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第5話
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午後九時。
部屋に備え付けられた二つのシングルベッドのうち一つ、窓側のベッドに仰向けになりながら、僕はシミ一つない真っ白な天井をただじっと見つめていた。大窓からは国道134号線を走る自動車のライトが、夜の鎌倉を淡く照らし出している様子が微かに窺える。
昨日までの僕なら、この何気ない日常のワンシーンでさえも『価値のあるもの』として強く心に残っただろう。だけど、今の僕にはそれらが数あるホテルの一室の、何の変哲もないただの天井と車道を走るただの自動車の群れとしか思えない。
そこには何の感情も生まれないし、感動もやってこない。
別に、この旅に飽きてしまったというわけじゃない。
……ただ、感動に割けるだけの感情のリソースが今の僕にはないというだけ。
僕はベッドに仰向けになったまま首だけを動かして、先ほどから絶えず聞こえてくるシャワーの音……、その発生源であるバスルームの方に目を向ける。
……どうしてこうなったんだっけ。
僕は数時間前の記憶を振り返るように、そっと瞼を閉じた。
***
日も暮れ、夜の足音が徐々に聞こえつつある坂ノ下海岸。そこに面した歩道の上で、僕は正面に立って笑みを浮かべる桐野さんに向かって聞き返す。
「……なんだって?」
「聞こえなかった? 今晩、七海の泊まってる部屋にあたしも泊めてって言ったの」
桐野さんはまるで挨拶でもするみたいに簡単に、そしていたって真面目な顔をして同じセリフを繰り返した。
……どうやら、聞き間違いじゃないみたいだ。
出会って間もない相手。それも、ほとんど歳の変わらないであろう異性に対して突然「泊めて」だなんて、そんなこと本気で言う人がいるなんて信じられなかった。もし仮にそう聞こえたとしても、僕の聞き間違いか、あるいはからかい目的で言っていると思うのが正常は思考だろう。
僕は一度考えることをやめて、彼女に訊ねる。
「どうして、僕の部屋なの?」
「どうして?」
「この時期なら、どこのホテルでも空き部屋はあるはずだし、今からでも十分宿泊は間に合う。それなのに、どうして僕の部屋に泊まろうとするの?」
それはいたって純粋な疑問だった。
数ある選択肢の中から僕の部屋を選ぶのは明らかな間違いだと理解した上で、そうせざるを得ない特別な事情が彼女にあるのであれば、僕はそれを知りたいと思った。
けれど、彼女の口から出てきた答えは悪い意味で僕の期待を裏切るものだった。
「えっ? そんなの、できるだけ安く済ませるために決まってるじゃん」
「……安く、済ませる。……それだけ?」
「うん。だって新しく部屋を取るより、誰かと同室の方がぐっと出費抑えられるでしょ?」
そう言って彼女は、開いた口が塞がらないでいる僕を見て不思議そうに首を傾げる。
……まるで、理解できない僕の方がおかしいとでも言うかのように——。
「……なるほどね」
納得はしていない。それどころか、彼女の考えを理解することすらも、僕はまだしていない。だけど、そう口にしないとこれ以上話が進まないと思った。
僕は、大きく息を吐き出してから彼女に向かって言葉を続ける。
「悪いけど、それは出来ない」
「えー、なんで?」
「キミは知らないのかもしれないけど、普通……世間一般的には、会って間もない素性もよく分からない相手を部屋に泊めることはしないんだ。それも相手が異性ならなおさらさ」
僕は常識の身についていない桐野さんでも理解できるように、出来るだけわかりやすく、かつ丁寧にその理由を述べた。
けれど桐野さんは、それでも僕の言っている言葉の意味を上手く理解できないらしく、不満げな表情で僕に問いかける。
「だからさ、なんで会って間もない異性と同じ部屋に泊まっちゃダメなわけ? 別に七海に迷惑かけるつもりはないし、ただシャワーとベッドだけ貸してくれればいいんだけど」
「いや、迷惑がどうこう言う話じゃなくて……」
思わぬ質問にほんの少し動揺を露わにしながらも、僕はなんとか納得してもらえるよう必死に言葉を探す。けれど、そんな僕の動揺を見逃さなかった桐野さんは、お手本のようなしたり顔で口を開いた。
「……あ、もしかして。あたしと一緒の部屋だと、興奮して眠れないとか?」
「…………」
思えばこれが僕の最大のミスだった。
ここでもっと冷静に対応出来ていたら、また別の展開になっていたかもしれない。彼女にペースを握られることもなかったかもしれない。
桐野さんは無言のまま立ち尽くす僕を見て、「図星だ」とでも言わんばかりのにやけ顔を披露して言った。
「そっかそっか! でもまぁ仕方ないよね。ほら、あたしって普通にかわいいし、スタイルもいいし。欲情しちゃうのも当然だよね。それじゃあ、残念だけど諦めるしか……」
「違うに決まってるだろ! 僕はあくまで常識的な話として……」
「ふーん、あっそ……違うんだ。なら、何も問題ないよね。あ、七海の泊まってるホテルってこっちで合ってる?」
桐野さんは「お前の話なんてどうでもいい」とでも言うかのように話を打ち切ると、僕が宿泊しているホテル目掛けてまっすぐに歩き出した。
「ちょっと待ってよ。まだ泊めるなんて一言も……」
「細かい話はあとあと。とりあえずは、ご飯とシャワーが欲しいかなー。今日は長旅で少し疲れたし」
「…………」
僕は掴みどころのないふわふわとした雲のような彼女に自ら負けを認めるような形でため息を吐くと、遠くで「早く来い」と楽し気に手招きする桐野さんを見て、もう一度深く息を吐いた。
……幸い、部屋はツインルームだからベッドは空いている。それにもしもの時は、もう一部屋新しく借りて僕が部屋を移動すればいい。
そんな風に無理やり自分自身を納得させると、僕は寒さと疲労と敗北感で重量化した足を引きずるようにして、彼女の後ろを歩き始めた。
部屋に備え付けられた二つのシングルベッドのうち一つ、窓側のベッドに仰向けになりながら、僕はシミ一つない真っ白な天井をただじっと見つめていた。大窓からは国道134号線を走る自動車のライトが、夜の鎌倉を淡く照らし出している様子が微かに窺える。
昨日までの僕なら、この何気ない日常のワンシーンでさえも『価値のあるもの』として強く心に残っただろう。だけど、今の僕にはそれらが数あるホテルの一室の、何の変哲もないただの天井と車道を走るただの自動車の群れとしか思えない。
そこには何の感情も生まれないし、感動もやってこない。
別に、この旅に飽きてしまったというわけじゃない。
……ただ、感動に割けるだけの感情のリソースが今の僕にはないというだけ。
僕はベッドに仰向けになったまま首だけを動かして、先ほどから絶えず聞こえてくるシャワーの音……、その発生源であるバスルームの方に目を向ける。
……どうしてこうなったんだっけ。
僕は数時間前の記憶を振り返るように、そっと瞼を閉じた。
***
日も暮れ、夜の足音が徐々に聞こえつつある坂ノ下海岸。そこに面した歩道の上で、僕は正面に立って笑みを浮かべる桐野さんに向かって聞き返す。
「……なんだって?」
「聞こえなかった? 今晩、七海の泊まってる部屋にあたしも泊めてって言ったの」
桐野さんはまるで挨拶でもするみたいに簡単に、そしていたって真面目な顔をして同じセリフを繰り返した。
……どうやら、聞き間違いじゃないみたいだ。
出会って間もない相手。それも、ほとんど歳の変わらないであろう異性に対して突然「泊めて」だなんて、そんなこと本気で言う人がいるなんて信じられなかった。もし仮にそう聞こえたとしても、僕の聞き間違いか、あるいはからかい目的で言っていると思うのが正常は思考だろう。
僕は一度考えることをやめて、彼女に訊ねる。
「どうして、僕の部屋なの?」
「どうして?」
「この時期なら、どこのホテルでも空き部屋はあるはずだし、今からでも十分宿泊は間に合う。それなのに、どうして僕の部屋に泊まろうとするの?」
それはいたって純粋な疑問だった。
数ある選択肢の中から僕の部屋を選ぶのは明らかな間違いだと理解した上で、そうせざるを得ない特別な事情が彼女にあるのであれば、僕はそれを知りたいと思った。
けれど、彼女の口から出てきた答えは悪い意味で僕の期待を裏切るものだった。
「えっ? そんなの、できるだけ安く済ませるために決まってるじゃん」
「……安く、済ませる。……それだけ?」
「うん。だって新しく部屋を取るより、誰かと同室の方がぐっと出費抑えられるでしょ?」
そう言って彼女は、開いた口が塞がらないでいる僕を見て不思議そうに首を傾げる。
……まるで、理解できない僕の方がおかしいとでも言うかのように——。
「……なるほどね」
納得はしていない。それどころか、彼女の考えを理解することすらも、僕はまだしていない。だけど、そう口にしないとこれ以上話が進まないと思った。
僕は、大きく息を吐き出してから彼女に向かって言葉を続ける。
「悪いけど、それは出来ない」
「えー、なんで?」
「キミは知らないのかもしれないけど、普通……世間一般的には、会って間もない素性もよく分からない相手を部屋に泊めることはしないんだ。それも相手が異性ならなおさらさ」
僕は常識の身についていない桐野さんでも理解できるように、出来るだけわかりやすく、かつ丁寧にその理由を述べた。
けれど桐野さんは、それでも僕の言っている言葉の意味を上手く理解できないらしく、不満げな表情で僕に問いかける。
「だからさ、なんで会って間もない異性と同じ部屋に泊まっちゃダメなわけ? 別に七海に迷惑かけるつもりはないし、ただシャワーとベッドだけ貸してくれればいいんだけど」
「いや、迷惑がどうこう言う話じゃなくて……」
思わぬ質問にほんの少し動揺を露わにしながらも、僕はなんとか納得してもらえるよう必死に言葉を探す。けれど、そんな僕の動揺を見逃さなかった桐野さんは、お手本のようなしたり顔で口を開いた。
「……あ、もしかして。あたしと一緒の部屋だと、興奮して眠れないとか?」
「…………」
思えばこれが僕の最大のミスだった。
ここでもっと冷静に対応出来ていたら、また別の展開になっていたかもしれない。彼女にペースを握られることもなかったかもしれない。
桐野さんは無言のまま立ち尽くす僕を見て、「図星だ」とでも言わんばかりのにやけ顔を披露して言った。
「そっかそっか! でもまぁ仕方ないよね。ほら、あたしって普通にかわいいし、スタイルもいいし。欲情しちゃうのも当然だよね。それじゃあ、残念だけど諦めるしか……」
「違うに決まってるだろ! 僕はあくまで常識的な話として……」
「ふーん、あっそ……違うんだ。なら、何も問題ないよね。あ、七海の泊まってるホテルってこっちで合ってる?」
桐野さんは「お前の話なんてどうでもいい」とでも言うかのように話を打ち切ると、僕が宿泊しているホテル目掛けてまっすぐに歩き出した。
「ちょっと待ってよ。まだ泊めるなんて一言も……」
「細かい話はあとあと。とりあえずは、ご飯とシャワーが欲しいかなー。今日は長旅で少し疲れたし」
「…………」
僕は掴みどころのないふわふわとした雲のような彼女に自ら負けを認めるような形でため息を吐くと、遠くで「早く来い」と楽し気に手招きする桐野さんを見て、もう一度深く息を吐いた。
……幸い、部屋はツインルームだからベッドは空いている。それにもしもの時は、もう一部屋新しく借りて僕が部屋を移動すればいい。
そんな風に無理やり自分自身を納得させると、僕は寒さと疲労と敗北感で重量化した足を引きずるようにして、彼女の後ろを歩き始めた。
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