上 下
53 / 63
第4章 Where to Return

第53話 フタリボッチ

しおりを挟む
「ハル、ちょっと出かけないか?」

 あるとき、レンが唐突にそう言った。
 基本的にスペランツァは、急な出撃に備えて本部の敷地から出ることは少ない。そう聞かされていたハルは、レンの誘いにすぐにうなづくことができなかった。

「……怒られない?」
「ははっ、マリアさん怒ると怖いもんな。大丈夫。マリアさんには許可もらってるから、安心していいよ」

 そう言ってレンは、再度ハルの返答を促した。戸惑いつつも応じるハルに手を差しのべて、レンはふんわりと微笑みをこぼす。

「まぁ半分は俺の仕事ついでだから、ハルを付き合わせることになるんだけど」

 そう言いつつも、「息抜きにはなるだろ?」とレンはハルの手を取って歩きだした。

「あら、あんたたち、もしかして外行くの?」

 車庫へと向かう廊下の手前で出会ったホノカに、レンは行き先を濁して肯定する。

「だったらお土産よろしくね。駅前にできたカフェの限定スイーツでいいわよ」
「遠いな」

 間髪入れずに返すレンに、ホノカはしたり顔で笑ってみせると、ポンポン、とハルの頭を軽く小突いた。

「せっかくのおでかけなんだから、楽しんできなさいよ、ハル」

 手を振って去っていくホノカのうしろ姿を見送って、ハルはレンに導かれるままに白いスポーツカーの助手席へと乗りこんだ。



 低いエンジン音を響かせながら、車は険しい山道を下っていく。
 知らない町並みを車窓から眺めながら、ハルはカーラジオから聞こえる流行りの音楽に耳を傾けた。
 本部の所在地からふたつ隣の町は、どこにでもあるありふれた町並みをしていて、既視感に懐かしささえ覚える。

「着いたよ」

 レンがハンドルをきって車体を乗り入れたのは、高い壁と有刺鉄線に周囲を囲まれた場所だった。
 敷地の中心には、コンクリート造りの五階建ての建物がそびえ立っている。

「……わたし、ここ知ってる気がする」

 おもわず口をついて出た言葉に、一瞬レンの動きが止まる。

「あ、でも似たような建物なんていくらでもあるよね」

 レンの表情がわずかに曇ったのを見逃さなかったハルは、慌ててそう訂正する。
 だが乾いた笑顔でごまかそうとするも、レンの「本当はマリアさんに口止めされてるんだけど」という言葉に、ハルも動きを止めて彼を見つめた。

「ここは、ハルのご両親が勤めていた場所だよ」
「っ……!」

 言葉が続かなかった。
 家を不在にしがちだった両親が、研究者だったことは知っている。その二人が、そろって実験中の事故に巻きこまれたことも。
 だがまさか二人の勤務地が、組織の関連施設だったとは思いもよらなかった。

「さ、行こう。面倒な仕事は、さっさと終わらせたいからな」

 そう言って車から降りたレンに続いて、ハルも小走りで彼のあとを追う。
 エントランスのセキュリティを抜け、レンは慣れた様子で施設の中へと進んでいった。

「ハル、俺から離れるなよ」
「ぅ、うん……」

 差し出された手を取って、前を行くレンを追いかける。
 レンに聞きたいことは山ほどあった。だが彼がマリアに口止めされていた以上、両親について直接的ななにかを聞ける雰囲気ではない。
 その代わり、ハルは施設に入ってからの疑問をレンにぶつけた。

 ここはなんの施設なのか、と。

 ハルの問いに、レンは廊下の真ん中で足を止める。
 なんの変哲もない白い廊下。
 左右の壁には同じようなドアがいくつもならび、そのすぐ横には開かない窓が設置されていた。窓から見える室内には、簡素なパイプベッドがひとつだけ。
 一見すれば病院の個室のようにも見える。
 ただ、はめ殺しの窓を覆う鉄格子と、本来室内にあるべきカーテンが廊下側に取りつけられていることを除けば。

「ハル、おいで」

 そう言ってレンは、カーテンの閉められた窓のひとつへと近づいた。ハルの手を引いて、鉄格子の前へと立たせる。

「ここで見たことは、他言無用だよ」

 ハルがうなづくのを確認すると、レンは静かにカーテンのふちに手をかけた。
 音もなくゆっくりとひらかれていく視界。
 鉄格子とぶ厚いガラスの向こうで、一人の女が下着姿のままベッドの上でうずくまっていた。
 小さく息を飲んだハルの存在に気がついたのか、女が気だるそうに頭をひねる。
 白い素肌にまとわりつく長い赤毛のすき間から、女のぎらついた視線がハルの姿をとらえる。
 次の瞬間、女はベッドから飛び降りるといきおいよく窓へと体当たりした。ガラスに張りつくようにして、驚愕で動けないハルを舐めるように見下ろしている。

「っひ……!?」

 恐怖で弾かれたように後ずさるハルをうしろから抱きとめ、レンはすばやくカーテンを閉じて両者の視線をさえぎった。
 同時に空気を震わせた女のものとおぼしき甲高い笑い声に、足の震えが止まらない。
 女の声に呼応するかのように、周囲の個室からも笑い声や叫び声がけたたましく響いていた。

「ぁ……、ぇと……」

 視線を泳がせてうろたえるハルの手をつかむと、レンは足早にその場をあとにする。
 遠のいていく笑い声を背に聞きながら、ハルは必死にその背中についていった。
 だがもつれた足が、床のわずかな段差につまずく。前のめりになる体を抱きとめたのは、前を向いていたはずのレンだった。
 彼はそのままハルを抱き寄せて、たどり着いたエレベーターホールの壁へと背中を預ける。

「ごめん。ハルにはまだ早かったな」

 そう言って深く息を吐き出したレンは、ハルの早くなった鼓動を落ち着かせるように、ゆっくりと彼女の背をさすった。
 廊下に響いていた複数の喧騒は、いつの間にか静寂を取り戻していた。

「要注意管理対象隔離措置」
「ぇ……?」

 聞きなれない言葉に、ハルはレンに体を預けたまま彼を仰ぎ見る。
 彼の闇色の瞳が、いつもより深く沈んでいるような気がした。

「ここは、キューブにシンクロできずに精神に異常をきたした子や、スペランツァとして認められなかった子たちの、保護施設なんだ」

 キューブにかかわる重要機密。それを知る得体の知れない能力者を、野放しにはできない。
 だからこの施設が作られたんだと語るレンは、わずかに目を伏せて悲しそうに笑った。

「俺たちは、ただ運が良かっただけ……」

 力なくそう言ったレンが、すがるようにハルの体を抱きしめる。
 レンに抱きすくめられたまま、ハルは言葉の意味を理解すると同時に、彼の肩口にひたいを押しつけた。
 一歩間違えれば、自分もこうなっていたかもしれない。
 死すらも予感させたキューブとのシンクロテスト。
 キューブドロップの存在を確認したあと、ユキノリが発した「おめでとう」の言葉が意味するもの。
 それを思うと、スペランツァであることが急におそろしくなった。


しおりを挟む

処理中です...