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男が洗い終えるまでさほど時間はかからなかった。
「少しずれてくれ」
声をかけられて内心慌てる。男も湯船に入るとは思わなかった。一緒でいいのか。見上げて訊く。
「入るの?」
「入る」
浴槽の真ん中に陣どっていたのを一人分、横にずれる。
空いた場所に男が入ってきたが、そのまま視線を落とし黙っている。
様子をうかがおうとしてみたものの、男は濡れた前髪をかきあげて後ろに流していた。この姿はいつもと違って見えて少し困る。心臓が鳴り出す。心が忙しない。
男が息を一つ吐いて顔を上げた。片手を少年の目の前に持ってきて人差し指を立てる。そのまま壁の方へと指先を動かす。
「視線は、向こうだ」
指の動きにつられて壁の方へと顔を向ける。と同時に腹部を男の片腕で抱えるようにして引き寄せられた。湯が大きく動く。
気づけば男の足の間に座らされていた。腕はもう離れている。少年の後ろに男が座っているのがわかるが、意図がわからない。振り向こうとすると手のひらで軽く後頭部を押さえられる。
「視線は、前だ」
「なんで?」
「いろいろある」
「いろいろってなに?」
「あとで話す」
不意に首すじを指先で撫で上げられた。思わず首をすくめる。背中に熱が集まる。
たぶん、上書きしようとしている。
「嫌だと思ったら言え」
「……いやじゃない」
思ったよりも小さな声が出る。
嫌ではない。ただ、恥ずかしくて落ち着かない気持ちになっている。それを逃がしたくて湯の中でひざを抱える。あまり効果はなかった。
怒りに任せて望んだときとは違い、こんなにも気持ちを和らげてもらった状態で、先ほどから首の後ろに男の強い視線を感じている。それがひどく恥ずかしい。なにをされるのか見えない分、余計に。
再び首すじを指先が撫でる。一度目とは感触が違う。親指だろうか。一度目は人差し指の横腹か。そのあとも指先だけが緩やかに肌の上を行き来する。たまらない気持ちになる。顔が見たかった。
「キスしたい」
「のぼせるからだめだ」
前科があるので強く言い返せない。
「風呂から上がってからだ」
頭を撫でられる。緊張がとけ始めたところで首すじに口づけられた。かすかな声が零れる。離れてはまた唇が触れる。短く、長く。首の付け根、うなじ、耳の後ろ近く。同じ口づけがひとつもない。触れたままの唇が下から上へとのぼる。首すじが熱を持つ。
深い口づけはない。こわれやすい花に、たいせつに口づけているようだった。男の唇が柔らかな花のようでもあった。
それを思うと切なく、触れられるたびにひそやかな声が零れてしまう。
いつの間にか肩に近い腕を男の手が弱くつかんでいた。力はそれほど入っていないはずなのに、捕らえられてしまったようで心がわななく。もっと強く、放さず捕らえてくれたらいいのに。
そう思ったとき、首すじを舐められ、小さく肌を吸われた。二度。
男からこんな風にされたのは初めてだった。熱を感じて息を飲んでしまう。どうしようもなく、胸の内がざわめく。思わず腕にかけられていた男の手の上に自身の手を重ねて、力をこめた。燠火のような男の眼が見たかった。
結果として、十分にのぼせた気がした。心にめまいがあるのなら、すでにふらついている。男はどこでああいうのを身につけてくるのか気になるところではある。
とはいえ、満たされてもいた。
風呂から上がり、男に水分を取るようにと水のペットボトルを渡され、ドライヤーで髪を乾かされた。
今はソファに二人並んで座り、少年はマグカップで温かいカフェオレを飲んでいる。男に淹れてもらった。男は珈琲を飲み終えてローテーブルの上にカップを置いてからは黙っていた。こちらを見ずに視線を落としている。
ずっと気になっていた。今日の男は冷静すぎる気がした。男を見上げて訊いてみる。
「怒ってる?」
「怒っている」
予想より簡単に認めた。思えば、男が少年の前でなにかに対して怒っているところを見たことがなかった。少年には見せないようにしたいのか、今も視線は合わないままだ。
「なにに?」
「おまえを傷つけた男に対して」
これも予想外だった。
「おれ、すごく腹が立っただけで傷ついてないよ」
「怒りのあとに悲しみがくることもある」
だからあんなにも心を尽くしてくれたのかと納得がいった。それとともに、男にはそういう経験があるのだと思った。
「じゃあ、悲しくなったらちゃんと言う。今は平気だよ」
少年は笑顔を向けた。男が少年の心をだいじにしてくれたことがうれしかった。
男がようやくこちらを見る。微笑んで頭を撫でる。
「いろいろってなに?」
あとで話すと風呂場で言われた。
男は一瞬ためらったが真面目な顔で答えた。
「今日は、おまえが一番望むことをしてやりたかった。だが風呂場で向き合うと気がくじける。別の方向に気がそれる。だからおまえの眼を見るわけにはいかなかった。見れば揺らぐ」
「別の方向って?」
男は黙った。視線をそらそうとし始めたのでその前に言う。
「キスしたい」
マグカップをテーブルに置く。
男は視線を戻し、少年の頬に片手で触れて柔らかく口づける。
唇が離れると、男をじっと見つめた。片手を軽く上げて自分の首の正面に人差し指の先で触れる。
「今度は怒ってないときに、前からしてほしい」
男は完全に視線をそらした。眉間にしわが寄っている。沈黙のあと、重く口をひらく。
「……前はだめだ。いろいろとまずい」
動揺している男が好きだと思う。
「どのくらい待ったらしてくれる?」
楽しそうに笑いながら訊く。
「……2ヶ月考えさせてくれ」
今日も男は少年に弱い。
「少しずれてくれ」
声をかけられて内心慌てる。男も湯船に入るとは思わなかった。一緒でいいのか。見上げて訊く。
「入るの?」
「入る」
浴槽の真ん中に陣どっていたのを一人分、横にずれる。
空いた場所に男が入ってきたが、そのまま視線を落とし黙っている。
様子をうかがおうとしてみたものの、男は濡れた前髪をかきあげて後ろに流していた。この姿はいつもと違って見えて少し困る。心臓が鳴り出す。心が忙しない。
男が息を一つ吐いて顔を上げた。片手を少年の目の前に持ってきて人差し指を立てる。そのまま壁の方へと指先を動かす。
「視線は、向こうだ」
指の動きにつられて壁の方へと顔を向ける。と同時に腹部を男の片腕で抱えるようにして引き寄せられた。湯が大きく動く。
気づけば男の足の間に座らされていた。腕はもう離れている。少年の後ろに男が座っているのがわかるが、意図がわからない。振り向こうとすると手のひらで軽く後頭部を押さえられる。
「視線は、前だ」
「なんで?」
「いろいろある」
「いろいろってなに?」
「あとで話す」
不意に首すじを指先で撫で上げられた。思わず首をすくめる。背中に熱が集まる。
たぶん、上書きしようとしている。
「嫌だと思ったら言え」
「……いやじゃない」
思ったよりも小さな声が出る。
嫌ではない。ただ、恥ずかしくて落ち着かない気持ちになっている。それを逃がしたくて湯の中でひざを抱える。あまり効果はなかった。
怒りに任せて望んだときとは違い、こんなにも気持ちを和らげてもらった状態で、先ほどから首の後ろに男の強い視線を感じている。それがひどく恥ずかしい。なにをされるのか見えない分、余計に。
再び首すじを指先が撫でる。一度目とは感触が違う。親指だろうか。一度目は人差し指の横腹か。そのあとも指先だけが緩やかに肌の上を行き来する。たまらない気持ちになる。顔が見たかった。
「キスしたい」
「のぼせるからだめだ」
前科があるので強く言い返せない。
「風呂から上がってからだ」
頭を撫でられる。緊張がとけ始めたところで首すじに口づけられた。かすかな声が零れる。離れてはまた唇が触れる。短く、長く。首の付け根、うなじ、耳の後ろ近く。同じ口づけがひとつもない。触れたままの唇が下から上へとのぼる。首すじが熱を持つ。
深い口づけはない。こわれやすい花に、たいせつに口づけているようだった。男の唇が柔らかな花のようでもあった。
それを思うと切なく、触れられるたびにひそやかな声が零れてしまう。
いつの間にか肩に近い腕を男の手が弱くつかんでいた。力はそれほど入っていないはずなのに、捕らえられてしまったようで心がわななく。もっと強く、放さず捕らえてくれたらいいのに。
そう思ったとき、首すじを舐められ、小さく肌を吸われた。二度。
男からこんな風にされたのは初めてだった。熱を感じて息を飲んでしまう。どうしようもなく、胸の内がざわめく。思わず腕にかけられていた男の手の上に自身の手を重ねて、力をこめた。燠火のような男の眼が見たかった。
結果として、十分にのぼせた気がした。心にめまいがあるのなら、すでにふらついている。男はどこでああいうのを身につけてくるのか気になるところではある。
とはいえ、満たされてもいた。
風呂から上がり、男に水分を取るようにと水のペットボトルを渡され、ドライヤーで髪を乾かされた。
今はソファに二人並んで座り、少年はマグカップで温かいカフェオレを飲んでいる。男に淹れてもらった。男は珈琲を飲み終えてローテーブルの上にカップを置いてからは黙っていた。こちらを見ずに視線を落としている。
ずっと気になっていた。今日の男は冷静すぎる気がした。男を見上げて訊いてみる。
「怒ってる?」
「怒っている」
予想より簡単に認めた。思えば、男が少年の前でなにかに対して怒っているところを見たことがなかった。少年には見せないようにしたいのか、今も視線は合わないままだ。
「なにに?」
「おまえを傷つけた男に対して」
これも予想外だった。
「おれ、すごく腹が立っただけで傷ついてないよ」
「怒りのあとに悲しみがくることもある」
だからあんなにも心を尽くしてくれたのかと納得がいった。それとともに、男にはそういう経験があるのだと思った。
「じゃあ、悲しくなったらちゃんと言う。今は平気だよ」
少年は笑顔を向けた。男が少年の心をだいじにしてくれたことがうれしかった。
男がようやくこちらを見る。微笑んで頭を撫でる。
「いろいろってなに?」
あとで話すと風呂場で言われた。
男は一瞬ためらったが真面目な顔で答えた。
「今日は、おまえが一番望むことをしてやりたかった。だが風呂場で向き合うと気がくじける。別の方向に気がそれる。だからおまえの眼を見るわけにはいかなかった。見れば揺らぐ」
「別の方向って?」
男は黙った。視線をそらそうとし始めたのでその前に言う。
「キスしたい」
マグカップをテーブルに置く。
男は視線を戻し、少年の頬に片手で触れて柔らかく口づける。
唇が離れると、男をじっと見つめた。片手を軽く上げて自分の首の正面に人差し指の先で触れる。
「今度は怒ってないときに、前からしてほしい」
男は完全に視線をそらした。眉間にしわが寄っている。沈黙のあと、重く口をひらく。
「……前はだめだ。いろいろとまずい」
動揺している男が好きだと思う。
「どのくらい待ったらしてくれる?」
楽しそうに笑いながら訊く。
「……2ヶ月考えさせてくれ」
今日も男は少年に弱い。
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