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第3話
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ジリリリリリリリ。
枕元でけたたましく鳴り続けるアラームの音。それによって強制的に夢の世界から引き戻された僕は、鉛のように重い腕を伸ばし音の発生源を引き寄せる。まだ完全に開き切らない目で手元のそれ……もとい自分のスマートフォンを確認すると、画面上に『7:00』と『停止』の文字がちらりと見えた。僕は迷わず『停止』の文字をタップすると、再び腕を布団の中に潜り込ませる。けれど、数秒してここが自宅ではないことと現在鎌倉に観光に来ていることを思い出し、のそのそとベッドから起き上がった。それから、よろめく足で窓の傍までやって来ると、目の前のカーテンを勢いよく開く。瞬間、それまで薄暗かった室内に鎌倉の優しい朝の陽ざしがすっと差し込んできた。
三月にしては良く晴れた空だ。そんなことを思いながら視線を少し下に向けると、そこには昨晩月明かりに照らされ黒く妖しげに煌めいていた相模湾が、今は日の光を浴びて鮮やかな青色に煌めいているのが見えた。
朝からこんなにも美しい景色を間近に見ることが出来るなんて贅沢だな。
そんなことを心の中で呟くと、僕はバスルームに設置された洗面台で顔を洗い、部屋に備え付けられた薄型テレビでぼんやりとニュース番組を眺めながら、昨晩コンビニで購入しておいた菓子パンを口に運んだ。
テレビ画面には中年の男性と若い女性キャスターが映っており、今朝のトップニュースを淡々と紹介している。
『近年、若年層の自殺者増加が問題になっていますよね』
『えぇ。今後、どういった対策を行っていくのがいいんでしょう』
『そうですねぇ、難しい問題ですからねぇ』
そんな答えの出ない無駄な会話が数秒続き、話題は人気タレントの熱愛報道へと移った。
正直、若年層の自殺率増加や自分と一切関わりのない人間の恋愛事情なんてのはどうだっていい。今の僕にとって重要なのは、今日、どこを優先的に見て周るのが最適かということだ。
僕はテレビの画面を消して残りの菓子パンを口に詰め込むと、すぐに着替えを済ませ、スクールバッグに必要最低限の荷物だけを入れて部屋を出た。それからエレベーターに乗り込み一階のフロントまでやってくると、昨晩と同じホテルマンに見送られながらホテルを後にした。
部屋から見えた景色は確かに春の装いを纏っていたけれど、こうして外に出てみると大気は未だに寒気を帯びていて、むき出しになった頬や耳がひりひりと少し痛む。僕はセーターの上に羽織ったコートの襟を内側に引き寄せると、最寄りの長谷駅に向かって坂ノ下海岸に面した歩道の上を足早に進んだ。
十分ほどして目的の長谷駅に到着すると、窓口で『江ノ電一日乗車券』なるものを購入し、やがてホームにやってきた鎌倉行きの緑の車体に乗り込む。
平日の朝ということもあって、車内にはこれから職場に向かうであろうスーツ姿の男性や、通学途中の学生の姿が多く見受けられた。そのほとんどは疲れの残った陰鬱な表情でスマホを操作したり、じっと足元に視線を向けながら吊革に手をかけている。
窓の外にはこんなにも美しい景色があるのに、誰もそれに目を向けようとしない。
ほんの少し視線を上げるだけでその景色を目にすることが出来るというのに、真っ黒な影でも纏っているかのような乗客たちは、変わらず自分の手元や足元に目を向け続けている。そんな彼らを見て、僕は上手く言語化できないもどかしさのようなものを感じた。
きっと、彼らにとってこの景色は、どこにでもあるごくありふれた風景の一つに過ぎないのだ。この景色を見て、「なんて綺麗な景色なんだ」と心を強く揺さぶられている人が全くいないのは、つまりそういうことだからなんだろう。
そう思うとなんだか、彼らが少しかわいそうに思えてくる。
……だってそうだろ? 彼らには、この景色を眺めている今の僕の気持ちが全くもって理解できないのだから。この景色に対する感動を、既に失ってしまっているのだから——。
そんなことを考えているうちに、僕たちを乗せた江ノ電は由比ヶ浜駅と和田塚駅でしばらく停車したのち、目的の鎌倉駅へとやってきた。停車とほぼ同時に車掌のアナウンスが行われると、車両の前後に備え付けられた扉が微かな作動音を響かせながらゆっくりと開き、乗客たちは押し出されるようにぞろぞろとホームに降り立った。僕もそんな彼らの後を追うようにして下車する。
平日の午前九時前ということもあってか、鎌倉駅には昨日とは比べ物にならないほどの利用客の姿があった。さらに良く周りを見渡してみると、そのまま改札を出て徒歩で職場や学校に向かう人の姿もあれば、さらに電車を乗り換えて目的地へ急ぐ人の姿も見られ、今日が月曜日であるということを強く思い知らされる。
そんな働きアリのように決まったルートを行き来する人たちを横目にしながら、僕は鎌倉駅東口改札を抜け、スマホで今後の予定を今一度確認する。
せっかく鎌倉まで来たんだから、神社仏閣には一通り足を運んでおきたい。もちろん一番の目的だった鎌倉の海もよく見ておきたいし、時間があれば北鎌倉か江ノ島の方にも足を延ばしてみたい。
とりあえずは、今ちょうど左手に見えている大きな赤い鳥居……その先に続く小町通りに向かって歩いてみよう。さっき朝食は済ませたけれど、まだ若干お腹が空いているし、軽く何かつまみながら鎌倉の街を散策してみるのも良さそうだ。
そんな感じでこれからのスケジュールを大まかに決めると、手に持ったスマホをコートのポケットにしまって今一度スクールバッグを肩にかけ直し、三月の青空の下、僕は鎌倉観光の第一歩を大きく踏み出した。
枕元でけたたましく鳴り続けるアラームの音。それによって強制的に夢の世界から引き戻された僕は、鉛のように重い腕を伸ばし音の発生源を引き寄せる。まだ完全に開き切らない目で手元のそれ……もとい自分のスマートフォンを確認すると、画面上に『7:00』と『停止』の文字がちらりと見えた。僕は迷わず『停止』の文字をタップすると、再び腕を布団の中に潜り込ませる。けれど、数秒してここが自宅ではないことと現在鎌倉に観光に来ていることを思い出し、のそのそとベッドから起き上がった。それから、よろめく足で窓の傍までやって来ると、目の前のカーテンを勢いよく開く。瞬間、それまで薄暗かった室内に鎌倉の優しい朝の陽ざしがすっと差し込んできた。
三月にしては良く晴れた空だ。そんなことを思いながら視線を少し下に向けると、そこには昨晩月明かりに照らされ黒く妖しげに煌めいていた相模湾が、今は日の光を浴びて鮮やかな青色に煌めいているのが見えた。
朝からこんなにも美しい景色を間近に見ることが出来るなんて贅沢だな。
そんなことを心の中で呟くと、僕はバスルームに設置された洗面台で顔を洗い、部屋に備え付けられた薄型テレビでぼんやりとニュース番組を眺めながら、昨晩コンビニで購入しておいた菓子パンを口に運んだ。
テレビ画面には中年の男性と若い女性キャスターが映っており、今朝のトップニュースを淡々と紹介している。
『近年、若年層の自殺者増加が問題になっていますよね』
『えぇ。今後、どういった対策を行っていくのがいいんでしょう』
『そうですねぇ、難しい問題ですからねぇ』
そんな答えの出ない無駄な会話が数秒続き、話題は人気タレントの熱愛報道へと移った。
正直、若年層の自殺率増加や自分と一切関わりのない人間の恋愛事情なんてのはどうだっていい。今の僕にとって重要なのは、今日、どこを優先的に見て周るのが最適かということだ。
僕はテレビの画面を消して残りの菓子パンを口に詰め込むと、すぐに着替えを済ませ、スクールバッグに必要最低限の荷物だけを入れて部屋を出た。それからエレベーターに乗り込み一階のフロントまでやってくると、昨晩と同じホテルマンに見送られながらホテルを後にした。
部屋から見えた景色は確かに春の装いを纏っていたけれど、こうして外に出てみると大気は未だに寒気を帯びていて、むき出しになった頬や耳がひりひりと少し痛む。僕はセーターの上に羽織ったコートの襟を内側に引き寄せると、最寄りの長谷駅に向かって坂ノ下海岸に面した歩道の上を足早に進んだ。
十分ほどして目的の長谷駅に到着すると、窓口で『江ノ電一日乗車券』なるものを購入し、やがてホームにやってきた鎌倉行きの緑の車体に乗り込む。
平日の朝ということもあって、車内にはこれから職場に向かうであろうスーツ姿の男性や、通学途中の学生の姿が多く見受けられた。そのほとんどは疲れの残った陰鬱な表情でスマホを操作したり、じっと足元に視線を向けながら吊革に手をかけている。
窓の外にはこんなにも美しい景色があるのに、誰もそれに目を向けようとしない。
ほんの少し視線を上げるだけでその景色を目にすることが出来るというのに、真っ黒な影でも纏っているかのような乗客たちは、変わらず自分の手元や足元に目を向け続けている。そんな彼らを見て、僕は上手く言語化できないもどかしさのようなものを感じた。
きっと、彼らにとってこの景色は、どこにでもあるごくありふれた風景の一つに過ぎないのだ。この景色を見て、「なんて綺麗な景色なんだ」と心を強く揺さぶられている人が全くいないのは、つまりそういうことだからなんだろう。
そう思うとなんだか、彼らが少しかわいそうに思えてくる。
……だってそうだろ? 彼らには、この景色を眺めている今の僕の気持ちが全くもって理解できないのだから。この景色に対する感動を、既に失ってしまっているのだから——。
そんなことを考えているうちに、僕たちを乗せた江ノ電は由比ヶ浜駅と和田塚駅でしばらく停車したのち、目的の鎌倉駅へとやってきた。停車とほぼ同時に車掌のアナウンスが行われると、車両の前後に備え付けられた扉が微かな作動音を響かせながらゆっくりと開き、乗客たちは押し出されるようにぞろぞろとホームに降り立った。僕もそんな彼らの後を追うようにして下車する。
平日の午前九時前ということもあってか、鎌倉駅には昨日とは比べ物にならないほどの利用客の姿があった。さらに良く周りを見渡してみると、そのまま改札を出て徒歩で職場や学校に向かう人の姿もあれば、さらに電車を乗り換えて目的地へ急ぐ人の姿も見られ、今日が月曜日であるということを強く思い知らされる。
そんな働きアリのように決まったルートを行き来する人たちを横目にしながら、僕は鎌倉駅東口改札を抜け、スマホで今後の予定を今一度確認する。
せっかく鎌倉まで来たんだから、神社仏閣には一通り足を運んでおきたい。もちろん一番の目的だった鎌倉の海もよく見ておきたいし、時間があれば北鎌倉か江ノ島の方にも足を延ばしてみたい。
とりあえずは、今ちょうど左手に見えている大きな赤い鳥居……その先に続く小町通りに向かって歩いてみよう。さっき朝食は済ませたけれど、まだ若干お腹が空いているし、軽く何かつまみながら鎌倉の街を散策してみるのも良さそうだ。
そんな感じでこれからのスケジュールを大まかに決めると、手に持ったスマホをコートのポケットにしまって今一度スクールバッグを肩にかけ直し、三月の青空の下、僕は鎌倉観光の第一歩を大きく踏み出した。
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