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第八章 異世界の中の異世界とか、本当に勘弁してほしいです
4.愛しの愛猫?
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拓斗だ。
拓斗である。
わけのわからない世界に飛ばされてからも、ずっと帰りたかった目的でもあり、癒しでもあった拓斗が、目の前に。
目の前っていうか、天井に。
いや天井っていうか床に? あれ、天井ってなんだっけ?
「どうしたんでさ主さま。いや、主さまの魂というべきでしたか。狐につままれたようなお顔をしていらっしゃる」
首を傾げて、本来の床から文字通り私を見上げる茶色いトラ猫の拓斗は、やっぱりしゃべっているように見える。不思議な声だ。高めの声なのにゆったりと独特の抑揚で話すせいか、酸いも甘いも知った老年の教師のような落ち着きがある。なのに少女の声と言われればそうも思えるし、少年の声と言われてもやはり納得がいくような。
丁寧な口調はしかし、相手を煙に巻くようなからかうような飄々とした印象も同時に受ける。
私はきりきりとする頭の痛みに、拓斗を見ながら思わずこめかみをもんだ。孫悟空の輪っかで締め付けられてる感じ。
右手で挟むようにもんだんだけど、その手のひらにも穴は開いたままだったから天井の拓斗は見えたままで、やっぱり頭痛がした。
私が異世界に行ってる間に、日本では猫が話すようになったのか?
「……拓斗」
「ほいな」
「拓斗なの?」
「是とも否とも言えるところでさ」
頭痛が増した。
「なにやら得心のいかぬ顔でらっしゃる。よろしい、おいに答えられることであれば答えて進ぜる」
おい、というのが彼の一人称なのだと理解するまでたっぷり十秒かかった。
たぶん私は困った顔をしていたのだと思う。マタイの福音書を暗唱するニジマスを釣ってしまった釣り人のように。
拓斗はそれから、右足を顔の前に持ち上げてひとしきりじっと見つめてから、ゆったりとした動作で顔を洗い出した。私はそのしぐさを見て、ようやくそのしゃべる猫が私のよく知る拓斗と同じものなのかもしれないと思えた。
というのも拓斗にはちょっとした癖があって、顔を洗うときははじめに必ず肉球と爪のあいだをじっくりとチェックしてからするのだ。女子がマニキュアの剥がれぐあいを確認するみたいに。そしてその肉球に何の不都合も変化もないことを確かめてからようやく、貴婦人のごとき優雅さとスピードで腕で顔を往復させるのだ。
猫カフェや友達の猫などいろんな猫を見てきたけど、その人間じみた癖は拓斗ならではのものだった。
つまり目の前にいるこの猫は、私が三年前にどしゃぶりの雨の日に拾ったあのトラ猫に間違いない。ちょっと今はしゃべるってだけで。
ちょっと今はしゃべるだけで?
私は首を横に振りながら息を吐いて、仕方なく笑った。どうにでもなれ。
「……まあ、聞きたいことは山ほどあるけど。いったん拓斗に触りたい。もふもふに包まれて猫くさい匂いを感じたい。拓斗の耳のうしろに口をくっつけて息をふーふーしたい。肉球の香ばしいにおいを嗅いでから撫で回したい」
「相変わらずで何よりでさ。おいもブラシをかけてほしいのは山々なんですがね、主さま。見てのとおりおいたちは今、逆立ちしたって触れ合えないんでさ」
そう。文字通り、逆立ちしたって触れ合えない。天井と床に引き裂かれた主従、まるでロミオとジュリエット。映画化は無理そうだ。
「……まずはさっきのを詳しく知りたいな。拓斗でもあるし、拓斗でもないっていう」
私はやや脱力して、後ろ手をつきながら天井を(つまり、フローリングの床を)見上げた。座ったまま上を見続けるのは思いのほか首が疲れるのである。
「この肉体は主さまが拓斗と名づけた猫のもの。しかしいま主さまと話をしているこの魂は、猫のものではないということでさ」
たましい。たましいね。
「じゃあ、そのたましいの、つまりあなたの名前は?」
「いくら主さまといえどそれは言えぬというもの。魔術師の端くれの名を知りたければ、相応の代償が必要になりやすぜ」
魔術師。その端くれ。どこかで聞いたような。
「……まさか、たまの#兄弟子__あにでし_#?!」
「はて。たまという名はとんと知らぬけれども、たしかにおいには弟弟子がおりますな」
そう言ってくわあとあくびをする拓斗。こっちは悲惨な状況なのにまるでリラックスしている。
あの弟子あってこの兄弟子ありだよ、ほんとにもう!
※
「でもいったいぜんたいどうしてたまの兄弟子が、うちの拓斗の中に」
たまの兄弟子、とは呼びづらいので、いったん拓斗と呼び続けることにした。
「いつから? 三年前、私が拾う前から猫の拓斗の中にいたわけ」
「否。おいがこのネコに入ってしまったのは、おそらく主さまの言う三年前、雨の日のすぐあとのことでして。以前ではないでさ」
てことは私が拓斗と過ごしたおよそ三年間。そのほとんどの時間は、こいつとの時間だったというわけか。
どうりでやけに人間くさいわけだよ。えさをねだるのうまいし、絶妙なタイミングで私の邪魔をするし。子どもが拗ねるようなときに厄介なことしてきたもんなあ。朝の忙しい時間にメイクしてる膝に入って構ってよというふうに見上げてきたり、携帯で上司と話してる間に手帳の上に座ったり。
「で、肝心の理由は? ほかにも猫はいるでしょ。なんでうちの拓斗だったのよ」
「ふむ。それを話すには別のことから話さねばならんでしょうな。ものごとには順序というものがありやすでな」
こういう言い回し、いかにもたまの兄弟子だ。私はため息をついて、どうぞというようにあごを上げた。とっくにやけっぱちである。
「おいと弟弟子、主さまの言葉を借りればタマは、アレクシスとともに暮らしていた。さまざまな理由でわれら三人はどちらかというと世間から爪弾きにされていやしたが、かといって町を歩けば石を投げられるというほどではなく、そこそこうまくやっていたんでさ」
「スヌキシュっていう砂漠の町でってことね」
「左様でさ。なんだ、ご存知であったのか」
私は投げやりに首を横に振る。たぶん私はこのできごとや背景の一面しか知れていない。それも憶測が大きいままに。
あらゆる角度からの説明がほしかったので、説明を端折られるような口出しは慎むべきだった。
ククルージャに転移させられて、豚の奴隷商人のもとアレクシスを目指そうとしたころが懐かしい。満月のあの夜、脱獄するときは緊張したけど、今なら百回だって脱獄できる気持ちだ。
「おいやタマの魔力もずば抜けたものだったが、アレクシスのそれは異次元のものなんでさ。努力や修練でどうなるものもない、圧倒的なもの。たとえば竪琴弾きにしたって、ある程度はたゆまぬ修練で上達もするが、それにも限界、頭打ちがある。生まれ持った音への近さはいかんともしがたい。土台から違うのだ。おわかりか主さま」
「なんとなくなら」
私は楽器はまったく弾けない。どころか楽譜もまともに読めないけど、まわりにピアノを習っている子や上手な子は何人かいた。
みんな私からすればプロになれるんじゃないかというくらいなのに、口を揃えて言うのだ。上には上がいる。生まれ持った才能を持つ天才を見てしまえば、趣味にしておく諦めもつくんだよと。それと似てるのかもしれない。
「おいたちの師アレクシスは優れた魔術師だった。だが優れた技術には、それを制御する優れた心が伴わなければならぬ。師にはそれがなかったのでさ」
「なかった?」
「ない、というよりは足りぬ、あるいは成長途上と言うべきか。おいにはうまく形容する言葉が見つからぬ。とにかく人とうまく関われないというきらいがあった。加えて師は昼に休息をとり夜に動くというたちでもありやした。だからおいたち弟子が店番をつとめ、師はものを用意するという分担はとても自然なことでやした。けれどもある日、ある騒動が起こりやしてねえ。それを解決しようとおいたちが店を空けたんですが、帰ったときには、家にひとり残っていた師はその魂を飛ばしてしまっていたのでさ」
「たましいをとばす」
「そう。ああそうだ、主さまのこの世界では、魔術や魂という概念は存在せぬのでしたねえ。いや、かつてはしていたが、失われたというべきでしょうかねえ」
私はどう答えたらいいかわからず、あいまいに首を傾けた。
「おいがこの世界にきて、主さまと暮らす中、この世界のものごとをいくらか知ることができた。四角い黒い板……テレビや小説など、見させてもらっていたでな。それらを総括すると、魂というものへの考え方はまあおおむね同じようなものと言える」
私は慌てた。
「ちょっと待って、テレビに本? どういうこと」
「主さまが仕事に出かけている合間にの。こう、爪でちょいちょいとな」
拓斗はテーブルの上のリモコン、赤い電源ボタンに爪を引っ掛けるようにして操作するそぶりを見せた。かつかつ、という無機質な音。ひさびさに耳にした、人工物どうしの音だ。拓斗はそれから尻尾をゆらして棚にある小説を示した。よくある三段タイプの白いカラーボックス。私の好みのラインナップで、児童向けファンタジーや時代小説、少女マンガなどが詰め込まれたものを。
「特にそれ、その下段のものは魂というものを高い質であらわせていやしたよ。まるでおいたちの世界を覗いてきたかのようでやした」
拓斗の言う下段は、今の私にとっては最上段だ。言われて目をやると、それは小学生から大人まで幅広い層に読まれている伝奇ファンタジーだ。アニメ化もしている。読みやすいのに濃厚な世界観で、私が中学生のときからのお気に入りの。
「……じゃあもしかしたら、作者は見てきたのかもね」
あんたの世界をさ。と遠い目をして私は言い放つ。私だって今回の一連を小説にしたら、けっこうなものになるのでは、なんて投げやりに考えたりした。
それにしてもなんてことだ。ときどき本を読み返したときはやけに猫の毛が挟まってるなあと思っていれば、読まれていたとは。まるで外国からの留学生のように、日本の文化を学んでいたのね。
猫ってほんと、飼い主がいない間に何をしてるか知れやしない!
私は心底呆れたけど、いまはそこにこだわってる場合ではない。話を丸呑みするように辛抱強く目を瞬いた。
「……それで。アレクシスがたましいを飛ばして、それからどうしたの」
「うむ。おいたち弟子はそれぞれの方法で、師の魂を取り戻すために行動したのでさ」
「それぞれに? 協力してるんじゃないの」
「しませぬよ。おいたちは別々の目的があって弟子をしておりやす。店番などは別だが、基本的には不干渉が不文律」
そういうものなのか。師匠の一大事ならば、協力をしてでも早く取り戻すものではと不思議に思ったが、拓斗の口調はゆるぎないものだったので口を挟まないでおいた。
「ゆえにタマがどういう手法を用いて師を取り戻そうとしたのかは、おいの知るところではない。だが主さまを見たところ、そういうことなのであろ」
「嵐のような私のここまでの出来事を、一言で片付けてほしくないんだけど!」
「とにかくおいは、師の魂そのものを追いかける術を施した。代償はあるがもっとも有効と判断したためだ。その結果がこれであるわけでさ」
「待って。飛躍してる。アレクシスの魂を追いかけて、どうして縁も縁もない拓斗の身体に入っちゃうわけ?」
話は途中までは理解した。優秀だったアレクシス、心が不安定な彼女に何事か起こり、魂を飛ばしてしまい、それを追いかけて二人の弟子たちが動いた。そこまではいい。
しかしそこからいったいどう捨て猫の拓斗に関わり、ひいては一般OLの私が巻き込まれなければならないのか。
「おいは師の魂がもっとも強く感じられるところに、おいの魂もまた飛ばしたんでさ。必要であるなら次元を超えて、時もまた越えて、スヌキシュに戻れるように。そういう術式。いわば綱をつけ溟渤に潜るようなもの。師のぶんの綱も持って、師を見つけたら綱をくくりつけて戻せるように。そうして気づけばおいはこの状態だったもんで。つまりはアレクシスが強く魂を揺らした対象がこの猫だったんでしょうねえ」
優秀な魔女が、ショッキングなことがあって、魂を飛ばして、異世界で猫に心を揺らされた?
「……ね、猫好きだったのかな」
「さて。ネコなるものは存在せぬのでなんとも。チュムニが好きだったと記憶しておりやすがねえ」
チュムニがどんな動物なのかを聞き返す気にはなれなかった。ふわふわとした会話になったが、仕方ない。私は拓斗の語る、荒唐無稽な話を事実として受け止めようと必死なのだ。
「おいができることはここで打ち止め、手詰まりなんでさ。だからこの先は、主さまに尋ねてみてほしいんでさ。どうしてこんなことになっているのか」
「尋ねるって私が? だれに」
それはもちろん、と拓斗は優雅に尻尾を揺らした。高貴な外国の貴族の夫人が、扇子で仰ぐように。
そして部屋のあちこちを示すように尻尾がゆらめいた。ベッドの脇、うずくまった体勢のままの小さな人形が再び私の目に入る。
「この部屋にいるはずの、おいたちの師、アレクシスに」
拓斗である。
わけのわからない世界に飛ばされてからも、ずっと帰りたかった目的でもあり、癒しでもあった拓斗が、目の前に。
目の前っていうか、天井に。
いや天井っていうか床に? あれ、天井ってなんだっけ?
「どうしたんでさ主さま。いや、主さまの魂というべきでしたか。狐につままれたようなお顔をしていらっしゃる」
首を傾げて、本来の床から文字通り私を見上げる茶色いトラ猫の拓斗は、やっぱりしゃべっているように見える。不思議な声だ。高めの声なのにゆったりと独特の抑揚で話すせいか、酸いも甘いも知った老年の教師のような落ち着きがある。なのに少女の声と言われればそうも思えるし、少年の声と言われてもやはり納得がいくような。
丁寧な口調はしかし、相手を煙に巻くようなからかうような飄々とした印象も同時に受ける。
私はきりきりとする頭の痛みに、拓斗を見ながら思わずこめかみをもんだ。孫悟空の輪っかで締め付けられてる感じ。
右手で挟むようにもんだんだけど、その手のひらにも穴は開いたままだったから天井の拓斗は見えたままで、やっぱり頭痛がした。
私が異世界に行ってる間に、日本では猫が話すようになったのか?
「……拓斗」
「ほいな」
「拓斗なの?」
「是とも否とも言えるところでさ」
頭痛が増した。
「なにやら得心のいかぬ顔でらっしゃる。よろしい、おいに答えられることであれば答えて進ぜる」
おい、というのが彼の一人称なのだと理解するまでたっぷり十秒かかった。
たぶん私は困った顔をしていたのだと思う。マタイの福音書を暗唱するニジマスを釣ってしまった釣り人のように。
拓斗はそれから、右足を顔の前に持ち上げてひとしきりじっと見つめてから、ゆったりとした動作で顔を洗い出した。私はそのしぐさを見て、ようやくそのしゃべる猫が私のよく知る拓斗と同じものなのかもしれないと思えた。
というのも拓斗にはちょっとした癖があって、顔を洗うときははじめに必ず肉球と爪のあいだをじっくりとチェックしてからするのだ。女子がマニキュアの剥がれぐあいを確認するみたいに。そしてその肉球に何の不都合も変化もないことを確かめてからようやく、貴婦人のごとき優雅さとスピードで腕で顔を往復させるのだ。
猫カフェや友達の猫などいろんな猫を見てきたけど、その人間じみた癖は拓斗ならではのものだった。
つまり目の前にいるこの猫は、私が三年前にどしゃぶりの雨の日に拾ったあのトラ猫に間違いない。ちょっと今はしゃべるってだけで。
ちょっと今はしゃべるだけで?
私は首を横に振りながら息を吐いて、仕方なく笑った。どうにでもなれ。
「……まあ、聞きたいことは山ほどあるけど。いったん拓斗に触りたい。もふもふに包まれて猫くさい匂いを感じたい。拓斗の耳のうしろに口をくっつけて息をふーふーしたい。肉球の香ばしいにおいを嗅いでから撫で回したい」
「相変わらずで何よりでさ。おいもブラシをかけてほしいのは山々なんですがね、主さま。見てのとおりおいたちは今、逆立ちしたって触れ合えないんでさ」
そう。文字通り、逆立ちしたって触れ合えない。天井と床に引き裂かれた主従、まるでロミオとジュリエット。映画化は無理そうだ。
「……まずはさっきのを詳しく知りたいな。拓斗でもあるし、拓斗でもないっていう」
私はやや脱力して、後ろ手をつきながら天井を(つまり、フローリングの床を)見上げた。座ったまま上を見続けるのは思いのほか首が疲れるのである。
「この肉体は主さまが拓斗と名づけた猫のもの。しかしいま主さまと話をしているこの魂は、猫のものではないということでさ」
たましい。たましいね。
「じゃあ、そのたましいの、つまりあなたの名前は?」
「いくら主さまといえどそれは言えぬというもの。魔術師の端くれの名を知りたければ、相応の代償が必要になりやすぜ」
魔術師。その端くれ。どこかで聞いたような。
「……まさか、たまの#兄弟子__あにでし_#?!」
「はて。たまという名はとんと知らぬけれども、たしかにおいには弟弟子がおりますな」
そう言ってくわあとあくびをする拓斗。こっちは悲惨な状況なのにまるでリラックスしている。
あの弟子あってこの兄弟子ありだよ、ほんとにもう!
※
「でもいったいぜんたいどうしてたまの兄弟子が、うちの拓斗の中に」
たまの兄弟子、とは呼びづらいので、いったん拓斗と呼び続けることにした。
「いつから? 三年前、私が拾う前から猫の拓斗の中にいたわけ」
「否。おいがこのネコに入ってしまったのは、おそらく主さまの言う三年前、雨の日のすぐあとのことでして。以前ではないでさ」
てことは私が拓斗と過ごしたおよそ三年間。そのほとんどの時間は、こいつとの時間だったというわけか。
どうりでやけに人間くさいわけだよ。えさをねだるのうまいし、絶妙なタイミングで私の邪魔をするし。子どもが拗ねるようなときに厄介なことしてきたもんなあ。朝の忙しい時間にメイクしてる膝に入って構ってよというふうに見上げてきたり、携帯で上司と話してる間に手帳の上に座ったり。
「で、肝心の理由は? ほかにも猫はいるでしょ。なんでうちの拓斗だったのよ」
「ふむ。それを話すには別のことから話さねばならんでしょうな。ものごとには順序というものがありやすでな」
こういう言い回し、いかにもたまの兄弟子だ。私はため息をついて、どうぞというようにあごを上げた。とっくにやけっぱちである。
「おいと弟弟子、主さまの言葉を借りればタマは、アレクシスとともに暮らしていた。さまざまな理由でわれら三人はどちらかというと世間から爪弾きにされていやしたが、かといって町を歩けば石を投げられるというほどではなく、そこそこうまくやっていたんでさ」
「スヌキシュっていう砂漠の町でってことね」
「左様でさ。なんだ、ご存知であったのか」
私は投げやりに首を横に振る。たぶん私はこのできごとや背景の一面しか知れていない。それも憶測が大きいままに。
あらゆる角度からの説明がほしかったので、説明を端折られるような口出しは慎むべきだった。
ククルージャに転移させられて、豚の奴隷商人のもとアレクシスを目指そうとしたころが懐かしい。満月のあの夜、脱獄するときは緊張したけど、今なら百回だって脱獄できる気持ちだ。
「おいやタマの魔力もずば抜けたものだったが、アレクシスのそれは異次元のものなんでさ。努力や修練でどうなるものもない、圧倒的なもの。たとえば竪琴弾きにしたって、ある程度はたゆまぬ修練で上達もするが、それにも限界、頭打ちがある。生まれ持った音への近さはいかんともしがたい。土台から違うのだ。おわかりか主さま」
「なんとなくなら」
私は楽器はまったく弾けない。どころか楽譜もまともに読めないけど、まわりにピアノを習っている子や上手な子は何人かいた。
みんな私からすればプロになれるんじゃないかというくらいなのに、口を揃えて言うのだ。上には上がいる。生まれ持った才能を持つ天才を見てしまえば、趣味にしておく諦めもつくんだよと。それと似てるのかもしれない。
「おいたちの師アレクシスは優れた魔術師だった。だが優れた技術には、それを制御する優れた心が伴わなければならぬ。師にはそれがなかったのでさ」
「なかった?」
「ない、というよりは足りぬ、あるいは成長途上と言うべきか。おいにはうまく形容する言葉が見つからぬ。とにかく人とうまく関われないというきらいがあった。加えて師は昼に休息をとり夜に動くというたちでもありやした。だからおいたち弟子が店番をつとめ、師はものを用意するという分担はとても自然なことでやした。けれどもある日、ある騒動が起こりやしてねえ。それを解決しようとおいたちが店を空けたんですが、帰ったときには、家にひとり残っていた師はその魂を飛ばしてしまっていたのでさ」
「たましいをとばす」
「そう。ああそうだ、主さまのこの世界では、魔術や魂という概念は存在せぬのでしたねえ。いや、かつてはしていたが、失われたというべきでしょうかねえ」
私はどう答えたらいいかわからず、あいまいに首を傾けた。
「おいがこの世界にきて、主さまと暮らす中、この世界のものごとをいくらか知ることができた。四角い黒い板……テレビや小説など、見させてもらっていたでな。それらを総括すると、魂というものへの考え方はまあおおむね同じようなものと言える」
私は慌てた。
「ちょっと待って、テレビに本? どういうこと」
「主さまが仕事に出かけている合間にの。こう、爪でちょいちょいとな」
拓斗はテーブルの上のリモコン、赤い電源ボタンに爪を引っ掛けるようにして操作するそぶりを見せた。かつかつ、という無機質な音。ひさびさに耳にした、人工物どうしの音だ。拓斗はそれから尻尾をゆらして棚にある小説を示した。よくある三段タイプの白いカラーボックス。私の好みのラインナップで、児童向けファンタジーや時代小説、少女マンガなどが詰め込まれたものを。
「特にそれ、その下段のものは魂というものを高い質であらわせていやしたよ。まるでおいたちの世界を覗いてきたかのようでやした」
拓斗の言う下段は、今の私にとっては最上段だ。言われて目をやると、それは小学生から大人まで幅広い層に読まれている伝奇ファンタジーだ。アニメ化もしている。読みやすいのに濃厚な世界観で、私が中学生のときからのお気に入りの。
「……じゃあもしかしたら、作者は見てきたのかもね」
あんたの世界をさ。と遠い目をして私は言い放つ。私だって今回の一連を小説にしたら、けっこうなものになるのでは、なんて投げやりに考えたりした。
それにしてもなんてことだ。ときどき本を読み返したときはやけに猫の毛が挟まってるなあと思っていれば、読まれていたとは。まるで外国からの留学生のように、日本の文化を学んでいたのね。
猫ってほんと、飼い主がいない間に何をしてるか知れやしない!
私は心底呆れたけど、いまはそこにこだわってる場合ではない。話を丸呑みするように辛抱強く目を瞬いた。
「……それで。アレクシスがたましいを飛ばして、それからどうしたの」
「うむ。おいたち弟子はそれぞれの方法で、師の魂を取り戻すために行動したのでさ」
「それぞれに? 協力してるんじゃないの」
「しませぬよ。おいたちは別々の目的があって弟子をしておりやす。店番などは別だが、基本的には不干渉が不文律」
そういうものなのか。師匠の一大事ならば、協力をしてでも早く取り戻すものではと不思議に思ったが、拓斗の口調はゆるぎないものだったので口を挟まないでおいた。
「ゆえにタマがどういう手法を用いて師を取り戻そうとしたのかは、おいの知るところではない。だが主さまを見たところ、そういうことなのであろ」
「嵐のような私のここまでの出来事を、一言で片付けてほしくないんだけど!」
「とにかくおいは、師の魂そのものを追いかける術を施した。代償はあるがもっとも有効と判断したためだ。その結果がこれであるわけでさ」
「待って。飛躍してる。アレクシスの魂を追いかけて、どうして縁も縁もない拓斗の身体に入っちゃうわけ?」
話は途中までは理解した。優秀だったアレクシス、心が不安定な彼女に何事か起こり、魂を飛ばしてしまい、それを追いかけて二人の弟子たちが動いた。そこまではいい。
しかしそこからいったいどう捨て猫の拓斗に関わり、ひいては一般OLの私が巻き込まれなければならないのか。
「おいは師の魂がもっとも強く感じられるところに、おいの魂もまた飛ばしたんでさ。必要であるなら次元を超えて、時もまた越えて、スヌキシュに戻れるように。そういう術式。いわば綱をつけ溟渤に潜るようなもの。師のぶんの綱も持って、師を見つけたら綱をくくりつけて戻せるように。そうして気づけばおいはこの状態だったもんで。つまりはアレクシスが強く魂を揺らした対象がこの猫だったんでしょうねえ」
優秀な魔女が、ショッキングなことがあって、魂を飛ばして、異世界で猫に心を揺らされた?
「……ね、猫好きだったのかな」
「さて。ネコなるものは存在せぬのでなんとも。チュムニが好きだったと記憶しておりやすがねえ」
チュムニがどんな動物なのかを聞き返す気にはなれなかった。ふわふわとした会話になったが、仕方ない。私は拓斗の語る、荒唐無稽な話を事実として受け止めようと必死なのだ。
「おいができることはここで打ち止め、手詰まりなんでさ。だからこの先は、主さまに尋ねてみてほしいんでさ。どうしてこんなことになっているのか」
「尋ねるって私が? だれに」
それはもちろん、と拓斗は優雅に尻尾を揺らした。高貴な外国の貴族の夫人が、扇子で仰ぐように。
そして部屋のあちこちを示すように尻尾がゆらめいた。ベッドの脇、うずくまった体勢のままの小さな人形が再び私の目に入る。
「この部屋にいるはずの、おいたちの師、アレクシスに」
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