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第3章 Distance of Mind

第44話 リグレット

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◇◇◇◇◇


 誰もが想定していなかった契約の失敗。箝口令が敷かれたその事件から、二日ほどが経過していた。
 ハルが遠慮がちにインターホンを鳴らすと、すぐにアキトがドアを開けて笑顔で出迎えてくれる。

「いらっしゃい、ハル。調子はもういいの?」
「うん。わたしはなんともないみたい」
「そっか、よかったね。ホノカー、ハル来たよー」

 アキトの言葉に、部屋の奥でくつろいでいたらしい人影が、ソファの背もたれ越しに、のそりと顔を覗かせた。
 次の瞬間、玄関かまちに片足をかけたハルの動きが止まる。まるで時間が止まったかのように、彼女は一点を見つめたまま固まってしまっていた。

「ハル? どうしたの? 上がらないの?」

 その場から動こうとしないハルにアキトが入室を促せば、彼女はぽかんと口を開けたまま目線の先を指さした。

「アキト……、あれ、誰?」
「…………」
「…………」
「……っふ、あっははははっ!」

 ハルのきょとんとした発言に、アキトはおもわず声を上げて笑った。よほどツボにはまったらしく、息を吸うのも苦しそうで、自分の膝をバシバシとたたいている。

「ちょっと! そんなに笑うことないじゃない! たまにはスッピンでいたいときもあんのよ!」

 腹をかかえて笑い崩れるアキトの態度が気に食わなかったのか、ホノカはソファの上からキッ、と彼をにらみつける。

「え、ホノカ……?」
「ひぃいっ! っはははははぁっ!」

 アザラシのぬいぐるみをかかえながら吠える彼女には、眉毛がなかった。いつもより小さく感じる目は、まぶたが若干腫れぼったい気がしないでもない。
 華やかに目元を彩っていたはずの長いまつげもいまは見当たらず、なんとも薄く野暮ったい印象のホノカに、ハルは自分の視力を疑ってしまったくらいだ。

「あー! もう! メイクすればいいんでしょ! 二度とスッピンなんかさらすもんか!」
「だからっ、ハルには、早めに見せとけば、って、言ったのにっ、ふはははっ!」

 いまだにヒイヒイと笑いつづけるアキトを尻目に、ホノカはソファの上に豪快にメイク道具をぶちまけた。

「ハル座んなよ。そこのバカはほっときなさい」

 ホノカに促されカーペットの上に腰を下ろしたハルは、ぼーっとホノカのメイク技術を眺めていた。

「女の子って化けるよねぇ。ハルはあんまり変わんないのに」

 やっと笑いの発作が落ち着いてきたアキトは、「あー苦しかった」と言いながら、目尻の涙をぬぐって近くのデスクチェアを引き寄せた。
 同時に顔面に向かって飛んできたアザラシのぬいぐるみを見事にキャッチすると、どこからか舌打ちが聞こえたような気がするのは、きっと空耳だろう。
 アキトはそのまま、ぬいぐるみと一緒に背もたれを抱きこむようにしてイスに座った。

「わたしはナチュラル派だもん。ホノカみたいに盛れないし」
「まぁ、僕は素朴なホノカも好きだけどね」
「はいはい、厚化粧で悪かったわね!」

 ホノカは悪態をつきながら、ガチャガチャとメイク道具をあさる。
 ふいにわざと覗きこむようにしてアキトの視界に無理やりフェードインしてやると、彼は再び小刻みに肩を震わせる始末だ。そんなアキトの態度に小さく舌を出し、ホノカはビューラーに手を伸ばす。

「そんなことよりハル。なにか用があったんじゃないの?」

 まつげをていねいに持ち上げながら、ホノカはアキトとのやりとりを楽しそうに笑って見ていたハルに問う。

 その瞬間、彼女の顔に少しばかり影が差した。

「シュウと喧嘩でもした?」
「や、違くて。……シュウには、あれから会ってないし……」

 失敗に終わった契約のあと、シュウはすぐさま検査のために隔離されることとなった。生身の人間がキューブの強烈な光にさらされたのだ。体になにも異常がないとは言いきれない。
 ハルとしては、不謹慎ながらも数日におよぶ検査のおかげでシュウと顔を合わせることもなく、気まずい状況にならず少しばかり安堵している次第である。

「じゃあ、どうしたってのよ?」

 ホノカの言葉に、ハルは口をもごもごとさせながら視線を泳がせた。

「…………キョウヤが、怒ってるみたい、なんだよね……」

 ハルの言葉に、アイラインを引くホノカの手が止まる。
 ホノカは無意識のうちにアキトを見ていた。思い当たる節があるのか、彼もまた同じように彼女を見ている。

「自業自得だってのは、わかってるんだけど……」
「マリアに頼んで面会謝絶にしてもらったこと?」

 ホノカの指摘に、ハルは小さくうなづいた。
 気持ちの整理をつけるために、自分からキョウヤを遠ざけた。にもかかわらず彼への未練を捨てきれないのは、虫の良すぎる話かもしれない。

 すっかり落ちこんでしまったハルの頭を、アキトはぽんぽんと優しくなでた。その表情は困ったような、あいまいな笑みを浮かべている。

「ほんと、キョウヤも大人げないね」
「そーよ。ほっときなさい」

 つけまつげの位置を微調整をしながら冷たく言い放ったホノカの言葉に顔を上げれば、なぜか二人ともに微笑まれた。

「大丈夫だよ」
「ハルはハルのままでいなさい。あんたはなんにも悪くないわ」
「キョウヤもね、自分と向き合う時間が必要だから。そのうちいつもどおりに戻るよ、きっと」

 穏やかにかけられた言葉に、ハルは少しだけ心が楽になった気がした。

「あ、いつものホノカだ」
「ぷっふ……!」

 いつもの見慣れた顔をしたホノカにおもわずそんな言葉を漏らせば、近くで必死に笑いをこらえる声が聞こえてきた。
 片手で自分の視界をさえぎり小刻みに震えるアキトに向かって、ホノカはそばに転がっていたイルカのぬいぐるみを投げつける。
 顔面でそれを受け止めたアキトは、そのままふたつのぬいぐるみに顔をうずめて肩を揺らしていた。
 そんな二人のやりとりにつられて、いつしかハルも楽しそうに声を上げていた。

「で? 本題はそっちじゃないでしょ?」

 ホノカの言葉に、ハルの顔から再び笑みが消えた。
 無意識に顔は下を向いてしまう。膝に置いた手におのずと力が入る。

「…………」
「……どうして、契約の儀は失敗したのか」

 アキトの声に、ハルは小さくうなづいた。
 契約が失敗したという前例は、いままで一度もない。ハルをはじめ、今回の契約に立ち会った全員が、成功するものだと信じて疑わなかった。

 しかし結果は違った。

 キューブはあからさまな拒絶を示し、契約は中断を余儀なくされたのである。
 この事態に一番困惑しているのは、ハル自身なのだろう。

「原因なんてわかりきってるじゃない」

 ホノカのひと言に、ハルはおもわず彼女を見遣った。
 すべてを見透かしたような視線が、じっとハルを見つめている。


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