冷たい夜、星に出会う前

灰黒猫

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2.星に出会う前 / 再会

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 大学に在学中、週に三日みっかの早朝のアルバイト先で知り合った男がいた。同じ年頃らしかったが、はっきり聴いたことはない。
 単線たんせんのみの小さな駅の外側に必要最低限そなえ付けた程度の、さらに小さなコンビニエンスストア。客が三人も入れば満杯まんぱいになるようなせまい店内だったが、客が三人同時に入ることは滅多めったになかった。一人か、多くて二人、入れ替わるように物を買ってはすぐに出ていった。
 そういう時間帯なのだろうと思っていたが、客にとってはせまくて居づらかったのかもしれない。
 コピー機や電子レンジもなく、宅配便の取り扱いもしない。煙草たばこの売り上げだけはやたらに良かった。
 開店準備から1時間、俺が一人で働いた後にそいつがやって来る。二人でいる時間は2時間程度で、俺が先に上がり、そいつは昼まで残る。
 せまい店でもやることはそれなりにあり、半年の間、たいして話をするわけでもなかった。
 一度だけ、バイト終わりに「珈琲コーヒーを飲みに行かないか」と誘われた。その日だけはそいつも同じ時間に上がるのだと言った。
 梅雨つゆが明ける頃だった。
 断る理由も特になく、近くの喫茶店で取りめのない話を途切とぎ途切とぎれにした。時折ときおり、沈黙があってもたがいに苦にならなかった。
 大学図書館で借りたばかりの長編小説の題名をげた時、そいつが「それは三部作さんぶさくだ。3番目のやつだ」と言った。その作者の作品が好きなのだと、自分も読んだことがあると。
 俺にはその作者の予備知識がなかった。書架しょかで短編集をいくつか数ページ読んだ後に、手に取った本だった。
「上下巻だったが」
「一部と二部は1冊だけど、三部は上下巻なんだ。全部タイトル違うけど、主人公は同じなんだよ」
 そう言って、第一部と第二部の本の題名を教えられた。
 俺は「読んでみる」と言い、そいつは「読んだら感想教えて」と言った。
 その会話だけ、何年っても覚えている。 
 翌週、そいつは店にあらわれなかった。
 翌々週、店の責任者から「男が死んだ」とだけ聴かされた。
 理由をたずねたが「そんなことをくのは不躾ぶしつけだ」と返された。
 どうして不躾ぶしつけなのか、俺にはわからなかった。
 相手がどうでもいい人間なら、知りたいと思わない。
 友人と言えるほどの仲ではなかった。住む場所も、連絡先さえ知らなかった。
 ただ、喫茶店でのことを思い出すたび、片側の脇腹わきばらが、くいが刺さったようにずっと痛む。どこを歩いても、どこにいても痛む。
 友人に、なれたのかもしれない。その相手をうしなった時に痛むのは、胸ではないのか。胸が痛めば泣けるのか。
 胸の痛みがしかった。
 落ちる涙がしかった。
 どちらも俺にはなかった。
 代わりに黒い服を着て夏の中を歩き続けた。冷たい夜のようだった。
 その中で子どもに出会った。あてもなく歩く俺の後をついて来た、唯一ゆいいつ
 

「なにしてるの?」
 不意に声をかけられ、男は顔を上げた。自分がいつの間にか視線を落とし、両膝りょうひざの上に手をついていたことに気づく。
 同じ目の高さで少年が立っていた。き方と声の抑揚よくようが姉によく似ていた。手の力がゆるむ。
「おまえを待っていたんだ」
 答えると少年がまばたきをした。
「ずっと待ってたの?」
「ずっと待っていた」
 多分、五年。会えればいいと、どこかで思っていた。
がってくればよかったのに」
 あっさりと少年が言う。
「そうだな」
 自分から、会いに行けば良かった。
「手」
 男は右手を少年の前に差し出す。
「手?」
 少年は出された手と男を交互に見て聞き返す。
「じいさんの田舎いなかで、俺のあとをついて来ただろう。あの時、手を引いてやれば良かったと思っていた。だから」
「今? おれ、もう14歳だけど」
 男の意図いとを理解して、少年がひとみらす。
「知っている。何か問題があるのか」
 男は真面目まじめき返した。
 少年は迷い、一度視線をはずしてから再び男の手のひらを見て、自分の左手を軽くかさねた。
「……ない」
 男は少年の手を片手で包むようにすると、ガードパイプから立ち上がった。少年が思っていたよりも、男の背は随分ずいぶんと高かった。同じ高さにあった目線が30センチ近くずれる。
「ここから25分、歩く」
 そう言って男は少年の手を引いて歩き出した。少年はそれについて歩く。

 あの夏の日、前を歩く男のからの手を、にぎってみたいと思っていた。だいじなものをなにも持っていない人に見えたから。
 今は、泣きたい気持ちになった。だいじなものの中に自分を入れてもらえたような気がした。
 どこに進めばいいかわからないでいた。ほんの少しだけ、心を助けてもらいたかった。だから会いにきた。
 今日の男は上着だけが黒色だった。それでも少年にとって男は今も、道を知らす黒い星だった。
 男はなにも訊かなかった。少年が会いにきた理由や胸のうちを。
 それでよかった。少年のふさぐ心を知らず、ただそこにいてくれるだけでよかった。遠い星のように。
 手を引かれながら、そのままでいてほしいと願った。
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