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本城咲希の贖罪⑦

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 ——Re:Re:八月三日。午前十一時三十四分。
 凪波大学第一キャンパス 図書館。


 凪波大学が管理する図書館は、広大な敷地の北東部——青い葉をつけた桜の木が並ぶ奥まったところにひっそりと建っていた。
 外壁を覆うコンクリートブロックはやけに無機質で、真夏だというのに冷気すら感じる。

 大学図書館は一階から四階までフロアが存在し、一階にはエントランスと返却ボックス。二階には学習スペースと一般文芸の棚。三階には学習スペースと主に論文執筆に必要となってくる専門書や資料集の棚。そして、四階には視聴覚室とバックナンバーの保管室がそれぞれ入っている。
 立地条件も相まってか、たとえ本校の学生であっても試験期間以外はほとんど人が訪れない。やってくるのは、せいぜい静寂を好む人間か、これといった理由もなく暇つぶしで訪れる人間くらい。
 そんな、ただでさえ人の往来が少ないこの場所も、全くの無人となれば印象も少し変わってくる。

 ……学生も、教師も、司書もいない。
 ただ無数の書物だけが、息を殺して行儀よく書架に並んでいる。
 なんとも異様な光景が、そこには広がっていた。

 本城咲希はそんな〝異様〟を意にも介さず、ただ静かに二階窓際の席で黙々と手元の文庫本を読み進めていた。

 時折、ウェーブのかかった長い髪を鬱陶しそうに払いのけながら、ページを捲る咲希。
 シルバーフレームの奥に見える彼女の瞳は、窓の外の青々とした桜の葉や、コントラストの強い影、点々と雲が浮かぶ八月の蒼穹には一切向けられず、ページに綴られた物語にのみ注がれている。

 咲希にとって、物語……つまるところ〝空想の世界〟とは、ほんの一瞬だけ現実を忘れさせてくれる、謂わば『薬』のようなものだった。
 読書に耽っているこのひと時だけは、この世のあらゆるしがらみから解き放たれ、まるで大きな翼を携えた白鳥になっているようだと、彼女は感じることがある。
 仮に、この世界に〝幸福〟なんてものが存在するのだとすれば、この瞬間こそ、そう呼ぶにふさわしい。
 咲希は物心つく以前から、本能的にそんな考えを抱くようになっていた。
 そして、この永遠に夏が繰り返される静寂の世界にやって来てからも、その考えに変わりはなかった。


「…………」


 咲希は、蒸し返すような夏の暑さから隔絶された室内で、手元に開かれた一つの世界に溶け込んでいく。

 物語の舞台は、長きにわたる戦争が終結したとある王国。
 かつては名家として名を馳せていた没落貴族の長女が、敵国の女兵士と出会い、身分や性別に囚われない自分らしい生き方を模索し、やがて恋仲に発展していくといった、同性愛と人生観をテーマにしたラブロマンス。
 咲希は、二人が国境や性別の壁を越え、ようやく互いの心を通わせることが叶ったあたりまで読み進めたところで、ふと、残りのページ数を確認した。
 およそ、残り百ページ。物語は、最高潮に達している言ってもいいところまで来ているはずだが、残りのページ数を見るに、さらなる〝壁〟が用意されているのだろう……。
 大抵の場合、こういったストーリーには悲劇が付き物だ。恐らく、二人のうちどちらかは命を落とす羽目になる。フィクションだからといって、そう都合よくハッピーエンドは訪れてくれない。
 そんなことを考えながら、引き続き物語を読み進めようとページに指を伸ばす咲希だったが、ふと背後から聞こえてきた微かな物音にぴたりと手を止めた。
 咲希は開かれた文庫本から顔を上げ、体ごと振り返る。それから、音のした方向にじっと目を向け、音の発生源を探った。
 そうして、潜水艦のソナー探知機のように注意深く周囲に目を凝らしていた咲希は、何かに気がついたかのように視線をある一点に集中させた。

 ……咲希から見て、後方約七メートル。
 背の大きな書架が立ち並ぶグレーのカーペット上に、一冊の本が落ちている。音の発生源は、おそらくそれだろう。
 咲希はしばらく逡巡したのち、一つ小さなため息を吐いて席を立つと、落ちている本のもとまでやって来て手に取った。

 なんてことはない普通の文芸書。
 しかし、しっかりと窓が閉め切られ、風も入ってこないような館内でなぜ、独りでに本が書架から落下するのか。そう、多少疑問に思いながらも、元あった場所へ返そうと一冊分隙間の空いた棚に手を伸ばす。

 ……咲希が異変に気がついたのは、まさにその時だった。

 微かに垣間見える書架の向こう側。
 その通路を小さな人影らしき何かが音もなく横切ったのを、咲希は確かにその眼で見た。


「誰っ……⁉」


 突然の出来事に思わず声を上げ、持っていた本をそのままカーペットへと落す咲希。

 ……今のは一体、なんだ? 人間? それとも小型の獣? 
 ……いや、違う。重要なのは種類じゃない。

 ——わたしたち五人以外、生物が存在しないはずのこの世界に何かがいた。
 重要なのは間違いなくそこだ。

 ……一度、寮に帰って相談するか? ……いや、今すべきなのは——。


 咲希は混乱する思考を一時中断し、急いで書架の裏側へと回り込む。
 しかし、先ほど見た何者かの影は見当たらない。咲希は冷静に周囲を確認する。
 すると、いつの間に移動したのか、その小柄な影は二階入り口付近の貸し出しカウンターを抜け、一階へ下る階段へ向かっているのが見えた。


「待って!」


 咲希は机の上に読みかけの小説を開いたまま、その後を追う。
 途中、何度か階段を踏み外しそうになりながらも、なんとか一階エントランスまでやって来ると、小さな何者かは開きっぱなしになっていた自動ドアを通って外へ出ていくところだった。当然、咲希もその後を追って外へと出る。
 もうじき正午に差し掛かるということもあってか、屋外は息苦しくなるほどの熱気に支配されている。あの耳障りな蝉の声が聴こえない分、まだマシな部類ではあるが、それでもこの暑さに変わりはない。
 否が応でも、自分たちが今、終わらない夏の世界にいるのだと思い知らされる。

 咲希は正面入り口から管理棟へ伸びる屋根付き通路の下で、ふとそんなことを考えた。
 それからすぐに思考を先ほど出ていった正体不明の影に戻すと、その姿を捜索するように目を動かした。

 けれど、いくら注意深く目を凝らしてみても、その正体不明存在の姿は一向に見当たらない。瞳に映るのは、濃い影を落とす青々とした桜の木々と、燦燦と降り注ぐ陽光を跳ね返す無人の大地、胸焼けするくらいに青く爽快な夏空だけ。
 それ以外の存在……ましてや、咲希以外の生物の姿など、影も形も存在している気配がない。

 ……あれは、夏が見せた幻覚だったのだろうか。
 それとも、私の無意識が創り出した幻影だったとでも言うのだろうか。

 咲希は自身が目にしたものを想像の産物として処理することで、「自分は正常だ」と自分自身に言い聞かせるようにした。そうやって、何かに安堵するようかのように小さく笑みを浮かべると、再び冷房の効いた館内に戻るため踵を返した。


 ——彼女が、〝それ〟の存在に気付いたのはまさにその時だった。


 屋根付き通路の脇にひっそりと並ぶ二台の自動販売機。いくつか『売り切れ』のランプがついたままの補充がなされていない青い立方体。
 その正面に、一人の少女が佇んでいる。

 桃色の半袖Tシャツにデニム生地のショートパンツ。
 陽に透かすと少し茶色がかって見える長い髪は後ろで一つに結い上げられ、少し日に焼けた肌からは、少女の快活で活発な性格が窺える。
 ……そして、そんな少女のイメージをすべて置き去りにする首筋にくっきりと残った縄のような痕が、彼女の生の終わり方を明確に提示していた。


「…………」


 咲希は瞬きすることも忘れたように、じっとその少女の姿を見つめる。

 声は出さなかった。
 出そうと思っても、喉から発声器官を奪われたかのように、上手く声を出すことが出来なかった。
 そして、外気温とは対照的に咲希の白い指先がカタカタと震え出す。心臓は、今までの間ずっと停止していたと勘違いしてしまいそうになるほど激しく脈打ち、やがて、頬を冷たい汗が伝い始めた。

 ——恐怖。
 それが今、咲希の全身を侵食しているものの正体だった。

 頭の中をいっぱいに埋め尽くす『何故』という疑問。
 同時に彼女の脳内では、遠い遠い過去の記憶——ずっと消したいと願い続けた〝呪い〟のような記憶が呼び起こされていた。


『——さっちゃん』

 ……やめろ。

『——ずっとアタシが』

 ……言うな。それ以上、何も。

『——守ったげるからね』


 記憶の中の少女は、そう言って歯をむき出しにした満面の笑みを向ける。
 それはまるで太陽のような、底なしの明るさを放つ優しい笑顔。
 そして、もう二度と、誰にも向けられることのない笑顔。

 そんな記憶の中でのみ生き続ける少女の笑顔が、咲希にはどうしても受け入れることが出来なかった。それを思い出すたびに、万力で締め付けられたように胸が激しく痛み、息が苦しくなる。あんなものを見るくらいなら、いっそのこと死んでしまった方が楽だと本気で思ってしまうほど、咲希にとってその笑顔は辛く、恐ろしいものだった。

 ……なぜなら、少女からその笑顔を奪ってしまったのが、他ならぬ咲希自身だったのだから。

 咲希にとって、その記憶は一種の戒め、あるいは一生背負い続けることになる十字架のようなものだった。

 自分の犯した罪を、決して忘れぬように。
 安らぎなんてものを、求めたりしないように——。


 そうして、時間にしておよそ数秒。
 気がつけば、少女はいつの間にか咲希の視界から姿を消していた。
 蒸発したかのように、音もなく、匂いもなく、あらゆる痕跡を残さず消え去っていた。

 まるで、全ての出来事が白昼夢だったかのように、そこには『売り切れ』表示のされた自動販売機が低い唸り声をあげて並んでいるだけ。
 咲希は全身に体温が戻っていくのを感じながら、両腕を交差するようにして強く自分自身を抱きしめる。

 感覚は戻ったはずなのに。血液はちゃんと循環しているはずなのに。
 どういうわけか、震えだけが一向に止まらなかった。

 そのまま圧し潰してしまいそうなほど、強く身体を抱きしめる咲希。
 その表情は、嗚咽を洩らさないよう必死で唇を噛み締めているせいか、酷く歪んで見えた。


「…………わかってる。……わかってるから」


 誰に対するでもなく、虚空に向かって、そう声を漏らす彼女。
 そこには人も、獣も、生も、死も存在しない。
 あるのは見慣れた無人の世界と、『夏』という名の後悔だけ。


 ……ただ、どこか遠くから、蝉の啼く声が聴こえたような気がした。
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