燠火(おきび)の眼

灰黒猫

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 最初に言われた時刻から20分後、少年は脱衣場に入った。浴室内からは音がしなかった。
「入ってもいい?」
 服を脱いでから問いかけてみる。
「入っていい」
 答えはあったが、いつもの口調と微妙に違う気がした。声が固い。
 引き戸を開けて浴室内に目を向けると、男は浴槽の縁に両腕をかけながら湯にかっていた。こちらを見ようとしない。
 少年が体と髪を洗っている間も、男は湯に視線を落としたまま動かなかった。
 洗い終えた少年が浴槽に近づくとようやく体を動かし、伸ばしていた足を引いて少年が入れるスペースを作ろうとした。
 すかさず湯の中の男のももの上で馬乗りになり、男と向かい合わせの体勢をとる。
 浴槽に張られた湯の量は半分ほどしかなく、温度もぬるかった。その湯が大きく波立つ。少年の動きだけでなく男も反射的に立ち上がろうとして無理やり自分を湯の中に押しとどめたせいだった。
「……前にくるのか……」
 うめき声に近かった。顔を片手でおおって天井を仰いでいた。
「……怒ってる?」
 少年は男を下からのぞきこんで表情をうかがう。さすがにやりすぎたかと思う。
「……怒ってはいない」
 長いため息を吐いてから男は顔から手をどけた。ようやく少年と視線を合わせる。片手で少年の頭を撫でた。
「……キスしてもいい?」
 ためらいがちに男の両肩に手を置き、そっと尋ねる。いつもはこんな風に訊いたりしない。少年も、普段通りではいられなかった。
 答えるより前に男は少年の耳の縁に親指の先で撫でるように触れてから、不意に軽く口づけた。そのとき一度だけ、下唇を舌先で舐められる。
 その感触に首をすくめかけてとどまる。思っていたのと違う。服を着ていないというだけで、こんなにも違う。
 男が濡れた前髪をかきあげて後ろに流しているのも困る。いつもと違う。
 先ほどから心臓が大きく鳴っていた。それがひどく恥ずかしく、混乱する。
 男が肩に乗せられていた少年の手を取り、人差し指の先に小さく口づける。
 そんなささやかなことにも少年の心臓は跳ねる。
 これはもう降参した方がいい。
 無理を言ってしまったと謝り、早々に湯船から上がる方がいい。
 そう思い浴槽の中でひざ立ちになったとき、突然胸の先を舐められた。初めてのことに気が動転する。抑えられず声が零れる。
 指先で触れられたときと全然違う。腰を引き寄せられる。「まって」と「もっと」と、どちらともつかない声がかすれて落ちる。
「……下は?」
 今訊かれても困る。隠したいのに隠せる衣服がない。
 羞恥にさいなまれている間に下から人差し指の腹で撫で上げられ、肩が何度も小さく跳ねる。目に涙が浮かぶ。
「……まって……」
 ようやく絞り出せた声に、指の動きが止まった。無意識に息を止めていたことに今さら気づく。浅い呼吸を意識的に繰り返した。
 激しい羞恥心と触れてほしい願望の間で揺れる心をどうしたらいいかわからなかった。
 片頬に男の手のひらが触れた。もう片側の頬に口づけられる。目尻にも。優しく。
 男を見ると、眉を寄せて困ったような顔をしていた。
 燠火おきびのような眼が自分を見つめていた。燃え立つ炎ではなく、静かに赤く、芯が燃えている。
 欲をいだく眼なのだと思っていた。
 たぶん、ちがう。欲にえている眼だ。だいじにしたくて、できないかもしれなくて、深く触れたいと望みながらおびえている、切ない眼だった。
 この眼に見られるのが好きだ。そう思って、背中がふるえた。
 
 予想していたのとまったく違う形で、少年は男のベッドの上に横たわっていた。
 軽い熱中症を起こしてめまいがした。あわてた男に抱えられて風呂場から出た後、ベッドの上に乗せられ薄手の寝巻きを着せられ、氷枕の上に頭を置かれ経口補水液や氷のうを渡され、今は床に正座姿の男に枕もとからうちわであおがれている。
 男は長い間無言でいたが、うちわの動きを止めて沈痛な面持ちで口をひらいた。
「おまえの望みなら、叶えてやりたいと思う。だが、おまえの内側を最後まで明かさせるのは、……かなり……とても……」
 男が話す途中で言いよどむのは珍しいことだった。
「怖い?」
 秘めごとを話すように小声で尋ねる。
「……怖い」
 男は沈黙の後に頷く。
「おれ、全部見られても平気だよ。触れてほしいし、触れたいよ」
 今日はうまくいかなかったけれど、根底は変わらなかった。
「わかっている。だが、おまえが……俺の手で作り変えられていく感じがして、怖い。本来ならおまえには違う道もあったんだろう。俺といることで、変わり続けてしまうのが、……怖い」
 男にも、少年のまだ知らない一面がある。それを知っても、戸惑っても、少年は最後には受け入れてしまうだろう。男と同じ道を行くのなら、変えさせてしまう。
 それが男には怖かった。
 少年をあんな風に戸惑わせてしまったことも、今考えると怖い。
「わかった。もう少し待つ。また触れてほしくなるだろうけど、急ぎすぎないように我慢する」
 少年は穏やかに頷いてから、いたずらっぽく笑ってみせる。
「待つのは誕生日になるまでだからね」
 男は一度表情を緩めたが、その言葉を聴くと再び深刻そうな顔になった。あと3ヶ月しかない。
「……2年待ってくれないか」
「えー」
 長い、と不満の声が出た。


 ほんとうは、変わることはおれには怖くなんかなくて、ほかのだれでもないこの人の手で変わっていくのはうれしい。知らなかった部分をおれに見せてくれるのも、この人が今まで慎重に隠してきたところを知っていけるのも。
 違う道はいらない。
 この人の臆病さを知ったから、前よりもっと触れられたい。
 もっと、おれの深いところまで触れてくれればいいのに。
 深いところまで、触れさせてくれたらいいのに。
 心の一番弱いところまで。
 
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