さく嗤う。
「七海、あたしの言ってること、本当に分かんないの? それとも、とぼけてるだけ?」
「あぁ、わからないね。それより早く退いてもらえるかな。人間って結構重たいんだよ」
「あははっ。ほんと酷いこと言うね、七海は。……でも、嘘つきの言うことは聞いてあげない」
そう言って奈加は、その白く冷ややかな手を僕の胸の上にそっと乗せると、嘲笑うかのように耳元で囁いた。
「だって、こんなにも心臓バクバクしてる。顔も赤いし、汗だってこんなに掻いてるじゃん。……それに〝ここ〟だって——」
「やめろ」
一瞬、誰が声を発したのか分からなかった。だけど、意外そうな顔をして僕をじっと見つめる奈加を見て、それが僕の口から発せられたものだと気が付いた。
熱でもあるみたいにぼんやりと霞んでいた頭がすぅーっと冴えていく。
「やめて、くれないかな」
「……どうして?」
僕は大きく息を吸い込んでから、彼女に向かって言う。
「……キミは、大人になりたくないって、そう考えてるんだろ」
「そうだよ」
「子供のまま死にたいと」
「うん」
「……それなら、今キミがしようとしていることは大きく矛盾している」
「どういうこと?」
奈加は好奇心をくすぐられる僕の言葉に素直な反応を返す。
「だってそうだろ。キミが今、僕に求めてきたのは、キミが望む『死』と真逆の……『生』を実感するための行為だ。それを、これから命を絶とうとしている人がしようとするなんて可笑しい」
「…………」
沈黙する彼女に僕は続ける。
「僕は、キミが分からない。奈加の考えていることが何一つ、理解できない」
まるで中に何もいない、水だけが入った水槽のような、透明でゆらゆらと妖しく光を反射させる彼女の瞳を見つめて、今一度問いかける。
「教えてくれ。……キミは一体、何がしたいんだ?」
彼女の言動、行動には意味がない。なぜなら、彼女は本能のままに動く獣のような人だから。場所や時間、状況に捕らわれず、自分のやりたいことを一番に優先する。それが彼女の本質だと思っていた。
……それなのに、今の彼女からはそれが感じられない。なんだか自分のためじゃなく、あくまで僕のために行動を起こそうとしているように思えてならない。
一体彼女が何を思い、何を考えてこういう状況を創り出したのか、彼女の口から直接聞きたいと思った。
けれど、彼女から返ってきた言葉は、僕の欲する答えとは異なるものだった。
奈加は少しの沈黙を挟んだ後、今までの雰囲気がすべて夢だったみたいにケラケラと笑い出すと、室内の明かりを点け直し、僕の身体から離れて言う。
「本当に、難しいこと考えるの好きなんだね、七海はさ」
「えっ?」
「あーあ、しらけちゃったな。七海があんまりにも可哀想だから、あたしが全力で慰めてあげようと思っただけなのにさ。ちょっとは空気読んでよねー」
「……慰める? キミが僕を?」
「だって七海、女の子と触れ合う機会たくさんあったのに全然仲良くなれなかったみたいだし。きっと、周りの男子はみんな、七海よりも先に大人になってるよ」
僕には、彼女の言っている言葉の意味がほとんど分からなかったけれど、遠回しに馬鹿にされていることだけはなんとなく理解できた。
同時に、彼女が僕に対して行おうとしたことが彼女なりの慰めだと知って、形容しがたい不快さが僕の内側を激しく這いずり回るのを感じた。
僕は無言でベッドから立ち上がると、隅に置かれたスーツケースから着替えを取り出し、バスルームへと向かう。
「七海?」
そんな彼女の問いかけに反応することもなく扉にしっかりと鍵を閉めると、服を脱いで浴槽のカーテンを引く。そうして蛇口を強くひねると、少し温いシャワーが勢いよく噴射した。僕はそれを頭から被って全身を洗い流すと、声を漏らさないように必死で下唇を強く噛み締める。
「…………」
バスルームには五月蠅いほどのシャワー音と微かな熱気、……それから、吐き気を催すような甘く淫靡な香りが、姿もなく、ただそこに漂っていた。
まさか本当に奈加が夕食代を全額支払ってくれるとは思っていなくて少し驚いたけど、それも彼女の話を聞いた後では、何でもないことに思えた。
そうして部屋に帰って来るなり、奈加は「シャワーを浴びたい」と言って、被っていた黒のキャップ帽と背負っていたリュックサックをベッドの上に置くと、着替えと小さなポーチを取り出してバスルームへと向かった。
「あ、覗きたかったら別に入ってきてもいいからねー」
「あんまり馬鹿なこと言ってると追い出すよ」
「あはっ、顔こわーい」
あんな話をしておいてなお、彼女は彼女のままだ。僕にはそれが、ひどく恐ろしいものとして映っている。
僕はバスルームの扉がしっかりと閉まったことを確認して、ベッドに寝転んだ。
「……はぁ」
あの場ではなんとか平静を保てていたけれど、いざこうして一人になってみると、彼女の言葉と、それに似つかわしくないあの狂気すら感じる笑顔で頭がどうにかなりそうだった。
僕は深く息を吐いて天井を見上げる。だけど、いくら目を凝らしたところで、そこに僕の望む答えが現れることはない。
「…………はぁ」
さっきよりもさらに深く長い溜息を吐いて、僕は大窓の方に目を向ける。
時刻は午後九時。これから家に帰る人も多いんだろう。ホテル前の国道134号線ではいくつもの車が列を成し、ヘッドライトやテールランプの明かりが、ぼやけた光の泡として室内にまで届いていた。
確かにその光景は、人工的に生み出されたにしては綺麗で幻想的だと思った。だけど、やっぱり感動するまでには至らなかった。その原因が彼女の話によるものなのか、はたまたバスルームから絶えず聴こえてくるシャワーの音によるものなのかは僕にも分からない。
ただ、僕の精神が彼女にかき乱されていることは、間違いのない事実だった。
僕はベッドに寝転がったまま首だけを動かして、バスルームの方に目を向ける。
……この旅が終われば、きっと僕は大人になる。
周りに頼ってばかりだった子供の自分と決別し、社会を正常に動かす歯車の一つとして、責任と信頼と自由を抱えて生きていくことが出来る。誰かの支えなんていらない。僕は一人でも大丈夫だと、ようやく周りに証明することが出来る。そんな未来が待ち遠しくて堪らなかった。
でも、彼女と……奈加と出逢ってから、今まで揺らぐことのなかった大人への憧れと、子供のままでいることに対する嫌悪感が、少し疑わしく思えてきた。
自分は本当に大人になってもいいんだろうか。そもそも、自分は本当に大人になりたいのだろうか。考えれば考えるほど、自分が分からなくなっていく。
あぁ、本当に、どうしてこうなってしまったんだろう……。
これも全て、あの時彼女の横顔に見惚れてしまったのがいけなかったんだ。
あそこで何も考えず、ただ素通りしていれば、僕は今頃一人で静かに明日の予定を立てていられたはずなのに。
そんな遅すぎる後悔に浸っていると、バスローブに身を包んだ奈加が白い蒸気を纏ってバスルームから出てきた。
「ふぅ、さっぱりした。潮風のせいで髪とか結構ギシギシ言ってたからねー。ってか、わざとドアのカギ開けておいたのにマジで覗きに来ないとか、七海ほんとに男?」
そう言って奈加は挑発的な視線を僕に向ける。だけど僕には、そんな挑発に乗るような余力も度胸も無いので軽く受け流す。
「期待に応えられなくて悪いね。そんなことより、髪乾かしたら?」
「んー、七海が乾かしてよ」
「嫌だ」
「えー、いいの? 女の子の髪を触れる機会なんて滅多にないよ?」
「お気遣いありがとう。でも僕、実は人毛アレルギーなんだ」
「へぇ、変わったアレルギー持ってるんだね。それじゃあ、仕方ない。自分で乾かすよ」
「そうしてくれると助かる」
僕は彼女の濡れた髪から滴り落ちる水滴を目で追いながら、適当な嘘をついて無理やり話を終わらせる。 それから奈加はバスルームからドライヤーを取って来ると、わざわざ鏡台前の椅子に座って髪を乾かし始めた。
室内にドライヤーの送風音が轟く。
「——ねぇ」
一本一本が細く柔らかな黒髪を、優しく手で梳くように乾かす奈加が鏡に反射して映る僕に向かって声を掛けた。
「何?」
「七海って、彼女とかいるの?」
突然の質問に一瞬困惑したものの、彼女の言動に深い意味があるわけじゃないことを思い出し、冷静に言葉を返す。
「もし、いるように見えたなら、今すぐ病院に行って検査してもらった方がいいよ」
「あははっ! 検査は言い過ぎでしょ」
「面白いことを言ったつもりはないんだけど」
「ごめんごめん。別に深い意味があって訊いたわけじゃないんだ」
ほら、やっぱり。
もし何か気になることがあれば、回りくどいことはせずに直接尋ねる。それが彼女のやり方だ。
僕は、彼女に対する自分の観察眼が正しかったことに少しばかりの満足感を覚えながら、彼女の言葉の続きに耳を傾ける。
「……あたし、今まで歳の近い友達とこういう普通の会話したことなかったからさ、一回してみたくなったの。ただ、それだけ」
「今のって普通の会話だったの? 僕には異文化圏のコミュニケーションにしか思えなかったけど」
事実、僕はこれまでの学生生活で、誰かと恋愛について話をしたことがたった一度すらなかった。教室でそう言った話題がちらほら聴こえてくることはあったけど、僕がそれに参加したことは一度もない。だから、それが奈加の言う『普通の会話』に含まれるのかどうかは、正直僕にはよくわからなかった。
「えっ、七海って昨日まで高校生だったんだよね? 高校生なら普通、恋バナの一つや二つ普通にするもんじゃないの?」
奈加はまだ乾かし途中の髪を無視してドライヤーの電源をオフにすると、勢いよく振り返り、信じられないものを見るような目で僕を見つめた。
「いや、僕はしたことないけど」
「……うわ、マジか」
「でも、クラスにはそう言った話で盛り上がってる人はたくさんいたよ」
「それってつまり、七海はクラスの人たちからハブられてたってこと?」
「……まぁ、客観的に見たらそう見えるかもしれない。でも、僕自身、友達は必要ないと思って生活してたから、何も問題なかったけどね」
「……いや、問題あるでしょ」
奈加はそれまで浮かべていた驚愕の表情から、まるで可哀想なものを見るような憐みの表情に変えると小さく息を吐いて、僕のすぐ隣……ベッドの上に腰を下ろした。
「どうしたの? まだ、髪乾ききってないみたいだけど」
僕は俯いたまま沈黙する彼女の、綺麗に整った横顔に目を向けながら、そう問いかけた。
見たところ、毛先の方にはまだ水分が残っている。早いところ乾かさないと風邪を引いてしまう恐れがある。さすがの僕でも、せっかくの旅行中に病人の世話まではしていられない。
そんなことを思っていると、俯いたままの奈加が小さく口を開いた。
「……七海はさ、大人に、憧れてるんだよね」
「うん。そうだよ」
「……じゃあさ——」
そう言って奈加は隣に座る僕に目を向けると、今まで見たどれとも異なる可笑しな笑みを浮かべて、勢いよく僕をベッドに押し倒した。
「えっ」
半端に開いた口からそんな間の抜けた声が漏れる。
一体何が起こったのか整理する暇もなく、彼女は仰向けになった僕の身体に圧し掛かると、腕を枕元に伸ばして室内の照明を落とした。室内は窓の外から入り込む僅かな明かりだけを残して、薄い暗闇に染まっていく。
やがて、暗闇に目が慣れ始めた僕の視界は、全て彼女で覆い隠されていた。
「……これは、何の冗談?」
静寂に満ちていく部屋の中で、僕は彼女の虚ろな瞳を見つめて静かに問う。
垂れ下がった彼女の黒髪。……その先端が僕の頬を優しくくすぐり、微かに漂う甘い香りが直接脳へと届く。それがシャンプーによるものなのか、それとも女性特有のものなのかは僕には判別しきれない。
……ただ、仄かに朱く上気した頬と彼女の口から時折漏れ出る熱い吐息。そして、はだけたバスローブの胸元からちらりと窺える白い肌と緩やかな曲線が、この状況がいかに非現実的なものであるかを強く物語っていた。
僕は震える唇でもう一度彼女に問いかける。
「ねぇ、これは一体……」
「七海——」
小さく耳元で囁くような、それでいて決して揺らぐことなく真っすぐに伝わる強い声で、彼女は僕の名を呼んだ。
薄闇の中、彼女の唇が微かに震える。
「……あたしと、オトナなこと……してみない?」
それは五感を彼女に支配されている僕にとって、呪いの言葉のように聞こえた。
「それはつまり、どういうこと?」
沈黙を撥ね退けるようにあわてて聞き返す僕をみて、彼女は小さく嗤う。
「七海、あたしの言ってること、本当に分かんないの? それとも、とぼけてるだけ?」
「あぁ、わからないね。それより早く退いてもらえるかな。人間って結構重たいんだよ」
「あははっ。ほんと酷いこと言うね、七海は。……でも、嘘つきの言うことは聞いてあげない」
そう言って奈加は、その白く冷ややかな手を僕の胸の上にそっと乗せると、嘲笑うかのように耳元で囁いた。
「だって、こんなにも心臓バクバクしてる。顔も赤いし、汗だってこんなに掻いてるじゃん。……それに〝ここ〟だって——」
「やめろ」
一瞬、誰が声を発したのか分からなかった。だけど、意外そうな顔をして僕をじっと見つめる奈加を見て、それが僕の口から発せられたものだと気が付いた。
熱でもあるみたいにぼんやりと霞んでいた頭がすぅーっと冴えていく。
「やめて、くれないかな」
「……どうして?」
僕は大きく息を吸い込んでから、彼女に向かって言う。
「……キミは、大人になりたくないって、そう考えてるんだろ」
「そうだよ」
「子供のまま死にたいと」
「うん」
「……それなら、今キミがしようとしていることは大きく矛盾している」
「どういうこと?」
奈加は好奇心をくすぐられる僕の言葉に素直な反応を返す。
「だってそうだろ。キミが今、僕に求めてきたのは、キミが望む『死』と真逆の……『生』を実感するための行為だ。それを、これから命を絶とうとしている人がしようとするなんて可笑しい」
「…………」
沈黙する彼女に僕は続ける。
「僕は、キミが分からない。奈加の考えていることが何一つ、理解できない」
まるで中に何もいない、水だけが入った水槽のような、透明でゆらゆらと妖しく光を反射させる彼女の瞳を見つめて、今一度問いかける。
「教えてくれ。……キミは一体、何がしたいんだ?」
彼女の言動、行動には意味がない。なぜなら、彼女は本能のままに動く獣のような人だから。場所や時間、状況に捕らわれず、自分のやりたいことを一番に優先する。それが彼女の本質だと思っていた。
……それなのに、今の彼女からはそれが感じられない。なんだか自分のためじゃなく、あくまで僕のために行動を起こそうとしているように思えてならない。
一体彼女が何を思い、何を考えてこういう状況を創り出したのか、彼女の口から直接聞きたいと思った。
けれど、彼女から返ってきた言葉は、僕の欲する答えとは異なるものだった。
奈加は少しの沈黙を挟んだ後、今までの雰囲気がすべて夢だったみたいにケラケラと笑い出すと、室内の明かりを点け直し、僕の身体から離れて言う。
「本当に、難しいこと考えるの好きなんだね、七海はさ」
「えっ?」
「あーあ、しらけちゃったな。七海があんまりにも可哀想だから、あたしが全力で慰めてあげようと思っただけなのにさ。ちょっとは空気読んでよねー」
「……慰める? キミが僕を?」
「だって七海、女の子と触れ合う機会たくさんあったのに全然仲良くなれなかったみたいだし。きっと、周りの男子はみんな、七海よりも先に大人になってるよ」
僕には、彼女の言っている言葉の意味がほとんど分からなかったけれど、遠回しに馬鹿にされていることだけはなんとなく理解できた。
同時に、彼女が僕に対して行おうとしたことが彼女なりの慰めだと知って、形容しがたい不快さが僕の内側を激しく這いずり回るのを感じた。
僕は無言でベッドから立ち上がると、隅に置かれたスーツケースから着替えを取り出し、バスルームへと向かう。
「七海?」
そんな彼女の問いかけに反応することもなく扉にしっかりと鍵を閉めると、服を脱いで浴槽のカーテンを引く。そうして蛇口を強くひねると、少し温いシャワーが勢いよく噴射した。僕はそれを頭から被って全身を洗い流すと、声を漏らさないように必死で下唇を強く噛み締める。
「…………」
バスルームには五月蠅いほどのシャワー音と微かな熱気、……それから、吐き気を催すような甘く淫靡な香りが、姿もなく、ただそこに漂っていた。
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