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幕間の話5

すべては胸底に沈みゆく果実のせいである ―ギィ―

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 ギィが幼いころから思うことには、他人と全く同じ感覚を共有することなど絶対にない、ということが最たるものだ。

 例えば”甘い”という感覚ひとつとってもそう。山岳地帯の荒野で家畜を育てながら草をかじってひもじさをやり過ごしたギィには、物々交換で手に入れたにんじんなどはたいそう甘く感じられたものだが、ひとたび下の集落で時おり買い与えてもらった焼き菓子の甘さといったら衝撃的だった。
 つまり集落に住む子どもにとってはその焼き菓子の甘さが基準となり、彼らは春先のキャベツの甘さには気付かないだろうということ。

 これはあくまでささやかな一例であり――、一例というか、全ての事象がこうなのだ。

 冬は”寒い”と言えば誰だってそのとおりだと言うだろう。しかし砂漠地帯にすむ人間は、山岳地帯にすむ人間ほどは凍てつく冬を知らない。
 地域によっては水は貴重だと言われるが、ギィにとってはあまり同意できない。そのへんにある雪を溶かしさえすれば、水など無限にあるものだからだ。
 この計算は難しいと金勘定も。ギィは幸い、数字についての処理は得意なほうだった。自分よりも年上の男たちが、うんうんと唸って毛長牛の毛皮の算用しているのも不思議な光景だった。

 ここで重要なのは、ギィがそれを当然だと認識していることにほかならない。感覚がまったく同じ人間がもし仮にいたとしたら、その相手には歪んだ自己愛ゆえに執着するか、恐ろしいまでの憎しみを抱くか、どちらかだとギィは思っている。ただ、些細な日常の場面で気になってしまうというだけのこと。

 例えばニグラの言う、「このレンガは重いね」に対してであったり(ギィには造作もない重さだ)、ジウォマの言う「部屋のベッドが硬くて寝づらい」(じゅうぶん快適で、寝るに足る)だったり、ギィがそう感じてしまうだけのこと。

 それだけの、ことなのだ。







「ジウォマ」
「なに、ギィ」
「聞いてもいいか」
「珍しいね。なにについてかな」
「もし、おまえが奴隷だとして。主人から解放されたらどうする」

 そこでジウォマははじめて、ギィを正面から見た。
 ジウォマは今、忍び寄る本格的な冬に向けて、毛皮の上着の綻びを繕っているところだった。蝋燭の灯かりがすきま風で気まぐれな女のように揺れている。それを頼りに手元を見ながら会話をしていたが、その手を止めてまじまじと隣の男を見る。

「何かあったの。ギィじゃないみたいな質問だ」

 べつに、と小さく答えてギィはすこし眉根を寄せる。やはり口に出すべきではなかったのだ。こんなことを聞いてしまったのは、うっかり進められた蒸留酒のせいだろう。
 一仕事を終えジウォマの家に身を寄せたギィは、泊まっていきなよと扁桃アーモンドと酒を出されて珍しく杯を重ねた。きっと、そのせいなのだ。

 ジウォマはギィやニグラと異なり、奴隷の身分に身を落としたことはない。
 理不尽な姦計によりすべてを奪われた兄妹とは、そこは決定的に異なるのだ。ジウォマは山村の長の息子で、いつも穏やかな中に上品な計略を覗かせる、次の村長むらおさにふさわしい男だった。
 ニグラと似合いの。

「それって、ギィとニグラが奴隷になった経緯と同じで想像してもいいの?」

 ギィは投げやりに相槌をうつ。蒸留酒は意外にも上品な口当たりで、酒請けのチーズとも良く合った。

「本当に想像でしかないけど――僕はきっと、村に帰って家族や恋人を抱きしめたいな」

 もちろん君のことも。と付け足したジウォマに、ギィはふたつ返事でうなずいた。ギィの中に浮かんだのは、やはり自分とは異なるという安心が半分と、肩透かしをくらったような虚脱が半分だった。

「ギィにしては興味深い問いかけだったけど。どういうわけでそんなことを?」

 怪訝そうに首をかしげるジウォマに、理由はないさと返しておく。

 そう。他人と同じ感覚を共有することなどありえないのだ。
 それでいいはずなのに、ギィはひとしおの安堵と、出来の悪い教え子の回答を聞いたような諦めを覚えるのだった。







 ずいぶん前にジウォマとそんな会話をしたことを、なぜだか思い出した。

 ギィは自嘲のように鼻を鳴らし、窓の外を見る。いよいよニグラを取り戻す――そのせいだろうか。思考があちこちへと飛び地するのは。

 空は黒々とした曇天に覆われ、いつ雨が降ってきてもおかしくない陰鬱さをたたえていた。
 降り出すことはないと思うけど、というジウォマの言葉を当てにして、ギィは街の市場へ向かうべく家を後にした。
 薄汚い小路を抜けて人通りの多い道へ合流すると、とたんに喧騒が体を取り巻く。

 そのまま市場へ足を運べば、この空模様だというのにその一角はいつもと変わらぬ人ごみである。
 人の波の中、足を踏まれないように道の端を急ぎながら歩く。ギィは道の両脇に軒を連ねる看板の中から靴屋のものを探しつつ、羊の群れのような流れに身を任せて歩く。
 新しい仕事の前には必ず靴底を替える。これは長年の習慣になっていた。
 とても大きく大切な「仕事」が目前に控えている。ギィは足早に歩いた。人間たちのさまざまなにおいが鼻に届いてうんざりした。
 それでも雑踏の中の猥雑さと賑々しさは、どうしてだか無心になることができ、ある種の心地よさがある、とギィは内心で息をつく。
 自分の容貌に不愉快そうに眉をひそめられても、もう二度と会うこともないであろう人からのものと思えば気にならない。

 ふと、見慣れた後ろ姿を目にしたような気がしてギィは首を傾けた。
 行き交う人ごみの中で一瞬しか見えなかったその背中は、しかし近づいてみるとやはりあの男のそれだった。
 するとその視線に気付いたのだろうか。男のほうも、すいと顔をギィのいる方へ向けた。

 生命力にあふれる黒色の瞳。
 ギィは一瞬、男が女であるかのような錯覚をする。まるでこれ以上ないというように楽しげに商品を見ていたその顔が、幼少のニグラを思い出させたせいだろうか。

 ギィに気づいて、おやっというふうに首を傾ける。ぱちぱちと瞬いたあとで、どういう意図があるかは知らないが手をぶんぶん振ってくる。
 出会って間もない男にどうしてそう信頼に満ちた顔ができるのかと、心底不可解に思う。

 靴屋に向かっているという状況で男に話しかけることにかすかな億劫さを感じながらも、このまま去るのもばつが悪いので最低限の言葉を交わすために近づいた。

「ギィ、偶然ですね」
「ああ。その服はジウォマが?」
「はい、貸してくれました。ちょっと大きいんですけど動きやすいです。ギィも身軽な格好ですね」
「必要なことを済ますだけだ。この格好がいちばん目立ちにくい」
「確かに」

 男がひやかしていた店は、香辛料を扱う屋台であった。吊るされたテントの上から店主の周りまで、びっしりと様々な色と種類の香辛料で溢れていた。
 それぞれが小さめの樽に山と盛られ、店主の目の前には秤が置かれている。彼の腕を見ると、すでにいくつかの食材があった。食事を作ると言う彼にジウォマがいくらか渡していたのだろう。

「何に使う、この粉は」
「これですか。この鹿肉っぽいやつに振りかけて使います。ほら、香りが刺激的だから、臭みを消しつつ旨みを引き立ててくれそうじゃないですか」
「……そうか」
「そうです」

 食事に並々ならぬ執着心を持っていることは知っていた。ここらでは出回りにくい南国の果物にも固執していた。イチジクと言っただろうか。やけに値が張るうえに不思議な形状と触感で、ギィはちっとも好まなかったが、男はそれこそ冬前の栗鼠のように信じがたい数を頬に詰めていたのだった。
 適当に相槌をうち会話を切り上げる。靴屋へ向かおうと踵を返せば意外なことに男もついてきた。
 いや、意外ではなかったか。どうせ帰る家は同じなのだ。

 帰る場所が同じ。同じ――?

 ギィは雑踏の中、不思議とそれに不快感を覚えることなく、気づいたときには口から質問がこぼれていた。
 それはいつになく男が上機嫌だったように感じられたからかもしれないし、ちょうど空を覆っていた雲が晴れ、さわやかな陽光があたりを照らしだしたせいかもしれない。

「なあ」
「はい」
「聞いても?」
「はあ。なんでしょう。お金ならありませんよ」
「知ってる。もしあんたが烙印奴隷スティグマートで、奴隷の主人から解放されたらどうする」

 まるで世間話のように問われた男は、さすがにちょっと面食らったようだった。そういう気配をギィは隣に感じた。
 聞いておいて失礼かもしれないが、正直どんな回答がなされようがどうでもよかった。
 この男はアンバランスだ。男のくせに貧相な身体つきもそうだがなによりその言動が。誰もが鼻つまみ者にする自分に対しても旧友のような気安さで関わってくるうえ、それがちっともわざとらしくない。この男と接する間は、ギィは自分のことをいたって普通の人間だとすら思えた。醜くもなく、烙印奴隷スティグマートでもなく、ただのギィルツクヤとして。

 それに自身のことを奴隷だと言ってはいたが、真偽は知れない。まるで貴族の一人息子のような気楽さと、小間使いのように状況に合わせて立ち回るまめまめしさとがある。
 つまり、烙印奴隷に落とされた身の上など想像もできないに違いない。

 目は相変わらず靴屋の看板を探している。角を曲がればすぐのはずだった。
 しばらくして、男もまた正面を見据えたまま答えた。

「そうですね、私は――」

 同時に、ちょうどふたりが通り過ぎた店で叩き売りが始まったらしい。
 開始を告げる店主の怒号と、押し寄せる客の歓声に道の端へと追いやられた。反射的に傾いだ体勢を整える。

 ――今、なんて? ギィは思わず問い返してしまうところだった。そう、この男はいま、何といったのか。

 ギィの耳の奥にその答えが染み込み、ようやく脳で理解がなされた。ふと息苦しさを覚える。呼吸のしかたを忘れたように息を詰めていたらしく、慌てて大きく息を吸い込んだ。

 あなたはどうなんです、と言うようにちらりと向けられる黒い瞳。小動物のようにくるくるとよく動く、星の光を閉じ込めたような蜜色の。ギィは直視できない。

「……同じだ」

 抑揚のない声が落ちる。自分の声が他人のもののように響く。ギィはそれでもまだどこか信じられず、男の答えを反芻した。

「――ふうん」

 そんなことってあるんですね。かすかな驚きを含みながらもなんてことないように、一拍の間の後に返ってきたその一言を聞いて、その瞬間、愛を囁くよりも抱きしめ合うよりも、身体を重ねるよりも深く、この男とのつながりを感じた。幼いころから否定しながらもどこかで待ち望んでいた完全な感情の共有、その事実に心が震えた。

 生まれた場所も育った環境も食べ物の好みも異なる人間が、ある些細な一点でぴたりと重なり合う。えも言えない痺れが胃の上あたりから広がって漣のように全身に行き届く。

 ジウォマの家へと続く道。作戦が失敗すればまた屍のような日々。この男とは無縁になる未来。お互いの知らぬところで骸になるかもしれない日常。それぞれの意思で選んでいる道。

 高鳴る胸に沸き起こったのは、いびつな自己愛でも憎しみでもなかった。

 そう、この気持ちをどう説明すれば。
 言葉を深く交わしたことなどないと言っていい。そもそも素性も得体も知れない。
 その素肌に触れることも――しかし、そんな現実などおかまいなしに、確かに沸き起こる熱。その中にある抑えきれないほどの情動、親愛に似て幸福な、呪いに似て切ない、この思いを。

 


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