名を呼んで花を願う

灰黒猫

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4. 14歳

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 14歳になって進路について考えていた頃、その人がお母さんの話をした。
咲子さきこは聡明な人間だ。俺にはできないことができる」
 そう言った。
 お母さんは高校を卒業してすぐ働き始めたし、父さんは大学まで卒業したのは知っていた。父さんがそれに少し優越感を抱いていることも。
 その人はお母さんのことを「聡明な女だ」とは言わなかった。お母さんを一人の人間として尊敬しているのだとわかった。
 お母さんはその人のことを気にかけていた。でも家が近くになったからといって愛想よく訪ねてくるわけがなかったし、招いても手土産一つ持ってこないはずだ。父さんはどちらにしてもこころよくは思わなかっただろう。
 だから、「好きな和菓子屋さんの和菓子を買って届けて」と頼んでいた。指定されたものならちゃんと買ってくる。
 その人は、お母さんのそういう考えをちゃんと知っていた。
 そのとき、お母さんをだいじに想っているから、名前で呼ぶのだと気づいた。お母さんが結婚して家を出たとき、その人はまだ9歳だった。離れても名前をだいじに呼び続けていた。たぶん、名前を呼ぶこと以外で大切にする方法がなかったのだろう。
 父さんはその人が姉を呼び捨てにすることを「礼儀知らずだ」と言っていたけれど、ほんとうはとても敬意を払っていた。「ふつう」じゃないかもしれないけれど、この人はだれかを想える人だった。
 お母さんは、おれが周りとうまくなじめないのも気にかけていた。「ふつう」じゃなくても生きていけるって、おれが安心できるように、この人に会わせたかったのだと思う。
 おれの問いかけに、この人ならごまかさずにひとつひとつ答えてくれることもお母さんは知っていた。
 お母さんとその人の信頼し合っている関係がおれはとても好きだった。

 おれが高校の受験勉強で忙しくなった頃、その人はアパートから引っ越した。大家さんが高齢で、アパートの管理をやめて取り壊すことに決めたのだと言った。駐車場にすると。悲しかった。アパートがなくなることも、その人が近くにいないことも。
 引っ越し先は隣の県で、30分電車に乗れば最寄り駅まで着ける距離だった。引っ越す前、新しい住所をメモに書いて渡してくれた。電話番号はなかった。
「電話は?」
「まだ引いていない。県が変わると番号が変わる」
「携帯電話は?」
「持っていない」
「困らないの?」
「俺は困らない。他人が困るらしい」
「買うの?」
「買いたくない。電話はあまり好きじゃない。20分以上話すと頭痛がする」
 知らなかった。長電話ができない。話したいことは多いのに。
「会いに行ってもいい?」
「会いにきてくれ」
 ちょっとびっくりした。
「おまえに会えなくなるのはさびしい気がする」
 もっとびっくりした。普通の顔でそういうことを言う。
「おれもさびしいよ」
 普通の顔では言えなかった。顔が少し赤くなった気もするし、涙が出そうにもなった。
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