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第4章 Where to Return

第54話 ワカタレタミチ

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 その日の夜。ハルは書庫の奥で、ある資料に目を通していた。
 本棚に備えつけられたカウンターに資料を広げ、暗がりの中で小さなスタンドライトの明かりを頼りに資料をめくる。
 はじめはただの興味本位だった。
 だが資料を読み進めるほどに、なんとも言い尽くせない複雑な感情が胸に迫ってくる。

 記されていたのは、闇に葬られた組織の黒い歴史。
 それはけっして表沙汰にはならない非人道的な実験の記録と、その犠牲者の詳細な名簿だった。

 きっと、自分で調べなければ誰も教えてくれなかっただろう。
 わずかな成功の裏に隠された凄惨な結末から、ハルは何度も目を背けたい衝動に駆られた。
 だがスペランツァであるということは、この現実を受け止めなければいけない義務があるように思えて仕方がなかった。そしてそこに、両親の死の真相も記されているかもしれない。
 ハルは頬を伝う涙をぬぐうことも忘れて、資料の文字を追った。

「ぅ……、っふぅ……!」

 こみ上げてきた吐き気と嗚咽を飲み込んで、ハルは冷たい床に座りこむ。
 心は限界を訴えていた。
 そのとき、書庫のセキュリティが解除され、人が入ってくる気配がする。
 ハルは慌ててカウンターの下に身を隠すと、両手を唇に押し当てて息をひそめた。けっして悪いことをしていたわけではないはずなのに、罪悪感に押しつぶされそうになる。
 徐々に近づいてくる足音に、ハルはさらに身を小さくした。
 暗がりに響く足音の主が、カウンターの上に放置したままの資料を見ている気がした。

「……ハル?」
「っ……!」

 ハルは無意識に息を止める。
 レンがカウンター下を覗きこむようにして膝を曲げていた。

「ったく……。一人で泣くなって、前に言ったよな?」

 そう言ってレンは小さく息をつくと、眉を下げたままハルへと手を差しのべた。

「おいで、ハル」

 レンの呼びかけに、ハルはおずおずと唇から手を離した。
 震える指先がふれた瞬間、つかまれた腕を強く引かれる。ハルに抗うすべはない。
 背中に回された腕に抱きすくめられるまま、ハルは包みこむようなぬくもりにぽろぽろと涙をこぼした。とめどなくあふれる涙が、暗がりの中の二人を濡らしていく。

「一人でいることに慣れるなよ、ハル」

 かすれた声でそう言うレンは、泣きじゃくるハルの体をきつく抱きしめた。



 他人に甘えることに不器用なハルに、レンはいつだって手を差しのべてくれた。
 どこにも吐き出せない不安にいち早く気づいてくれるのも、涙も弱音も全部まとめて受け止めてくれるのも彼だった。
 訓練の過程で時には厳しい表情を見せることもあったが、褒めてくれることのほうが断然多くて。それがスペランツァとなって間もないハルの自信にもつながっていったのだ。

 初めて武器の具現化に成功したときも、一番によろこんでくれたのは彼だった。
 まばゆい赤い光とともに現れた、ハルの手に握られた剣を見るや否や、それこそ自分のことのようによろこんでくれた。

「ハルも、俺とおんなじだな」

 大きな手のひらが、ぽんぽんと頭の上で軽く上下する。
 彼は顔をほころばせて、切れ長の目を本当にうれしそうに細めていた。
 それからは毎日のように、彼と一緒に鍛練に励んだ。
 剣という同じ武器を扱う者同士、彼からは学ぶことばかりで。武器の扱い方から身のこなし方、戦闘におけるさまざまなことを彼から教えてもらった。

 そうして必然的に、ハルは初めて戦場へと降り立つ。

「レン、ハルのサポートお願いね」

 大鎌を肩に担いで、ホノカが仁王立ちのままそう言った。自信に満ちあふれた横顔が、まっすぐに敵の群れを見つめている。

「お前も無茶するなよ、ホノカ」
「誰に言ってるのよ」

 ホノカがフッと笑って口角を上げる。片手で易々と大鎌を構えると、ホノカは「出るわ!」とだけ残して駆けだした。

「ハル、俺たちも行くぞ」

 レンの言葉に、ハルはごくりと乾いた空気を飲みこんだ。手にした剣のグリップを強く握る。
 体中にのしかかる緊張やプレッシャー。言い知れぬ恐怖で体が震える。肌を突き刺すような戦場の空気に、いまにも飲みこまれそうだった。

「大丈夫。お前ならできるよ」

 小さく震える手を力強く包みこんだぬくもりに、ハルはゆっくりと息を吐いた。
 彼のまっすぐな視線と微笑みに、少しずつ心は落ち着きを取り戻していく。
 握られた手は、やっぱり大きくてあたたかかった。



 レンとホノカとハル。三人はたしかに特別な絆でつながっていた。三人でよくふざけあってマリアに叱られたのが、そう遠くない日の思い出のような気がしてならない。
 こうやっていつまでも三人でいられるものだと、当時は信じてやまなかった。

 最後に彼を見たのは、いつだっただろう。

 あの日、優しかったはずの彼は、ひどくいびつな顔で笑っていた。妖しく細められた瞳の奥は、光を失っていた。
 口から滴る赤い液体を、彼は袖口で乱暴にぬぐい取る。
 足元に転がる死体は、いったいなにを物語っているのか。
 答えはひどく簡単だった。
 だがそれを認めたくはなかった。
 彼から答えを聞けぬまま、日々は淡々と過ぎていく。

 突如として館内に鳴り響くサイレンに、一縷いちるの望みをかけてハルは屋上へと駆け上がる。
 追いかけた背中が、そこにあった。

「おいで、ハル。一緒に行こう」

 そう言った彼の顔が、憎悪を秘めた哀しみの色に揺らいでいた。懇願するようなまなざしが、ハルの心を締めつける。
 どうしても、差しのべられた手を取れない。
 なにが正しいのかなんて、わからなかった。

「っ……、行けないよっ……!」

 声を震わせながら涙を流すハルに、彼は困ったような表情で笑っていた。

「必ず迎えにくる。だから泣くなよ、ハル」
「レンっ……!」

 空の彼方へと去りゆく背中は闇に飲まれていく。
 彼の名を叫びつづけたこの声はもう、届かない。


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